史記 / 晋世家
秦繆公許之,使人與歸報晉,厚賂三子。三子曰:「幣厚言甘,此必邳鄭賣我於秦。」遂殺邳鄭及裏克、邳鄭之黨七輿大夫。邳鄭子豹奔秦,言伐晉,繆公弗聽。惠公之立,倍秦地及裏克,誅七輿大夫,國人不附。二年,周使召公過禮晉惠公,惠公禮倨,召公譏之。四年,晉饑,乞糴於秦。繆公問百里奚,百里奚曰:「天菑流行,國家代有,救菑恤鄰,國之道也。與之。」邳鄭子豹曰:「伐之。」繆公曰:「其君是惡,其民何罪!」卒與粟,自雍屬絳。五年,秦饑,請糴於晉。晉君謀之,慶鄭曰:「以秦得立,已而倍其地約。晉饑而秦貸我,今秦饑請糴,與之何疑?而謀之!」虢射曰:「往年天以晉賜秦,秦弗知取而貸我。今天以秦賜晉,晉其可以逆天乎?遂伐之。」惠公用虢射謀,不與秦粟,而發兵且伐秦。秦大怒,亦發兵伐晉。六年春,秦繆公將兵伐晉。晉惠公謂慶鄭曰:「秦師深矣,柰何?」鄭曰:「秦内君,君倍其賂;晉饑秦輸粟,秦饑而晉倍之,乃欲因其饑伐之:其深不亦宜乎!」晉卜御右,慶鄭皆吉。公曰:「鄭不孫。」乃更令歩陽御戎,家仆徒爲右,進兵。九月壬戌,秦繆公、晉惠公合戰韓原。惠公馬騺不行,秦兵至,公窘,召慶鄭爲御。鄭曰:「不用卜,敗不亦當乎!」遂去。更令梁繇靡御,虢射爲右,輅秦繆公。
新字:秦繆公許之,使人与帰報晋,厚賂三子。三子曰:「幣厚言甘,此必邳鄭売我於秦。」遂殺邳鄭及裏克、邳鄭之党七輿大夫。邳鄭子豹奔秦,言伐晋,繆公弗聴。恵公之立,倍秦地及裏克,誅七輿大夫,国人不附。二年,周使召公過礼晋恵公,恵公礼倨,召公譏之。四年,晋饑,乞糴於秦。繆公問百里奚,百里奚曰:「天菑流行,国家代有,救菑恤鄰,国之道也。与之。」邳鄭子豹曰:「伐之。」繆公曰:「其君是悪,其民何罪!」卒与粟,自雍属絳。五年,秦饑,請糴於晋。晋君謀之,慶鄭曰:「以秦得立,已而倍其地約。晋饑而秦貸我,今秦饑請糴,与之何疑?而謀之!」虢射曰:「往年天以晋賜秦,秦弗知取而貸我。今天以秦賜晋,晋其可以逆天乎?遂伐之。」恵公用虢射謀,不与秦粟,而発兵且伐秦。秦大怒,亦発兵伐晋。六年春,秦繆公将兵伐晋。晋恵公謂慶鄭曰:「秦師深矣,柰何?」鄭曰:「秦内君,君倍其賂;晋饑秦輸粟,秦饑而晋倍之,乃欲因其饑伐之:其深不亦宜乎!」晋卜御右,慶鄭皆吉。公曰:「鄭不孫。」乃更令歩陽御戎,家仆徒為右,進兵。九月壬戌,秦繆公、晋恵公合戦韓原。恵公馬騺不行,秦兵至,公窘,召慶鄭為御。鄭曰:「不用卜,敗不亦当乎!」遂去。更令梁繇靡御,虢射為右,輅秦繆公。
書き下し
秦の繆公之を許し、人をして与に帰りて晋に報ぜしめ、厚く三子に賂ふ。三子曰く、「幣厚く言甘し。此れ必ず邳鄭我を秦に売るならん」と。遂に邳鄭及び里克・邳鄭の党の七輿大夫を殺す。邳鄭の子豹秦に奔り、晋を伐たんことを言ふ。繆公聴かず。恵公の立つや、秦の地及び里克に倍き、七輿大夫を誅し、国人附かず。二年、周召公過をして晋の恵公に礼せしむ。恵公礼倨る。召公之を譏る。四年、晋饑ゑ、糴を秦に乞ふ。繆公百里奚に問ふ。百里奚曰く、「天菑流行し、国家代はる代はる有り。菑を救ひ隣を恤むは、国の道なり。之に与へよ」と。邳鄭の子豹曰く、「之を伐て」と。繆公曰く、「其の君は是れ悪なり。其の民何の罪かあらん」と。卒に粟を与へ、雍より絳に属(つら)なる。五年、秦饑ゑ、糴を晋に請ふ。