史記 / 晋世家
且子玉猶在,庸可喜乎!」子玉之敗而歸,楚成王怒其不用其言,貪與晉戰,讓責子玉,子玉自殺。晉文公曰:「我撃其外,楚誅其内,内外相應。」於是乃喜。六月,晉人復入衞侯。壬午,晉侯度河北歸國。行賞,狐偃爲首。或曰:「城濮之事,先軫之謀。」文公曰:「城濮之事,偃説我毋失信。先軫曰『軍事勝爲右』,吾用之以勝。然此一時之説,偃言萬世之功,柰何以一時之利而加萬世功乎?是以先之。」冬,晉侯會諸侯於温,欲率之朝周。力未能,恐其有畔者,乃使人言周襄王狩于河陽。壬申,遂率諸侯朝王於踐土。孔子讀史記至文公,曰「諸侯無召王」、「王狩河陽」者,春秋諱之也。丁丑,諸侯圍許。曹伯臣或説晉侯曰:「齊桓公合諸侯而國異姓,今君爲會而滅同姓。曹,叔振鐸之後;晉,唐叔之後。合諸侯而滅兄弟,非禮。」晉侯説,復曹伯。於是晉始作三行。荀林父將中行,先縠將右行,先蔑將左行。七年,晉文公、秦繆公共圍鄭,以其無禮於文公亡過時,及城濮時鄭助楚也。圍鄭,欲得叔瞻。叔瞻聞之,自殺。鄭持叔瞻告晉。晉曰:「必得鄭君而甘心焉。」鄭恐,乃閒令使謂秦繆公曰:「亡鄭厚晉,於晉得矣,而秦未爲利。君何不解鄭,得爲東道交?」秦伯説,罷兵。晉亦罷兵。
新字:且子玉猶在,庸可喜乎!」子玉之敗而帰,楚成王怒其不用其言,貪与晋戦,譲責子玉,子玉自殺。晋文公曰:「我撃其外,楚誅其内,内外相応。」於是乃喜。六月,晋人復入衛侯。壬午,晋侯度河北帰国。行賞,狐偃為首。或曰:「城濮之事,先軫之謀。」文公曰:「城濮之事,偃説我毋失信。先軫曰『軍事勝為右』,吾用之以勝。然此一時之説,偃言万世之功,柰何以一時之利而加万世功乎?是以先之。」冬,晋侯会諸侯於温,欲率之朝周。力未能,恐其有畔者,乃使人言周襄王狩于河陽。壬申,遂率諸侯朝王於践土。孔子読史記至文公,曰「諸侯無召王」、「王狩河陽」者,春秋諱之也。丁丑,諸侯囲許。曹伯臣或説晋侯曰:「斉桓公合諸侯而国異姓,今君為会而滅同姓。曹,叔振鐸之後;晋,唐叔之後。合諸侯而滅兄弟,非礼。」晋侯説,復曹伯。於是晋始作三行。荀林父将中行,先縠将右行,先蔑将左行。七年,晋文公、秦繆公共囲鄭,以其無礼於文公亡過時,及城濮時鄭助楚也。囲鄭,欲得叔瞻。叔瞻聞之,自殺。鄭持叔瞻告晋。晋曰:「必得鄭君而甘心焉。」鄭恐,乃閒令使謂秦繆公曰:「亡鄭厚晋,於晋得矣,而秦未為利。君何不解鄭,得為東道交?」秦伯説,罷兵。晋亦罷兵。
書き下し
且つ子玉猶ほ在り。庸ぞ喜ぶべけんや」と。子玉の敗れて帰るや、楚の成王其の言を用ひず、晋と戦ふを貪りしを怒り、子玉を譲責す。子玉自殺す。晋の文公曰く、「我其の外を撃ち、楚其の内を誅す。内外相応ず」と。是に於て乃ち喜ぶ。六月、晋人復た衛侯を入る。壬午、晋侯河を度りて北のかた国に帰る。賞を行ひ、狐偃を首と為す。或ひと曰く、「城濮の事は、先軫の謀なり」と。文公曰く、「城濮の事は、偃我に説きて信を失ふこと毋からしむ。先軫曰く『軍事は勝つを右と為す』と。吾之を用ひて以て勝てり。然れども此れ一時の説なり。偃は万世の功を言ふ。奈何ぞ一時の利を以て万世の功に加へん。是を以て之を先にす」と。冬、晋侯諸侯を温に会し、之を率ゐて周に朝せんと欲す。力未だ能はず。其の畔く者有らんことを恐れ、乃ち人をして周の襄王に河陽に狩りせんことを言はしむ。