史記 / 晋世家
居楚數月,而晉太子圉亡秦,秦怨之;聞重耳在楚,乃召之。成王曰:「楚遠,更數國乃至晉。秦晉接境,秦君賢,子其勉行!」厚送重耳。重耳至秦,繆公以宗女五人妻重耳,故子圉妻與往。重耳不欲受,司空季子曰:「其國且伐,況其故妻乎!且受以結秦親而求入,子乃拘小禮,忘大丑乎!」遂受。繆公大歡,與重耳飲。趙衰歌黍苗詩。繆公曰:「知子欲急反國矣。」趙衰與重耳下,再拜曰:「孤臣之仰君,如百穀之望時雨。」是時晉惠公十四年秋。惠公以九月卒,子圉立。十一月,葬惠公。十二月,晉國大夫欒、郤等聞重耳在秦,皆陰來勸重耳、趙衰等反國,爲内應甚衆。於是秦繆公乃發兵與重耳歸晉。晉聞秦兵來,亦發兵拒之。然皆陰知公子重耳入也。唯惠公之故貴臣呂、郤之屬不欲立重耳。重耳出亡凡十九歳而得入,時年六十二矣,晉人多附焉。文公元年春,秦送重耳至河。咎犯曰:「臣從君周旋天下,過亦多矣。臣猶知之,況於君乎?請從此去矣。」重耳曰:「若反國,所不與子犯共者,河伯視之!」乃投璧河中,以與子犯盟。是時介子推從,在船中,乃笑曰:「天實開公子,而子犯以爲己功而要市於君,固足羞也。吾不忍與同位。」乃自隱渡河。秦兵圍令狐,晉軍于廬柳。
新字:居楚数月,而晋太子圉亡秦,秦怨之;聞重耳在楚,乃召之。成王曰:「楚遠,更数国乃至晋。秦晋接境,秦君賢,子其勉行!」厚送重耳。重耳至秦,繆公以宗女五人妻重耳,故子圉妻与往。重耳不欲受,司空季子曰:「其国且伐,況其故妻乎!且受以結秦親而求入,子乃拘小礼,忘大丑乎!」遂受。繆公大歓,与重耳飲。趙衰歌黍苗詩。繆公曰:「知子欲急反国矣。」趙衰与重耳下,再拝曰:「孤臣之仰君,如百穀之望時雨。」是時晋恵公十四年秋。恵公以九月卒,子圉立。十一月,葬恵公。十二月,晋国大夫欒、郤等聞重耳在秦,皆陰来勧重耳、趙衰等反国,為内応甚衆。於是秦繆公乃発兵与重耳帰晋。晋聞秦兵来,亦発兵拒之。然皆陰知公子重耳入也。唯恵公之故貴臣呂、郤之属不欲立重耳。重耳出亡凡十九歳而得入,時年六十二矣,晋人多附焉。文公元年春,秦送重耳至河。咎犯曰:「臣従君周旋天下,過亦多矣。臣猶知之,況於君乎?請従此去矣。」重耳曰:「若反国,所不与子犯共者,河伯視之!」乃投璧河中,以与子犯盟。是時介子推従,在船中,乃笑曰:「天実開公子,而子犯以為己功而要市於君,固足羞也。吾不忍与同位。」乃自隠渡河。秦兵囲令狐,晋軍于廬柳。
書き下し
楚に居ること数月、而して晋の太子圉秦より亡ぐ。秦之を怨む。重耳の楚に在るを聞き、乃ち之を召す。成王曰く、「楚は遠く、数国を更て乃ち晋に至る。秦・晋は境を接し、秦君は賢なり。子其れ勉めて行け」と。厚く重耳を送る。重耳秦に至る。繆公宗女五人を以て重耳に妻す。故の子圉の妻も与に往く。重耳受くるを欲せず。司空季子曰く、「其の国すら且に伐たんとす。況んや其の故の妻をや。且つ受けて以て秦の親を結びて入らんことを求む。子乃ち小礼に拘はりて、大醜を忘れんか」と。遂に受く。繆公大いに歓び、重耳と飲む。趙衰黍苗の詩を歌ふ。繆公曰く、「子の急ぎ国に反らんと欲するを知る」と。趙衰重耳と下り、再拝して曰く、「孤臣の君を仰ぐは、百穀の時雨を望むが如し」と。是の時晋の恵公の十四年の秋なり。恵公九月を以て卒し、子圉立つ。十一月、恵公を葬る。十二月、晋国の大夫欒・郤等重耳の秦に在るを聞き、皆陰かに来たりて重耳・趙衰等に国に反らんことを勧む。内応を為す者甚だ衆し。是に於て秦の繆公乃ち兵を発して重耳と晋に帰る。晋秦の兵の来たるを聞き、亦た兵を発して之を拒む。然れども皆陰かに公子重耳の入るを知る。唯だ恵公の故の貴臣呂・郤の属のみ重耳を立つるを欲せず。