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史記 / 晋世家

晉太史董狐書曰「趙盾弒其君」,以視於朝。盾曰:「弒者趙穿,我無罪。」太史曰:「子爲正卿,而亡不出境,反不誅國亂,非子而誰?」孔子聞之,曰:「董狐,古之良史也,書法不隱。宣子,良大夫也,爲法受惡。惜也,出疆乃免。」趙盾使趙穿迎襄公弟黑臀于周而立之,是爲成公。成公者,文公少子,其母周女也。壬申,朝于武宮。成公元年,賜趙氏爲公族。伐鄭,鄭倍晉故也。三年,鄭伯初立,附晉而棄楚。楚怒,伐鄭,晉往救之。六年,伐秦,虜秦將赤。七年,成公與楚莊王爭彊,會諸侯于扈。陳畏楚,不會。晉使中行桓子伐陳,因救鄭,與楚戰,敗楚師。是年,成公卒,子景公據立。景公元年春,陳大夫夏徴舒弒其君靈公。二年,楚莊王伐陳,誅徴舒。三年,楚莊王圍鄭,鄭告急晉。晉使荀林父將中軍,隨會將上軍,趙朔將下軍,郤克、欒書、先縠、韓厥、鞏朔佐之。六月,至河。聞楚已服鄭,鄭伯肉袒與盟而去,荀林父欲還。先縠曰:「凡來救鄭,不至不可,將率離心。」卒度河。楚已服鄭,欲飲馬于河爲名而去。楚與晉軍大戰。鄭新附楚,畏之,反助楚攻晉。晉軍敗,走河,爭度,船中人指甚衆。楚虜我將智罃。歸而林父曰:「臣爲督將,軍敗當誅,請死。」景公欲許之。

新字:晋太史董狐書曰「趙盾弒其君」,以視於朝。盾曰:「弒者趙穿,我無罪。」太史曰:「子為正卿,而亡不出境,反不誅国乱,非子而誰?」孔子聞之,曰:「董狐,古之良史也,書法不隠。宣子,良大夫也,為法受悪。惜也,出疆乃免。」趙盾使趙穿迎襄公弟黒臀于周而立之,是為成公。成公者,文公少子,其母周女也。壬申,朝于武宮。成公元年,賜趙氏為公族。伐鄭,鄭倍晋故也。三年,鄭伯初立,附晋而棄楚。楚怒,伐鄭,晋往救之。六年,伐秦,虜秦将赤。七年,成公与楚荘王争彊,会諸侯于扈。陳畏楚,不会。晋使中行桓子伐陳,因救鄭,与楚戦,敗楚師。是年,成公卒,子景公拠立。景公元年春,陳大夫夏徴舒弒其君霊公。二年,楚荘王伐陳,誅徴舒。三年,楚荘王囲鄭,鄭告急晋。晋使荀林父将中軍,随会将上軍,趙朔将下軍,郤克、欒書、先縠、韓厥、鞏朔佐之。六月,至河。聞楚已服鄭,鄭伯肉袒与盟而去,荀林父欲還。先縠曰:「凡来救鄭,不至不可,将率離心。」卒度河。楚已服鄭,欲飲馬于河為名而去。楚与晋軍大戦。鄭新附楚,畏之,反助楚攻晋。晋軍敗,走河,争度,船中人指甚衆。楚虜我将智罃。帰而林父曰:「臣為督将,軍敗当誅,請死。」景公欲許之。

書き下し

晋の太史董狐書して「趙盾其の君を弑す」と曰ひ、以て朝に視す。盾曰く、「弑する者は趙穿なり。我罪無し」と。太史曰く、「子は正卿為り。而して亡げて境を出でず、反りて国の乱を誅せず。子に非ずして誰ぞ」と。孔子之を聞きて曰く、「董狐は、古の良史なり。書法隠さず。宣子は、良大夫なり。法の為に悪を受く。惜しいかな、疆を出でなば乃ち免れん」と。趙盾趙穿をして襄公の弟黒臀を周に迎へて之を立てしむ。是を成公と為す。成公は、文公の少子にして、其の母は周の女なり。壬申、武宮に朝す。成公の元年、趙氏に賜ひて公族と為す。鄭を伐つ。鄭晋に倍くの故なり。三年、鄭伯初めて立ち、晋に附きて楚を棄つ。楚怒り、鄭を伐つ。晋往きて之を救ふ。六年、秦を伐ち、秦の将赤を虜にす。七年、成公楚の荘王と彊を争ひ、諸侯を扈に会す。陳楚を畏れて、会せず。晋中行桓子をして陳を伐たしめ、因りて鄭を救ひ、楚と戦ひ、楚の師を敗る。是の年、成公卒し、子の景公拠立つ。景公の元年春、陳の大夫夏徴舒其の君霊公を弑す。二年、楚の荘王陳を伐ち、徴舒を誅す。三年、楚の荘王鄭を囲む。鄭急を晋に告ぐ。晋荀林父をして中軍に将たらしめ、隨会上軍に将たり、趙朔下軍に将たり、郤克・欒書・先縠・韓厥・鞏朔之を佐く。六月、河に至る。楚已に鄭を服し、鄭伯肉袒して与に盟ひて去ると聞き、荀林父還らんと欲す。先縠曰く、「凡そ鄭を救はんと来たる。至らざるは不可なり。将率心を離さん」と。卒に河を度る。楚已に鄭を服し、馬に河に飲ましむるを以て名と為して去らんと欲す。楚晋の軍と大いに戦ふ。鄭新たに楚に附き、之を畏れ、反って楚を助けて晋を攻む。晋の軍敗れ、河に走り、争ひて度る。船中の人の指甚だ衆し。楚我が将智罃を虜にす。帰りて林父曰く、「臣督将為り。軍敗るれば当に誅せらるべし。請ふ死せん」と。景公之を許さんと欲す。