壬申、遂に諸侯を率ゐて王に践土に朝す。孔子史記を読みて文公に至り、「諸侯は王を召すこと無し」「王河陽に狩りす」と曰ふは、春秋之を諱むなり。丁丑、諸侯許を囲む。曹伯の臣或いは晋侯に説きて曰く、「斉の桓公諸侯を合して異姓を国せしむ。今君会を為して同姓を滅ぼす。曹は叔振鐸の後なり。晋は唐叔の後なり。諸侯を合して兄弟を滅ぼすは、礼に非ず」と。晋侯説び、曹伯を復す。是に於て晋始めて三行を作る。荀林父中行に将たり、先縠右行に将たり、先蔑左行に将たり。七年、晋の文公・秦の繆公共に鄭を囲む。其の文公の亡げて過ぎりし時に無礼なりしと、城濮の時に鄭楚を助けしとを以てなり。鄭を囲み、叔瞻を得んと欲す。叔瞻之を聞きて自殺す。鄭叔瞻を持ちて晋に告ぐ。晋曰く、「必ず鄭君を得て心を甘んぜん」と。鄭恐れ、乃ち間に使ひをして秦の繆公に謂はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり。而して秦は未だ利と為さず。君何ぞ鄭を解きて、東道の交はりと為るを得ざる」と。秦伯説び、兵を罷む。晋も亦た兵を罷む。
現代語訳
しかも子玉はまだ生きている。どうして喜べようか」。子玉が敗れて帰ると、楚の成王は、子玉が自分の言葉に従わず、晋との戦いにはやったことを怒り、厳しく責めた。子玉は自殺した。晋の文公は言った。「私は外から楚を撃ち、楚は内で子玉を誅した。内と外が呼応したのだ」。そこでようやく喜んだ。六月、晋は衛侯を再び国に戻した。壬午の日、晋侯は黄河を渡って北へ向かい、国に帰った。恩賞を行い、狐偃を第一とした。ある人が言った。「城濮の勝利は先軫の策によるものだ」。文公は言った。「城濮のことでは、狐偃は私に信義を失わないよう説いた。先軫は『戦は勝つことを第一とする』と言い、私はそれを用いて勝った。しかしそれは一時の策だ。狐偃が説いたのは万世に通じる功だ。どうして一時の利を万世の功の上に置けようか。だから狐偃を先にしたのだ」。冬、晋侯は温で諸侯を集め、彼らを率いて周に参朝しようとした。しかしまだ力が足りず、背く者が出ることを恐れて、人をやって周の襄王に河陽で狩りをするよう申し入れさせた。壬申の日、晋侯はそこで諸侯を率いて践土で王に拝謁した。孔子が史記(魯の記録)を読んで文公のところに至り、「諸侯が王を呼びつけることはない」「王が河陽で狩りをした」と書かれていたのは、『春秋』がこのことを憚って書いたのである。丁丑の日、諸侯は許を包囲した。曹伯の臣下のある者が晋侯に説いた。「斉の桓公は諸侯を集めて、異姓の国まで再興させた。いま君は会盟を開きながら同姓の国を滅ぼそうとしている。曹は叔振鐸の子孫であり、晋は唐叔の子孫だ。諸侯を集めておきながら兄弟の国を滅ぼすのは、礼に外れる」。晋侯は喜んで聞き入れ、曹伯を元の位に戻した。このとき晋は初めて三行(三つの歩兵部隊)を設けた。荀林父が中行を、先縠が右行を、先蔑が左行を率いた。七年、晋の文公と秦の繆公は共に鄭を包囲した。文公が亡命中に通りかかったとき鄭が無礼であったことと、城濮の戦いのとき鄭が楚を助けたことを理由とした。鄭を包囲して叔瞻の引き渡しを求めると、叔瞻はそれを聞いて自殺した。鄭は叔瞻の遺体を持って晋に報告した。晋は言った。「必ず鄭君を捕らえて、気持ちを晴らしてやる」。鄭は恐れて、ひそかに使者を送り、秦の繆公に言わせた。「鄭を滅ぼして晋を強くすることは、晋にとっては得になる。しかし秦にとっては何の利益にもならない。君はなぜ鄭の包囲を解いて、東方への道中の友好国として鄭を保たないのか」。秦伯は喜んでこれを聞き入れ、兵を引いた。晋も兵を引いた。