重耳出亡すること凡そ十九歳にして入るを得たり。時に年六十二なり。晋人多く焉に附く。文公の元年春、秦重耳を送りて河に至る。咎犯曰く、「臣君に従ひて天下を周旋し、過ちも亦た多し。臣すら猶ほ之を知る。況んや君に於てをや。請ふ此より去らん」と。重耳曰く、「若し国に反りて、子犯と共にせざる所の者は、河伯之を視よ」と。乃ち璧を河中に投じ、以て子犯と盟ふ。是の時介子推従ひて、船中に在り。乃ち笑ひて曰く、「天実に公子を開く。而して子犯以て己の功と為して君に要市す。固より羞づるに足る。吾同位するに忍びず」と。乃ち自ら隠れて河を渡る。秦の兵令狐を囲み、晋廬柳に軍す。
現代語訳
重耳が楚にいて数か月たったころ、晋の太子圉が秦から逃げ帰った。秦はこれを恨み、重耳が楚にいると聞いて、呼び寄せようとした。成王は言った。「楚は遠く、いくつもの国を経なければ晋に着かない。秦と晋は国境を接しており、秦の君は賢明だ。あなたは努めて秦へ行くがよい」。そして重耳を手厚く送り出した。重耳が秦に着くと、繆公は一族の娘五人を重耳に嫁がせた。その中にはかつての子圉の妻も含まれていた。重耳は受けたくなかったが、司空季子が言った。「その国(子圉の国)さえこれから討とうとしているのに、まして元の妻などを気にすることがあろうか。それに、受けて秦と親しい関係を結び、帰国の助けを求めるのだ。あなたは小さな礼儀にこだわって、大きな恥(帰国できないこと)を忘れるのか」。重耳はついに受け入れた。繆公は大いに喜び、重耳と酒を酌み交わした。趙衰が「黍苗」の詩を歌うと、繆公は言った。「あなたが一日も早く国に帰りたいと思っているのはよくわかった」。趙衰は重耳とともに席を下り、再拝して言った。「身寄りのない私どもが君を仰ぎ見るのは、あらゆる穀物が恵みの雨を待ち望むようなものだ」。このときは晋の恵公の十四年の秋であった。恵公は九月に亡くなり、子圉が立った。十一月、恵公が葬られた。十二月、晋の大夫の欒氏や郤氏らは重耳が秦にいると聞き、みなひそかに来て重耳や趙衰らに帰国を勧めた。内応しようとする者はたいへん多かった。そこで秦の繆公は兵を出して重耳とともに晋へ向かった。晋は秦の兵が来ると聞いて兵を出して防ごうとしたが、みなひそかに公子重耳が帰ってくることを知っていた。ただ恵公の古くからの重臣である呂氏・郤氏の一派だけが、重耳を立てることを望まなかった。重耳は国を出て亡命すること十九年で、ようやく帰国できた。このとき六十二歳であった。晋の人々の多くが重耳に心を寄せた。文公の元年の春、秦は重耳を黄河のほとりまで送った。咎犯は言った。「私は君に従って天下を巡り歩き、過ちも数多く犯した。私自身でさえそれを知っているのだから、まして君はご存じだろう。どうかここでお暇をいただきたい」。重耳は言った。「もし国に帰って、子犯(咎犯)と心を一つにしないことがあれば、河の神よ、見届けたまえ」。そして璧を黄河に投げ入れて、子犯と誓いを立てた。このとき介子推も従って船の中にいたが、笑って言った。「天がまことに公子の道を開いたのだ。それなのに子犯はそれを自分の手柄だと思い、君と取引をしている。まったく恥ずべきことだ。私はこんな者と同じ列に並ぶのには耐えられない」。そして自ら身を隠して黄河を渡った。秦の兵は令狐を包囲し、晋の軍は廬柳に陣を敷いた。
解説
関連する章句
