史記 / 晋世家
」王曰:「晉侯亡在外十九年,困日久矣,果得反國,險阸盡知之,能用其民,天之所開,不可當。
新字:」王曰:「晋侯亡在外十九年,困日久矣,果得反国,険阸尽知之,能用其民,天之所開,不可当。
書き下し
楚王曰く、「晉侯亡げて外に在ること十九年、困しむこと日に久し。果たして国に反るを得、険阸尽く之を知る、能く其の民を用ゐる、天の開く所なり、当たる可からず」と。
現代語訳
楚王は言った。「晉侯(重耳)は亡命して国外にあること十九年、苦難の日々は長かった。ついに国へ帰ることができ、艱難辛苦を知り尽くしている。よく民を用いることができる。天が道を開いた者だ。立ち向かってはならぬ」。
解説
「長い苦難の年月こそが、人を鍛え上げ、他に代えがたい強さを与える」——敵の楚王が、晋の文公(重耳)を、恐れて評した一段です。晋の文公(重耳)は、若い頃、国内の内乱を逃れて、実に十九年もの長きにわたり、諸国を、放浪する亡命生活を、送りました。飢え、辱められ、命を狙われ——想像を絶する、辛酸を、なめ尽くしたのです。そして、六十を過ぎてから、ようやく帰国し、君主の座に就きました。その文公と、まさに、決戦(城濮の戦い)に臨もうとしていたとき、敵国・楚の王は、配下の将軍・子玉が、(強気に)晋との決戦を、主張したのに対し、(慎重に、)こう言って、警戒しました。「晋侯(文公)は、(国を追われ、)外国に、亡命していること、十九年。その苦しみは、あまりに、長く続いた。それでも、ついに、(あきらめず、)帰国を、果たしたのだ。——だから、彼は、(あらゆる、)険しい難所や、危機というものを、(身をもって、)ことごとく、知り尽くしている(險阸盡知之)。そして、(その苦難の中で、人の心を学び、)民を、(心から)用いる(動かす)ことが、できるようになっている(能用其民)。(これは、)天が、彼のために、道を開いたのだ。(そのような相手には、)とても、太刀打ちできない(不可當)」と。長い苦難の年月が、重耳を、他に代えがたい、強靭な指導者へと、鍛え上げていたことを、敵国の王が、誰よりも、正確に、見抜いていたのです。ここに、苦難と成長についての教訓があります。第一に、長く、厳しい苦難の年月は、(無駄な回り道ではなく、)人を、深く鍛え上げ、他に代えがたい、強さと、見識を、与えるということ。十九年の亡命は、重耳から、あらゆる甘さを削ぎ落とし、「あらゆる危機を、知り尽くした(險阸盡知之)」人物へと、彼を、変えた。第二に、とりわけ、苦難の中で、人の情けや、裏切りを、身をもって知った者は、(人の心を深く理解し、)人を、心から動かす力(能用其民)を、身につけるということ。順風満帆で育った者には、この深みは、宿らない。第三に、だからこそ、今、自分が置かれている、長く、報われない、苦しい時期は——将来の、自分を鍛える、かけがえのない、財産になっているかもしれない、ということ。組織や人生で、長く厳しい苦難の年月が人を深く鍛え他に代えがたい強さと見識を与えると知ること、苦難の中で人の心を学んだ者こそ人を動かす力を持つと理解すること、そして今の苦しい時期が将来の自分を鍛える財産になりうると信じること——楚王の重耳評は、苦難が人を鍛えることを教えます。
この章句が説くこと
晋文公重耳十九年の亡命苦難が人を鍛える険阸尽知之あらゆる危機を知り尽くす能用其民
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『長短経』懼戒我が先君文公は、狐季姫の子なり。献公に寵有り。学を好みて弐ならず、生まれて十七年にして、士五人有り〔狐偃・趙衰・顛頡・魏武子・司空季子、五士の従い出づる者なり〕。先大夫子餘・子犯有りて以て腹心と為し〔子餘は趙衰、子犯は狐偃〕、魏犨・賈佗有りて以て股肱と為し、斉・宋・秦・楚有りて以て外主と為し〔斉は妻わすに女を以てし、宋は贈るに馬を以てし、楚王は之を饗し、秦伯は之を納る〕、欒・郤・狐・先有りて以て内主と為す〔欒枝・郤縠・狐突・先軫を謂うなり〕。亡ぶること十九年、志を守ること弥々篤し。恵・懐は民を棄て、従いて之に与す。献に異親無く、民に異望無し〔献公の子九人、惟だ文公のみ在り〕。天方に晋を相く。将に何を以て之に代わらん。此の二君は、子干に異なり。共に寵子有り、国に奥主有り〔棄疾を謂うなり〕。子干は民に施す無く、外に援無し。晋を去るも晋送らず、楚に帰るも楚迎えず。何を以て国を冀わん」と。子干果たして終えず、卒に棄疾を立つること、叔向の言の如し。
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