史記 / 晋世家
子玉請曰:「非敢必有功,願以閒執讒慝之口也。」楚王怒,少與之兵。於是子玉使宛春告晉:「請復衞侯而封曹,臣亦釋宋。」咎犯曰:「子玉無禮矣,君取一,臣取二,勿許。」先軫曰:「定人之謂禮。楚一言定三國,子一言而亡之,我則毋禮。不許楚,是棄宋也。不如私許曹、衞以誘之,執宛春以怒楚,旣戰而後圖之。」晉侯乃囚宛春於衞,且私許復曹、衞。曹、衞告絶於楚。楚得臣怒,撃晉師,晉師退。軍吏曰:「爲何退?」文公曰:「昔在楚,約退三舍,可倍乎!」楚師欲去,得臣不肯。四月戊辰,宋公、齊將、秦將與晉侯次城濮。己巳,與楚兵合戰,楚兵敗,得臣收餘兵去。甲午,晉師還至衡雍,作王宮于踐土。初,鄭助楚,楚敗,懼,使人請盟晉侯。晉侯與鄭伯盟。五月丁未,獻楚俘於周,駟介百乘,徒兵千。天子使王子虎命晉侯爲伯,賜大輅,彤弓矢百,玈弓矢千,秬鬯一卣,珪瓚,虎賁三百人。晉侯三辭,然后稽首受之。周作晉文侯命:「王若曰:父義和,丕顯文、武,能愼明德,昭登於上,布聞在下,維時上帝集厥命于文、武。恤朕身、繼予一人永其在位。」於是晉文公稱伯。癸亥,王子虎盟諸侯於王庭。晉焚楚軍,火數日不息,文公嘆。左右曰:「勝楚而君猶憂,何?」文公曰:「吾聞能戰勝安者唯聖人,是以懼。
新字:子玉請曰:「非敢必有功,願以閒執讒慝之口也。」楚王怒,少与之兵。於是子玉使宛春告晋:「請復衛侯而封曹,臣亦釈宋。」咎犯曰:「子玉無礼矣,君取一,臣取二,勿許。」先軫曰:「定人之謂礼。楚一言定三国,子一言而亡之,我則毋礼。不許楚,是棄宋也。不如私許曹、衛以誘之,執宛春以怒楚,既戦而後図之。」晋侯乃囚宛春於衛,且私許復曹、衛。曹、衛告絶於楚。楚得臣怒,撃晋師,晋師退。軍吏曰:「為何退?」文公曰:「昔在楚,約退三舎,可倍乎!」楚師欲去,得臣不肯。四月戊辰,宋公、斉将、秦将与晋侯次城濮。己巳,与楚兵合戦,楚兵敗,得臣収余兵去。甲午,晋師還至衡雍,作王宮于践土。初,鄭助楚,楚敗,懼,使人請盟晋侯。晋侯与鄭伯盟。五月丁未,献楚俘於周,駟介百乗,徒兵千。天子使王子虎命晋侯為伯,賜大輅,彤弓矢百,玈弓矢千,秬鬯一卣,珪瓚,虎賁三百人。晋侯三辞,然后稽首受之。周作晋文侯命:「王若曰:父義和,丕顕文、武,能慎明徳,昭登於上,布聞在下,維時上帝集厥命于文、武。恤朕身、継予一人永其在位。」於是晋文公称伯。癸亥,王子虎盟諸侯於王庭。晋焚楚軍,火数日不息,文公嘆。左右曰:「勝楚而君猶憂,何?」文公曰:「吾聞能戦勝安者唯聖人,是以懼。
書き下し
子玉請ひて曰く、「敢て必ずしも功有らんとするに非ず。願はくは以て讒慝の口を間執せん」と。楚王怒り、少しく之に兵を与ふ。是に於て子玉宛春をして晋に告げしむ、「請ふ衛侯を復して曹を封ぜよ。臣も亦た宋を釈かん」と。咎犯曰く、「子玉無礼なり。君は一を取り、臣は二を取る。許すこと勿かれ」と。先軫曰く、「人を定むる、之を礼と謂ふ。楚一言にして三国を定め、子一言にして之を亡ぼさば、我則ち礼毋からん。楚に許さざるは、是れ宋を棄つるなり。私かに曹・衛に許して以て之を誘ひ、宛春を執へて以て楚を怒らせ、既に戦ひて後に之を図るに如かず」と。晋侯乃ち宛春を衛に囚へ、且つ私かに曹・衛を復することを許す。曹・衛絶つことを楚に告ぐ。楚の得臣怒り、晋の師を撃つ。晋の師退く。軍吏曰く、「何の為に退く」と。文公曰く、「昔楚に在りしとき、三舎を退かんと約す。倍くべけんや」と。