解説
関連する章句
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史記 晋世家子玉請ひて曰く、「敢て必ずしも功有らんとするに非ず。願はくは以て讒慝の口を間執せん」と。楚王怒り、少しく之に兵を与ふ。是に於て子玉宛春をして晋に告げしむ、「請ふ衛侯を復して曹を封ぜよ。臣も亦た宋を釈かん」と。咎犯曰く、「子玉無礼なり。君は一を取り、臣は二を取る。許すこと勿かれ」と。先軫曰く、「人を定むる、之を礼と謂ふ。楚一言にして三国を定め、子一言にして之を亡ぼさば、我則ち礼毋からん。楚に許さざるは、是れ宋を棄つるなり。私かに曹・衛に許して以て之を誘ひ、宛春を執へて以て楚を怒らせ、既に戦ひて後に之を図るに如かず」と。晋侯乃ち宛春を衛に囚へ、且つ私かに曹・衛を復することを許す。曹・衛絶つことを楚に告ぐ。楚の得臣怒り、晋の師を撃つ。晋の師退く。軍吏曰く、「何の為に退く」と。文公曰く、「昔楚に在りしとき、三舎を退かんと約す。倍くべけんや」と。楚の師去らんと欲するも、得臣肯ぜず。四月戊辰、宋公・斉の将・秦の将晋侯と城濮に次る。己巳、楚の兵と合戦す。楚の兵敗れ、得臣余兵を収めて去る。甲午、晋の師還りて衡雍に至り、王宮を践土に作る。初め、鄭楚を助く。楚敗れて、懼れ、人をして晋侯に盟はんことを請はしむ。晋侯鄭伯と盟ふ。五月丁未、楚の俘を周に献ず。駟介百乗、徒兵千。天子王子虎をして晋侯に命じて伯と為さしめ、大輅、彤弓矢百、玈弓矢千、秬鬯一卣、珪瓚、虎賁三百人を賜ふ。晋侯三たび辞し、然る後に稽首して之を受く。周晋の文侯の命を作る、「王若(かく)のごとく曰く、父義和、丕いに顕らかなる文・武、能く明徳を慎み、昭らかに上に登り、布きて聞こゆること下に在り。維れ時れ上帝厥の命を文・武に集む。朕が身を恤み、予一人を継ぎて永く其れ位に在らしめよ」と。是に於て晋の文公伯と称す。癸亥、王子虎諸侯を王庭に盟はしむ。晋楚の軍を焚く。火数日息まず。文公嘆ず。左右曰く、「楚に勝ちて君猶ほ憂ふるは、何ぞや」と。文公曰く、「吾聞く、能く戦ひ勝ちて安んずる者は唯だ聖人のみと。是を以て懼る。
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史記 晋世家従亡の賤臣壺叔曰く、「君三たび賞を行ふも、賞臣に及ばず。敢て罪を請ふ」と。文公報じて曰く、「夫れ我を導くに仁義を以てし、我を防ぐに徳恵を以てす。此れ上賞を受く。我を輔くるに行ひを以てし、卒に以て成立す。此れ次賞を受く。矢石の難、汗馬の労、此れ復た次賞を受く。若し力を以て我に事へて吾が欠を補ふこと無き者は、此れ復た次賞を受く。三賞の後、故に且に子に及ばんとす」と。晋人之を聞き、皆説ぶ。二年春、秦河上に軍し、将に王を入れんとす。趙衰曰く、「覇を求むるは王を入れて周を尊ぶに如くは莫し。周・晋は同姓なり。