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史記 晋世家二月辛丑、咎犯秦・晋の大夫と郇に盟ふ。壬寅、重耳晋の師に入る。丙午、曲沃に入る。丁未、武宮に朝し、即位して晋君と為る。是を文公と為す。群臣皆往く。懐公圉高梁に奔る。戊申、人をして懐公を殺さしむ。懐公の故の大臣呂省・郤芮本より文公に附かず。文公立ち、誅せられんことを恐れ、乃ち其の徒と謀りて公宮を焼き、文公を殺さんと欲す。文公知らず。始め嘗て文公を殺さんと欲せし宦者履鞮其の謀を知り、以て文公に告げて、前の罪を解かんと欲し、文公に見えんことを求む。文公見えず、人をして譲めしめて曰く、「蒲城の事、女予が袪を斬る。其の後我狄君に従ひて猟す。女恵公の為に来たりて我を殺さんことを求む。恵公女と期するに三日にして至れとす。而るに女一日にして至る。何ぞ速やかなるや。女其れ之を念へ」と。宦者曰く、「臣は刀鋸の余なり。敢て二心を以て君に事へ主に倍かず。故に罪を君に得たり。君已に国に反る。其れ蒲・翟無からんや。且つ管仲鉤を射て、桓公以て覇たり。今刑余の人事を以て告ぐるも君見えずんば、禍又且に及ばんとす」と。是に於て之に見ゆ。遂に呂・郤等を以て文公に告ぐ。文公呂・郤を召さんと欲す。呂・郤等は党多し。文公初めて国に入り、国人の己を売らんことを恐れ、乃ち微行を為し、秦の繆公に王城に会す。国人知る莫し。三月己丑、呂・郤等果たして反し、公宮を焚くも、文公を得ず。文公の衛徒与に戦ふ。呂・郤等兵を引きて奔らんと欲す。秦の繆公呂・郤等を誘ひ、之を河上に殺す。晋国復して文公帰るを得たり。夏、夫人を秦に迎ふ。秦の文公に妻す所の者卒に夫人と為る。秦三千人を送りて衛と為し、以て晋の乱に備ふ。文公政を修め、恵みを百姓に施す。従亡の者及び功臣を賞し、大なる者は邑を封じ、小なる者は爵を尊くす。未だ尽くは賞を行はざるに、周の襄王弟帯の難を以て出でて鄭の地に居り、来たりて急を晋に告ぐ。晋初めて定まり、兵を発せんと欲するも、他の乱の起こらんことを恐る。是を以て従亡を賞するに未だ隠者介子推に至らず。推も亦た禄を言はず、禄も亦た及ばず。
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史記 晋世家子圉遂に亡げて晋に帰る。十四年九月、恵公卒し、太子圉立つ。是を懐公と為す。子圉の亡ぐるや、秦之を怨み、乃ち公子重耳を求め、之を内れんと欲す。子圉の立つや、秦の伐たんことを畏る。乃ち国中の諸々の重耳に従ひて亡げし者に令して与に期し、期尽きて到らざる者は尽く其の家を滅ぼさんとす。狐突の子毛及び偃重耳に従ひて秦に在り。召すを肯ぜず。懐公怒り、狐突を囚ふ。突曰く、「臣の子重耳に事ふること年数有り。今之を召すは、是れ之に君に反くことを教ふるなり。何を以て之を教へん」と。懐公卒に狐突を殺す。秦の繆公乃ち兵を発して送りて重耳を内れ、人をして欒・郤の党に告げて内応を為さしめ、懐公を高梁に殺し、重耳を入る。重耳立つ。是を文公と為す。晋の文公重耳は、晋の献公の子なり。少きより士を好み、年十七にして、賢士五人有り。趙衰と曰ひ、狐偃咎犯、文公の舅なり、賈佗、先軫、魏武子なり。献公の太子為りし時より、重耳固より已に成人たり。献公即位するとき、重耳年二十一なり。献公の十三年、驪姫の故を以て、重耳蒲城に備へて秦を守る。献公の二十一年、献公太子申生を殺す。驪姫之を讒す。恐れて、献公に辞せずして蒲城を守る。献公の二十二年、献公宦者履鞮をして趣(すみ)やかに重耳を殺さしむ。重耳垣を踰ゆ。宦者逐ひて其の衣袪を斬る。重耳遂に狄に奔る。狄は、其の母の国なり。是の時重耳年四十三なり。此の五士に従ひ、其の余の名あらざる者数十人、狄に至る。狄咎如を伐ち、二女を得たり。長女を以て重耳に妻し、伯鯈・叔劉を生む。少女を以て趙衰に妻し、盾を生む。狄に居ること五歳にして晋の献公卒す。里克已に奚斉・悼子を殺し、乃ち人をして迎へしめ、重耳を立てんと欲す。重耳殺されんことを畏れ、因りて固く謝し、敢て入らず。已にして晋更に其の弟夷吾を迎へて之を立つ。是を恵公と為す。