楚の師去らんと欲するも、得臣肯ぜず。四月戊辰、宋公・斉の将・秦の将晋侯と城濮に次る。己巳、楚の兵と合戦す。楚の兵敗れ、得臣余兵を収めて去る。甲午、晋の師還りて衡雍に至り、王宮を践土に作る。初め、鄭楚を助く。楚敗れて、懼れ、人をして晋侯に盟はんことを請はしむ。晋侯鄭伯と盟ふ。五月丁未、楚の俘を周に献ず。駟介百乗、徒兵千。天子王子虎をして晋侯に命じて伯と為さしめ、大輅、彤弓矢百、玈弓矢千、秬鬯一卣、珪瓚、虎賁三百人を賜ふ。晋侯三たび辞し、然る後に稽首して之を受く。周晋の文侯の命を作る、「王若(かく)のごとく曰く、父義和、丕いに顕らかなる文・武、能く明徳を慎み、昭らかに上に登り、布きて聞こゆること下に在り。維れ時れ上帝厥の命を文・武に集む。朕が身を恤み、予一人を継ぎて永く其れ位に在らしめよ」と。是に於て晋の文公伯と称す。癸亥、王子虎諸侯を王庭に盟はしむ。晋楚の軍を焚く。火数日息まず。文公嘆ず。左右曰く、「楚に勝ちて君猶ほ憂ふるは、何ぞや」と。文公曰く、「吾聞く、能く戦ひ勝ちて安んずる者は唯だ聖人のみと。是を以て懼る。
現代語訳
子玉は楚王に願い出た。「必ず手柄を立てようなどと言うつもりはない。ただ、私を悪く言う者たちの口を封じたいのだ」。楚王は怒り、子玉にはわずかな兵しか与えなかった。そこで子玉は宛春を晋に送ってこう伝えさせた。「衛侯を元に戻し、曹を再び封じてほしい。そうすれば私も宋の包囲を解こう」。咎犯は言った。「子玉は無礼だ。君は一つ(宋の解放)を得るだけなのに、臣下の子玉は二つ(曹と衛の回復)を得ることになる。許してはならない」。先軫は言った。「人々を安定させることを礼という。楚は一言で三つの国を安定させようとしているのに、我々が一言でそれを滅ぼしてしまえば、我々のほうが礼を欠くことになる。楚の申し出を許さなければ、宋を見捨てることにもなる。ひそかに曹と衛に復興を約束して楚から引き離し、宛春を捕らえて楚を怒らせ、戦ったあとで考えるほうがよい」。晋侯はそこで宛春を衛で捕らえ、ひそかに曹と衛の復興を約束した。曹と衛は楚に絶交を告げた。楚の得臣(子玉)は怒って晋軍を攻撃した。晋軍は退いた。軍吏が言った。「なぜ退くのか」。文公は言った。「昔、楚にいたとき、三舎退くと約束した。その約束に背けようか」。楚軍の中には退こうとする者もいたが、得臣は承知しなかった。四月戊辰の日、宋公と斉・秦の将軍が晋侯とともに城濮に陣を敷いた。己巳の日、楚軍と戦い、楚軍は敗れ、得臣は残った兵をまとめて去った。甲午の日、晋軍は引き返して衡雍に至り、践土に周王のための宮殿を建てた。これより前、鄭は楚を助けていたが、楚が敗れると恐れて、使者を送って晋侯に盟約を願い出た。晋侯は鄭伯と盟約を結んだ。五月丁未の日、晋は楚の捕虜を周に献上した。四頭立ての甲冑をつけた戦車百乗と、歩兵千人であった。天子は王子虎に命じて晋侯を覇者(伯)に任じ、大輅(儀式用の大きな車)、朱塗りの弓一張りと矢百本、黒塗りの弓十張りと矢千本、黒黍で醸した香り酒一樽、玉の柄の酒器、そして近衛の勇士三百人を与えた。晋侯は三度辞退したのち、頭を地につけて拝し、これを受けた。周は「晋文侯命」を作った。「王はこう仰せられる。叔父の義和よ、大いに輝かしい文王・武王は、明らかな徳をよく慎まれ、その徳は天に昇って明らかとなり、下の民にも広く知れ渡った。