晋君之を謀る。慶鄭曰く、「秦を以て立つを得、已にして其の地の約に倍く。晋饑ゑて秦我に貸す。今秦饑ゑて糴を請ふ。之に与ふること何ぞ疑はん。而も之を謀るとは」と。虢射曰く、「往年天晋を以て秦に賜ふ。秦取るを知らずして我に貸す。今天秦を以て晋に賜ふ。晋其れ以て天に逆らふべけんや。遂に之を伐て」と。恵公虢射の謀を用ひ、秦に粟を与へず、而して兵を発して且に秦を伐たんとす。秦大いに怒り、亦た兵を発して晋を伐つ。六年春、秦の繆公兵を将ゐて晋を伐つ。晋の恵公慶鄭に謂ひて曰く、「秦の師深し。奈何せん」と。鄭曰く、「秦君を内る。君其の賂に倍く。晋饑ゑて秦粟を輸る。秦饑ゑて晋之に倍き、乃ち其の饑に因りて之を伐たんと欲す。其の深きも亦た宜ならずや」と。晋御右を卜す。慶鄭皆吉なり。公曰く、「鄭は孫(したが)はず」と。乃ち更に歩陽をして戎に御せしめ、家僕徒を右と為し、兵を進む。九月壬戌、秦の繆公・晋の恵公韓原に合戦す。恵公の馬騺(ち)して行かず。秦の兵至る。公窘しみ、慶鄭を召して御と為さんとす。鄭曰く、「卜を用ひず。敗るるも亦た当たらずや」と。遂に去る。更に梁繇靡をして御せしめ、虢射を右と為し、秦の繆公を輅(むか)ふ。
現代語訳
秦の繆公はこれを承知し、人を邳鄭と一緒に晋へ帰らせて返礼させ、呂省・郤称・冀芮の三人に手厚く贈り物をした。三人は言った。「贈り物が手厚く、言葉が甘い。これはきっと邳鄭が我々を秦に売ったのだ」。そこで邳鄭と、里克・邳鄭の一党である七輿大夫(七人の車の大夫)を殺した。邳鄭の子の豹は秦に逃れ、晋を討つよう進言したが、繆公は聞き入れなかった。恵公は即位すると、秦との土地の約束と里克への約束に背き、七輿大夫を誅殺したので、国の人々は恵公に心を寄せなかった。二年、周は召公過を送って晋の恵公に礼を授けさせたが、恵公の態度は傲慢で、召公はこれを非難した。四年、晋が飢饉に見舞われ、秦に穀物の買い入れを求めた。繆公が百里奚に尋ねると、百里奚は言った。「天災はめぐるもので、どの国にもかわるがわる起こる。災いを救い隣国を思いやるのは、国としての道だ。与えるべきだ」。邳鄭の子の豹は言った。「この機に晋を討つべきだ」。繆公は言った。「その君主は悪人だが、民に何の罪があろう」。こうして結局穀物を与え、その輸送の列は秦の都の雍から晋の都の絳まで連なった。五年、今度は秦が飢饉になり、晋に穀物の買い入れを求めた。晋の君主がこれを相談すると、慶鄭は言った。「秦のおかげで位につけたのに、その後土地の約束に背いた。晋が飢えたときには秦が穀物を貸してくれた。いま秦が飢えて穀物を求めているのに、与えるのに何を迷うことがあるのか。それを相談するとは」。虢射は言った。「去年は天が晋を秦に与えたのに、秦はそれを取ることを知らずに我々に穀物を貸した。いまは天が秦を晋に与えている。晋は天に逆らってよいのか。この機に秦を討つべきだ」。恵公は虢射の策を用い、秦に穀物を与えず、兵を出して秦を攻めようとした。秦は大いに怒り、兵を出して晋を攻めた。六年の春、秦の繆公は兵を率いて晋を攻めた。晋の恵公は慶鄭に言った。「秦軍が深く攻め込んできた。どうしたらよいか」。慶鄭は言った。「秦は君を国に入れたのに、君はその礼の約束に背いた。