晋先んじて王を入れずして、後に秦之を入れば、以て天下に令する毋からん。方今王を尊ぶは、晋の資なり」と。三月甲辰、晋乃ち兵を発して陽樊に至り、温を囲み、襄王を周に入る。四月、王の弟帯を殺す。周の襄王晋に河内の陽樊の地を賜ふ。四年、楚の成王及び諸侯宋を囲む。宋の公孫固晋に如きて急を告ぐ。先軫曰く、「施しに報い覇を定むるは、今に在り」と。狐偃曰く、「楚新たに曹を得て初めて衛に婚す。若し曹・衛を伐たば、楚必ず之を救はん。則ち宋免れん」と。是に於て晋三軍を作る。趙衰郤縠を挙げて中軍に将たらしめ、郤臻之を佐く。狐偃をして上軍に将たらしめ、狐毛之を佐く。趙衰に命じて卿と為す。欒枝下軍に将たり、先軫之を佐く。荀林父戎に御し、魏犫右と為る。往きて伐つ。冬十二月、晋の兵先づ山東に下り、而して原を以て趙衰を封ず。五年春、晋の文公曹を伐たんと欲し、道を衛に仮る。衛人許さず。還りて河南より度り、曹を侵し、衛を伐つ。正月、五鹿を取る。二月、晋侯・斉侯斂盂に盟ふ。衛侯晋に盟はんことを請ふ。晋人許さず。衛侯楚と与せんと欲す。国人欲せず。故に其の君を出だして以て晋を説ばしむ。衛侯襄牛に居り、公子買衛を守る。楚衛を救ふも、卒へず。晋侯曹を囲む。
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史記 晋世家三月丙午、晋の師曹に入り、之を数(せ)むるに其の釐負羈の言を用ひずして、美女の軒に乗る者三百人を用ふるを以てす。軍に令して僖負羈の宗家に入ること毋からしめ、以て徳に報ゆ。楚宋を囲む。宋復た急を晋に告ぐ。文公救はんと欲すれば則ち楚を攻む。楚嘗て徳有るが為に、伐つことを欲せず。宋を釈かんと欲すれば、宋も又嘗て晋に徳有り。之を患ふ。先軫曰く、「曹伯を執へ、曹・衛の地を分かちて以て宋に与へよ。楚曹・衛を急とし、其の勢ひ宜しく宋を釈くべし」と。是に於て文公之に従ふ。而して楚の成王乃ち兵を引きて帰る。楚の将子玉曰く、「王晋を遇すること至って厚し。今楚の曹・衛を急とするを知りて故らに之を伐つ。是れ王を軽んずるなり」と。
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史記 晋世家隨会曰く、「昔文公の楚と城濮に戦ふや、成王帰りて子玉を殺す。而して文公乃ち喜ぶ。今楚已に我が師を敗る。又其の将を誅せば、是れ楚を助けて仇を殺すなり」と。乃ち止む。四年、先縠首計を以て晋の軍を河上に敗る。誅せられんことを恐れ、乃ち翟に奔り、翟と晋を伐たんことを謀る。晋覚り、乃ち縠を族す。縠は、先軫の子なり。五年、鄭を伐つ。楚を助けしが為の故なり。是の時楚の荘王彊し。晋の兵を河上に挫きしを以てなり。六年、楚宋を伐つ。宋来たりて急を晋に告ぐ。晋之を救はんと欲す。伯宗謀りて曰く、「楚は、天方に之を開く。当たるべからず」と。乃ち解揚をして紿(あざむ)きて宋を救ふと為さしむ。鄭人執へて楚に与ふ。楚厚く賜ひ、其の言を反さしめ、宋をして急ぎ下らしめんとす。解揚紿きて之を許し、卒に晋君の言を致す。楚之を殺さんと欲す。或いは諫む。乃ち解揚を帰す。七年、晋隨会をして赤狄を滅ぼさしむ。八年、郤克をして斉に使ひせしむ。斉の頃公の母楼上より観て之を笑ふ。然る所以の者は、郤克は僂(せむし)にして、魯の使ひは蹇(あしなへ)、衛の使ひは眇(すがめ)なり。