それゆえ上帝はその天命を文王・武王に授けたのである。わが身を思いやり、私一人を助け継いで、永く王位にあらしめよ」。こうして晋の文公は覇者を称した。癸亥の日、王子虎は王の庭で諸侯に盟約を結ばせた。晋は楚の陣営を焼き払い、火は数日間消えなかった。文公はため息をついた。左右の者が言った。「楚に勝ったのに、君がなおも憂えておられるのはなぜか」。文公は言った。「戦って勝ち、しかもなお安泰でいられるのは聖人だけだと聞いている。だから私は恐れるのだ。
解説
関連する章句
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史記 晋世家且つ子玉猶ほ在り。庸ぞ喜ぶべけんや」と。子玉の敗れて帰るや、楚の成王其の言を用ひず、晋と戦ふを貪りしを怒り、子玉を譲責す。子玉自殺す。晋の文公曰く、「我其の外を撃ち、楚其の内を誅す。内外相応ず」と。是に於て乃ち喜ぶ。六月、晋人復た衛侯を入る。壬午、晋侯河を度りて北のかた国に帰る。賞を行ひ、狐偃を首と為す。或ひと曰く、「城濮の事は、先軫の謀なり」と。文公曰く、「城濮の事は、偃我に説きて信を失ふこと毋からしむ。先軫曰く『軍事は勝つを右と為す』と。吾之を用ひて以て勝てり。然れども此れ一時の説なり。偃は万世の功を言ふ。奈何ぞ一時の利を以て万世の功に加へん。是を以て之を先にす」と。冬、晋侯諸侯を温に会し、之を率ゐて周に朝せんと欲す。力未だ能はず。其の畔く者有らんことを恐れ、乃ち人をして周の襄王に河陽に狩りせんことを言はしむ。壬申、遂に諸侯を率ゐて王に践土に朝す。孔子史記を読みて文公に至り、「諸侯は王を召すこと無し」「王河陽に狩りす」と曰ふは、春秋之を諱むなり。丁丑、諸侯許を囲む。曹伯の臣或いは晋侯に説きて曰く、「斉の桓公諸侯を合して異姓を国せしむ。今君会を為して同姓を滅ぼす。曹は叔振鐸の後なり。晋は唐叔の後なり。諸侯を合して兄弟を滅ぼすは、礼に非ず」と。晋侯説び、曹伯を復す。是に於て晋始めて三行を作る。荀林父中行に将たり、先縠右行に将たり、先蔑左行に将たり。七年、晋の文公・秦の繆公共に鄭を囲む。其の文公の亡げて過ぎりし時に無礼なりしと、城濮の時に鄭楚を助けしとを以てなり。鄭を囲み、叔瞻を得んと欲す。叔瞻之を聞きて自殺す。鄭叔瞻を持ちて晋に告ぐ。晋曰く、「必ず鄭君を得て心を甘んぜん」と。鄭恐れ、乃ち間に使ひをして秦の繆公に謂はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり。而して秦は未だ利と為さず。君何ぞ鄭を解きて、東道の交はりと為るを得ざる」と。秦伯説び、兵を罷む。晋も亦た兵を罷む。
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史記 晋世家従亡の賤臣壺叔曰く、「君三たび賞を行ふも、賞臣に及ばず。敢て罪を請ふ」と。文公報じて曰く、「夫れ我を導くに仁義を以てし、我を防ぐに徳恵を以てす。此れ上賞を受く。我を輔くるに行ひを以てし、卒に以て成立す。此れ次賞を受く。矢石の難、汗馬の労、此れ復た次賞を受く。若し力を以て我に事へて吾が欠を補ふこと無き者は、此れ復た次賞を受く。三賞の後、故に且に子に及ばんとす」と。晋人之を聞き、皆説ぶ。二年春、秦河上に軍し、将に王を入れんとす。趙衰曰く、「覇を求むるは王を入れて周を尊ぶに如くは莫し。