晋が飢えたときには秦が穀物を送ったのに、秦が飢えると晋はそれに背き、その飢饉につけこんで攻めようとした。秦が深く攻め込んでくるのも当然ではないか」。晋では戦車の御者と右の護衛役を誰にするか占ったところ、慶鄭がいずれにも吉と出た。恵公は言った。「慶鄭は従順でない」。そこで歩陽を戦車の御者とし、家僕徒を右の護衛役として、兵を進めた。九月壬戌の日、秦の繆公と晋の恵公は韓原で戦った。恵公の馬がぬかるみにはまって動けなくなった。秦の兵が迫り、恵公は窮して、慶鄭を呼んで御者にしようとした。慶鄭は言った。「占いの結果を用いなかったのだから、負けるのも当然だろう」。そして去っていった。恵公は梁繇靡に御者をさせ、虢射を右の護衛役として、秦の繆公を迎え撃った。
解説
関連する章句
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史記 秦本紀聴かず、而して陰かに豹を用ゐる。十二年、斉の管仲・隰朋死す。晋旱し、来たりて粟を請ふ。丕豹繆公に説きて与ふる勿からしめ、其の饑に因りて之を伐たんとす。繆公公孫支に問ふ。支曰く、「饑穣は更事なるのみ、与へざる可からず」と。百里傒に問ふ。傒曰く、「夷吾罪を君に得たり、其の百姓何の罪かあらん」と。是に於て百里傒・公孫支の言を用ゐ、卒に之に粟を与ふ。船漕車転を以てし、雍より相望みて絳に至る。十四年、秦饑ゑ、粟を晋に請ふ。晋君之を群臣に謀る。虢射曰く、「其の饑に因りて之を伐たば、大功有る可し」と。晋君之に従ふ。十五年、兵を興して将に秦を攻めんとす。繆公兵を発し、丕豹をして将たらしめ、自ら往きて之を撃つ。九月壬戌、晋の恵公夷吾と韓の地に合戦す。晋君其の軍を棄て、秦と利を争ひ、還りて馬騺る。繆公麾下と馳せて之を追ふも、晋君を得る能はず、反りて晋軍の囲む所と為る。晋繆公を撃ち、繆公傷つく。是に於て岐下の善馬を食らひし者三百人、馳せて晋軍を冒す。晋軍囲みを解き、遂に繆公を脱して反りて晋君を生け得たり。
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史記 晋世家繆公の壮士冒して晋の軍を敗る。晋の軍敗れ、遂に秦の繆公を失ひ、反って晋公を獲て以て帰る。秦将に以て上帝を祀らんとす。晋君の姊は繆公の夫人為り。衰絰して涕泣す。公曰く、「晋侯を得て将に以て楽しみと為さんとす。今乃ち此の如し。且つ吾聞く、箕子唐叔の初めて封ぜらるるを見て曰く、『其の後必ず当に大なるべし』と。晋庸(なん)ぞ滅ぼすべけんや」と。乃ち晋侯と王城に盟ひて之が帰るを許す。晋侯も亦た呂省等をして国人に報ぜしめて曰く、「孤帰るを得と雖も、社稷に見ゆる面目毋し。日を卜して子圉を立てよ」と。晋人之を聞き、皆哭す。秦の繆公呂省に問ふ、「晋国和するか」と。対へて曰く、「和せず。小人は君を失ひ親を亡ふを懼れ、子圉を立つるを憚らず。曰く『必ず讎に報いん。寧ろ戎・狄に事へん』と。其の君子は則ち君を愛して罪を知り、以て秦の命を待つ。曰く『必ず徳に報いん』と。此の二つの故有り、和せず」と。是に於て秦の繆公更に晋の恵公を舎(やど)らしめ、之に七牢を餽る。十一月、晋侯を帰す。晋侯国に至り、慶鄭を誅し、政教を修む。謀りて曰く、「重耳外に在り。諸侯多く之を内るるを利とす」と。