現代語訳

晋の太史の董狐は「趙盾がその君を殺した」と記録し、それを朝廷で示した。趙盾は言った。「殺したのは趙穿だ。私に罪はない」。太史は言った。「あなたは正卿(筆頭の大臣)でありながら、逃げても国境を出ず、戻っても国を乱した者を罰しなかった。あなたでなくて誰の責任だというのか」。孔子はこれを聞いて言った。「董狐は昔の立派な史官だ。記録の原則に従って隠し立てをしなかった。宣子(趙盾)は立派な大夫だ。記録の原則のために悪名を受けた。惜しいことだ。国境を出ていれば罪を免れたのに」。趙盾は趙穿に命じて襄公の弟の黒臀を周から迎えさせ、君主に立てた。これが成公である。成公は文公の末子で、母は周の王室の女性である。壬申の日、武公の廟に参拝した。成公の元年、趙氏に公族の待遇を与えた。鄭を攻めた。鄭が晋に背いたからである。三年、鄭伯が即位したばかりで晋に付き、楚を見捨てた。楚は怒って鄭を攻め、晋は鄭を救いに行った。六年、秦を攻め、秦の将軍の赤を捕らえた。七年、成公は楚の荘王と勢力を争い、扈で諸侯を集めた。陳は楚を恐れて会に出なかった。晋は中行桓子(荀林父)に陳を攻めさせ、そのまま鄭を救って楚と戦い、楚軍を破った。この年、成公が亡くなり、子の景公拠が立った。景公の元年の春、陳の大夫の夏徴舒がその君の霊公を殺した。二年、楚の荘王が陳を攻め、夏徴舒を誅殺した。三年、楚の荘王が鄭を包囲し、鄭は晋に急を告げた。晋は荀林父に中軍を率いさせ、隨会が上軍を、趙朔が下軍を率い、郤克・欒書・先縠・韓厥・鞏朔が補佐した。六月、黄河に着いた。すでに楚は鄭を服従させ、鄭伯は上半身をあらわにして降伏して楚と盟約を結び、楚は去ろうとしていると聞いて、荀林父は引き返そうとした。先縠は言った。「そもそも鄭を救うために来たのだ。行き着かないのはいけない。将兵の心が離れてしまう」。そしてついに黄河を渡った。楚はすでに鄭を服従させ、黄河で馬に水を飲ませたという名目を得て去ろうとしていた。楚は晋軍と大いに戦った。鄭は楚に付いたばかりで楚を恐れていたので、逆に楚を助けて晋を攻めた。晋軍は敗れて黄河へ逃げ、先を争って渡ろうとした。船べりにしがみつく者の指を切り落としたので、船の中には指がおびただしく落ちていた。楚はわが将軍の智罃を捕らえた。帰国すると荀林父は言った。「私は総大将として軍を敗れさせたのだから、誅されるべきだ。どうか死を賜りたい」。景公はこれを許そうとした。

解説

晋の霊公が殺された後、史官の董狐が「趙盾その君を弑す」と記録した有名な場面から始まる段です。実際に手を下したのは趙穿でしたが、董狐は、正卿の趙盾が国境を出ずに戻り、しかも犯人を罰しなかった以上、責任は趙盾にあると断じました。孔子は、事実の背後にある責任を隠さずに書いた董狐を「古の良史」と称え、その記録を受け入れた趙盾も「良大夫」と評しています。「董狐の筆」は、権力者にも忖度しない記録の姿勢を表す言葉として後世に伝わりました。後半は成公・景公の時代で、楚の荘王との覇権争いが激しくなります。邲の戦いでは、総大将の荀林父が引き返そうとしたのに、先縠が独断で黄河を渡り、晋は大敗しました。船べりにしがみつく兵の指が切り落とされたという描写は、敗走の悲惨さを伝えています。結果に直接手を下していなくても、立場上の責任から逃れられないという董狐の論理は、今の組織の管理職にもそのまま当てはまるものです。

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