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史記 晋世家繆公の壮士冒して晋の軍を敗る。晋の軍敗れ、遂に秦の繆公を失ひ、反って晋公を獲て以て帰る。秦将に以て上帝を祀らんとす。晋君の姊は繆公の夫人為り。衰絰して涕泣す。公曰く、「晋侯を得て将に以て楽しみと為さんとす。今乃ち此の如し。且つ吾聞く、箕子唐叔の初めて封ぜらるるを見て曰く、『其の後必ず当に大なるべし』と。晋庸(なん)ぞ滅ぼすべけんや」と。乃ち晋侯と王城に盟ひて之が帰るを許す。晋侯も亦た呂省等をして国人に報ぜしめて曰く、「孤帰るを得と雖も、社稷に見ゆる面目毋し。日を卜して子圉を立てよ」と。晋人之を聞き、皆哭す。秦の繆公呂省に問ふ、「晋国和するか」と。対へて曰く、「和せず。小人は君を失ひ親を亡ふを懼れ、子圉を立つるを憚らず。曰く『必ず讎に報いん。寧ろ戎・狄に事へん』と。其の君子は則ち君を愛して罪を知り、以て秦の命を待つ。曰く『必ず徳に報いん』と。此の二つの故有り、和せず」と。是に於て秦の繆公更に晋の恵公を舎(やど)らしめ、之に七牢を餽る。十一月、晋侯を帰す。晋侯国に至り、慶鄭を誅し、政教を修む。謀りて曰く、「重耳外に在り。諸侯多く之を内るるを利とす」と。人をして重耳を狄に殺さしめんと欲す。重耳之を聞き、斉に如く。八年、太子圉をして秦に質たらしむ。初め、恵公亡げて梁に在るや、梁伯其の女を以て之に妻す。一男一女を生む。梁伯之を卜す。男は人の臣と為り、女は人の妾と為る。故に男に名づけて圉と為し、女を妾と為す。十年、秦梁を滅ぼす。梁伯土功を好み、城溝を治め、民力罷れて怨み、其の衆数々相驚きて「秦の寇至る」と曰ふ。民恐れ惑ふ。秦竟に之を滅ぼす。十三年、晋の恵公病む。内に数子有り。太子圉曰く、「吾が母の家は梁に在り。梁今秦之を滅ぼす。我外は秦に軽んぜられ、内は国に援け無し。君即し起たずんば、大夫を病ましめ軽んぜられ、更に他の公子を立てん」と。乃ち其の妻と倶に亡げ帰らんことを謀る。秦の女曰く、「子は一国の太子にして、辱めて此に在り。秦婢子をして侍らしむるは、以て子の心を固めんとてなり。子亡げよ。我子に従はず、亦た敢て言はず」と。
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史記 晋世家恵公の七年、重耳を畏れ、乃ち宦者履鞮をして壮士と重耳を殺さんと欲せしむ。重耳之を聞き、乃ち趙衰等に謀りて曰く、「始め吾狄に奔るは、以て用ふべしと為すに非ず。近くして以て通じ易きを以て、故に且く足を休む。足を休むること久し。固より大国に徙らんことを願ふ。夫れ斉の桓公は善を好み、志は覇王に在り、諸侯を収恤す。今聞く、管仲・隰朋死すと。此れ亦た賢佐を得んと欲す。盍ぞ往かざる」と。是に於て遂に行く。重耳其の妻に謂ひて曰く、「我を待つこと二十五年にして来たらずんば、乃ち嫁げ」と。其の妻笑ひて曰く、「二十五年に犁(およ)ばば、吾が冢上の柏大ならん。然りと雖も、妾子を待たん」と。重耳狄に居ること凡そ十二年にして去る。衛を過ぐ。衛の文公礼せず。去りて五鹿を過ぐ。饑ゑて野人に従ひて食を乞ふ。