故に斉も亦た人をして之の如くならしめて以て客を導く。郤克怒り、帰りて河上に至りて曰く、「斉に報いざれば、河伯之を視よ」と。国に至り、君に請ひて、斉を伐たんと欲す。景公其の故を問ひ知りて曰く、「子の怨み、安んぞ以て国を煩はすに足らん」と。聴かず。魏文子老を請ひて休み、郤克を辟く。克政を執る。九年、楚の荘王卒す。晋斉を伐つ。斉太子彊をして晋に質たらしむ。晋の兵罷む。十一年春、斉魯を伐ち、隆を取る。魯急を衛に告ぐ。衛と魯と皆郤克に因りて急を晋に告ぐ。晋乃ち郤克・欒書・韓厥をして兵車八百乗を以て魯・衛と共に斉を伐たしむ。夏、頃公と砹に戦ひ、頃公を傷つけ困しむ。頃公乃ち其の右と位を易へ、下りて飲を取り、以て脱して去るを得たり。斉の師敗走す。晋北ぐるを追ひて斉に至る。頃公宝器を献じて以て平らがんことを求む。聴かず。郤克曰く、「必ず蕭桐姪子を得て質と為さん」と。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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史記 鄭世家文公の弟叔詹曰く、「重耳は賢なり。且つ又同姓なり。窮して君に過る。礼無かるべからず」と。文公曰く、「諸侯の亡公子の過る者多し。安んぞ能く尽く之を礼せん」と。詹曰く、「君如し礼せずんば、遂に之を殺せ。殺さずして、即し国に反らしめば、鄭の憂ひと為らん」と。文公聴かず。三十七年春、晋の公子重耳国に反りて立つ、是を文公と為す。秋、鄭滑に入る。滑命を聴き、已にして反りて衛に与す。是に於て鄭滑を伐つ。周の襄王、伯服をして滑の為に請はしむ。鄭の文公、恵王の亡げて櫟に在りしとき、文公の父厲公之を入れしに、恵王厲公に爵禄を賜はざるを怨み、又襄王の衛・滑に与するを怨む。故に襄王の請ひを聴かずして伯服を囚ふ。王怒り、翟人と鄭を伐つも、克たず。冬、翟、襄王を攻伐す。襄王出でて鄭に奔る。鄭の文公、王を氾に居らしむ。三十八年、晋の文公、襄王を成周に入る。四十一年、楚を助けて晋を撃つ。晋の文公の過りしとき礼無かりしより、故に晋に背きて楚を助く。四十三年、晋の文公、秦の穆公と共に鄭を囲む。其の楚を助けて晋を攻めし者、及び文公の過りし時の無礼を討つなり。初め、鄭の文公に三夫人有り、寵子五人、皆罪を以て蚤く死す。公怒り、溉く群公子を逐ふ。子蘭晋に奔り、晋の文公に従ひて鄭を囲む。時に蘭、晋の文公に事ふること甚だ謹み、之を愛幸す。乃ち私かに晋に於てし、以て鄭に入りて太子と為らんことを求む。晋是に於て叔詹を得て僇と為さんと欲す。鄭の文公恐れ、敢へて叔詹に謂ひて言はず。詹聞き、鄭君に言ひて曰く、「臣君に謂ふも、君臣に聴かず、晋卒に患ひと為る。然れども晋の鄭を囲む所以は、詹を以てなり。詹死して鄭国を赦さば、詹の願ひなり」と。乃ち自殺す。鄭人、詹の尸を以て晋に与ふ。晋の文公曰く、「必ず一たび鄭君を見て、之を辱めて去らんと欲す」と。鄭人之を患ひ、乃ち人をして私かに秦に言はしめて曰く、「鄭を破りて晋を益すは、秦の利に非ざるなり」と。秦の兵罷む。
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