周・晋は同姓なり。晋先んじて王を入れずして、後に秦之を入れば、以て天下に令する毋からん。方今王を尊ぶは、晋の資なり」と。三月甲辰、晋乃ち兵を発して陽樊に至り、温を囲み、襄王を周に入る。四月、王の弟帯を殺す。周の襄王晋に河内の陽樊の地を賜ふ。四年、楚の成王及び諸侯宋を囲む。宋の公孫固晋に如きて急を告ぐ。先軫曰く、「施しに報い覇を定むるは、今に在り」と。狐偃曰く、「楚新たに曹を得て初めて衛に婚す。若し曹・衛を伐たば、楚必ず之を救はん。則ち宋免れん」と。是に於て晋三軍を作る。趙衰郤縠を挙げて中軍に将たらしめ、郤臻之を佐く。狐偃をして上軍に将たらしめ、狐毛之を佐く。趙衰に命じて卿と為す。欒枝下軍に将たり、先軫之を佐く。荀林父戎に御し、魏犫右と為る。往きて伐つ。冬十二月、晋の兵先づ山東に下り、而して原を以て趙衰を封ず。五年春、晋の文公曹を伐たんと欲し、道を衛に仮る。衛人許さず。還りて河南より度り、曹を侵し、衛を伐つ。正月、五鹿を取る。二月、晋侯・斉侯斂盂に盟ふ。衛侯晋に盟はんことを請ふ。晋人許さず。衛侯楚と与せんと欲す。国人欲せず。故に其の君を出だして以て晋を説ばしむ。衛侯襄牛に居り、公子買衛を守る。楚衛を救ふも、卒へず。晋侯曹を囲む。
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史記 晋世家三月丙午、晋の師曹に入り、之を数(せ)むるに其の釐負羈の言を用ひずして、美女の軒に乗る者三百人を用ふるを以てす。軍に令して僖負羈の宗家に入ること毋からしめ、以て徳に報ゆ。楚宋を囲む。宋復た急を晋に告ぐ。文公救はんと欲すれば則ち楚を攻む。楚嘗て徳有るが為に、伐つことを欲せず。宋を釈かんと欲すれば、宋も又嘗て晋に徳有り。之を患ふ。先軫曰く、「曹伯を執へ、曹・衛の地を分かちて以て宋に与へよ。楚曹・衛を急とし、其の勢ひ宜しく宋を釈くべし」と。是に於て文公之に従ふ。而して楚の成王乃ち兵を引きて帰る。楚の将子玉曰く、「王晋を遇すること至って厚し。今楚の曹・衛を急とするを知りて故らに之を伐つ。是れ王を軽んずるなり」と。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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史記 晋世家隨会曰く、「昔文公の楚と城濮に戦ふや、成王帰りて子玉を殺す。而して文公乃ち喜ぶ。今楚已に我が師を敗る。又其の将を誅せば、是れ楚を助けて仇を殺すなり」と。乃ち止む。四年、先縠首計を以て晋の軍を河上に敗る。誅せられんことを恐れ、乃ち翟に奔り、翟と晋を伐たんことを謀る。晋覚り、乃ち縠を族す。縠は、先軫の子なり。五年、鄭を伐つ。楚を助けしが為の故なり。是の時楚の荘王彊し。晋の兵を河上に挫きしを以てなり。六年、楚宋を伐つ。宋来たりて急を晋に告ぐ。晋之を救はんと欲す。伯宗謀りて曰く、「楚は、天方に之を開く。当たるべからず」と。乃ち解揚をして紿(あざむ)きて宋を救ふと為さしむ。鄭人執へて楚に与ふ。楚厚く賜ひ、其の言を反さしめ、宋をして急ぎ下らしめんとす。解揚紿きて之を許し、卒に晋君の言を致す。楚之を殺さんと欲す。或いは諫む。乃ち解揚を帰す。七年、晋隨会をして赤狄を滅ぼさしむ。八年、郤克をして斉に使ひせしむ。