野人土を器中に盛りて之を進む。重耳怒る。趙衰曰く、「土は、土を有つなり。君其れ拝して之を受けよ」と。斉に至る。斉の桓公厚く礼し、而して宗女を以て之に妻し、馬二十乗有り。重耳之に安んず。重耳斉に至りて二歳にして桓公卒す。会々豎刀等内乱を為し、斉の孝公の立つや、諸侯の兵数々至る。斉に留まること凡そ五歳。重耳斉の女を愛し、去る心毋し。趙衰・咎犯乃ち桑下に於て行かんことを謀る。斉の女の侍者桑上に在りて之を聞き、以て其の主に告ぐ。其の主乃ち侍者を殺し、重耳に趣やかに行かんことを勧む。重耳曰く、「人生安楽なり。孰か其の他を知らん。必ず此に死せん。去ること能はず」と。斉の女曰く、「子は一国の公子なり。窮して此に来たる。数士は子を以て命と為す。子疾く国に反りて、労臣に報いずして、女の徳を懐ふ。窃かに子の為に之を羞づ。且つ求めずんば、何れの時にか功を得ん」と。乃ち趙衰等と謀り、重耳を酔はしめ、載せて以て行く。行くこと遠くして覚む。重耳大いに怒り、戈を引きて咎犯を殺さんと欲す。咎犯曰く、「臣を殺して子を成すは、偃の願ひなり」と。重耳曰く、「事成らずんば、我舅氏の肉を食らはん」と。咎犯曰く、「事成らずんば、犯の肉は腥臊なり。何ぞ食らふに足らん」と。
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史記 晋世家乃ち止み、遂に行く。曹を過ぐ。曹の共公礼せず、重耳の駢脅を観んと欲す。曹の大夫釐負羈曰く、「晋の公子は賢にして、又同姓なり。窮して来たりて我を過ぐ。奈何ぞ礼せざる」と。共公其の謀に従はず。負羈乃ち私かに重耳に食を遺り、璧を其の下に置く。重耳其の食を受け、其の璧を還す。去りて宋を過ぐ。宋の襄公新たに兵を楚に困しめられ、泓に傷つく。重耳の賢なるを聞き、乃ち国礼を以て重耳に礼す。宋の司馬公孫固咎犯に善く、曰く、「宋は小国にして新たに困しむ。以て入らんことを求むるに足らず。更に大国に之け」と。乃ち去る。鄭を過ぐ。鄭の文公礼せず。鄭の叔瞻其の君を諫めて曰く、「晋の公子は賢にして、其の従者は皆国の相なり。且つ又同姓なり。鄭の出は厲王よりし、晋の出は武王よりす」と。鄭君曰く、「諸侯の亡公子の此を過ぐる者衆し。安んぞ尽く礼すべけんや」と。叔瞻曰く、「君礼せずんば、之を殺すに如かず。且に後に国の患と為らんとす」と。鄭君聴かず。重耳去りて楚に之く。楚の成王適諸侯の礼を以て之を待す。重耳謝して敢て当たらず。趙衰曰く、「子亡げて外に在ること十余年、小国すら子を軽んず。況んや大国をや。今楚は大国にして固く子を遇す。子其れ譲ること毋かれ。此れ天子を開くなり」と。遂に客礼を以て之に見ゆ。成王厚く重耳を遇す。重耳甚だ卑くす。成王曰く、「子即し国に反らば、何を以て寡人に報いん」と。重耳曰く、「羽毛歯角玉帛は、君王の余す所なり。未だ報ゆる所以を知らず」と。王曰く、「然りと雖も、何を以て不穀に報いん」と。重耳曰く、「即し已むを得ずして、君王と兵車を以て平原広沢に会せば、請ふ王を辟くること三舎ならん」と。楚の将子玉怒りて曰く、「王晋の公子を遇すること至って厚し。今重耳の言孫(したが)はず。請ふ之を殺さん」と。成王曰く、「晋の公子は賢にして外に困しむこと久し。従者は皆国器なり。此れ天の置く所なり。庸ぞ殺すべけんや。且つ言何を以て之を易へん」と。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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