斉の頃公の母楼上より観て之を笑ふ。然る所以の者は、郤克は僂(せむし)にして、魯の使ひは蹇(あしなへ)、衛の使ひは眇(すがめ)なり。故に斉も亦た人をして之の如くならしめて以て客を導く。郤克怒り、帰りて河上に至りて曰く、「斉に報いざれば、河伯之を視よ」と。国に至り、君に請ひて、斉を伐たんと欲す。景公其の故を問ひ知りて曰く、「子の怨み、安んぞ以て国を煩はすに足らん」と。聴かず。魏文子老を請ひて休み、郤克を辟く。克政を執る。九年、楚の荘王卒す。晋斉を伐つ。斉太子彊をして晋に質たらしむ。晋の兵罷む。十一年春、斉魯を伐ち、隆を取る。魯急を衛に告ぐ。衛と魯と皆郤克に因りて急を晋に告ぐ。晋乃ち郤克・欒書・韓厥をして兵車八百乗を以て魯・衛と共に斉を伐たしむ。夏、頃公と砹に戦ひ、頃公を傷つけ困しむ。頃公乃ち其の右と位を易へ、下りて飲を取り、以て脱して去るを得たり。斉の師敗走す。晋北ぐるを追ひて斉に至る。頃公宝器を献じて以て平らがんことを求む。聴かず。郤克曰く、「必ず蕭桐姪子を得て質と為さん」と。
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史記 晋世家二月辛丑、咎犯秦・晋の大夫と郇に盟ふ。壬寅、重耳晋の師に入る。丙午、曲沃に入る。丁未、武宮に朝し、即位して晋君と為る。是を文公と為す。群臣皆往く。懐公圉高梁に奔る。戊申、人をして懐公を殺さしむ。懐公の故の大臣呂省・郤芮本より文公に附かず。文公立ち、誅せられんことを恐れ、乃ち其の徒と謀りて公宮を焼き、文公を殺さんと欲す。文公知らず。始め嘗て文公を殺さんと欲せし宦者履鞮其の謀を知り、以て文公に告げて、前の罪を解かんと欲し、文公に見えんことを求む。文公見えず、人をして譲めしめて曰く、「蒲城の事、女予が袪を斬る。其の後我狄君に従ひて猟す。女恵公の為に来たりて我を殺さんことを求む。恵公女と期するに三日にして至れとす。而るに女一日にして至る。何ぞ速やかなるや。女其れ之を念へ」と。宦者曰く、「臣は刀鋸の余なり。敢て二心を以て君に事へ主に倍かず。故に罪を君に得たり。君已に国に反る。其れ蒲・翟無からんや。且つ管仲鉤を射て、桓公以て覇たり。今刑余の人事を以て告ぐるも君見えずんば、禍又且に及ばんとす」と。是に於て之に見ゆ。遂に呂・郤等を以て文公に告ぐ。文公呂・郤を召さんと欲す。呂・郤等は党多し。文公初めて国に入り、国人の己を売らんことを恐れ、乃ち微行を為し、秦の繆公に王城に会す。国人知る莫し。三月己丑、呂・郤等果たして反し、公宮を焚くも、文公を得ず。文公の衛徒与に戦ふ。呂・郤等兵を引きて奔らんと欲す。秦の繆公呂・郤等を誘ひ、之を河上に殺す。晋国復して文公帰るを得たり。夏、夫人を秦に迎ふ。秦の文公に妻す所の者卒に夫人と為る。秦三千人を送りて衛と為し、以て晋の乱に備ふ。文公政を修め、恵みを百姓に施す。従亡の者及び功臣を賞し、大なる者は邑を封じ、小なる者は爵を尊くす。未だ尽くは賞を行はざるに、周の襄王弟帯の難を以て出でて鄭の地に居り、来たりて急を晋に告ぐ。晋初めて定まり、兵を発せんと欲するも、他の乱の起こらんことを恐る。是を以て従亡を賞するに未だ隠者介子推に至らず。推も亦た禄を言はず、禄も亦た及ばず。
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