人をして重耳を狄に殺さしめんと欲す。重耳之を聞き、斉に如く。八年、太子圉をして秦に質たらしむ。初め、恵公亡げて梁に在るや、梁伯其の女を以て之に妻す。一男一女を生む。梁伯之を卜す。男は人の臣と為り、女は人の妾と為る。故に男に名づけて圉と為し、女を妾と為す。十年、秦梁を滅ぼす。梁伯土功を好み、城溝を治め、民力罷れて怨み、其の衆数々相驚きて「秦の寇至る」と曰ふ。民恐れ惑ふ。秦竟に之を滅ぼす。十三年、晋の恵公病む。内に数子有り。太子圉曰く、「吾が母の家は梁に在り。梁今秦之を滅ぼす。我外は秦に軽んぜられ、内は国に援け無し。君即し起たずんば、大夫を病ましめ軽んぜられ、更に他の公子を立てん」と。乃ち其の妻と倶に亡げ帰らんことを謀る。秦の女曰く、「子は一国の太子にして、辱めて此に在り。秦婢子をして侍らしむるは、以て子の心を固めんとてなり。子亡げよ。我子に従はず、亦た敢て言はず」と。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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史記 秦本紀百里傒譲りて曰く、「臣は臣の友蹇叔に及ばず。蹇叔は賢にして世知る莫し。臣常に游びて斉に困しみ、食を銍人に乞ふ。蹇叔臣を収む。臣因りて斉君無知に事へんと欲す。蹇叔臣を止む。臣斉の難を脱るるを得て、遂に周に之く。周の王子穨牛を好む。臣牛を養ふを以て之に干む。穨臣を用ゐんと欲するに及び、蹇叔臣を止む。臣去りて、誅せられざるを得たり。虞君に事ふ。蹇叔臣を止む。臣虞君の臣を用ゐざるを知るも、臣誠に禄爵を私利し、且く留まる。再び其の言を用ゐて、脱るるを得、一たび用ゐずして、虞君の難に及ぶ。是を以て其の賢を知る」と。是に於て繆公人をして幣を厚くして蹇叔を迎へしめ、以て上大夫と為す。秋、繆公自ら将として晋を伐ち、河曲に戦ふ。晋の驪姫乱を作し、太子申生新城に死し、重耳・夷吾出奔す。九年、斉の桓公諸侯を葵丘に会す。晋の献公卒す。驪姫の子奚斉を立つ。其の臣里克奚斉を殺す。荀息卓子を立つ。克又卓子及び荀息を殺す。夷吾人をして秦に請はしめ、晋に入らんことを求む。是に於て繆公之を許し、百里傒をして兵を将ゐて夷吾を送らしむ。夷吾謂ひて曰く、「誠に立つを得ば、請ふ晋の河西の八城を割きて秦に与へん」と。至るに及び、已に立ちて、丕鄭をして秦に謝せしめ、約に背きて河西の城を与へず、而して里克を殺す。丕鄭之を聞き、恐れ、因りて繆公と謀りて曰く、「晋人夷吾を欲せず、実は重耳を欲す。今秦の約に背きて里克を殺すは、皆呂甥・郤芮の計なり。願はくは君利を以て急ぎ呂・郤を召せ。呂・郤至らば、則ち更めて重耳を入るること便ならん」と。繆公之を許し、人をして丕鄭と帰り、呂・郤を召さしむ。呂・郤等丕鄭に間有るを疑ひ、乃ち夷吾に言ひて丕鄭を殺す。丕鄭の子丕豹秦に奔り、繆公に説きて曰く、「晋君無道にして、百姓親しまず、伐つ可し」と。繆公曰く、「百姓苟も便ならずんば、何の故に能く其の大臣を誅せんや。能く其の大臣を誅す、此れ其の調ふなり」と。
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史記 秦本紀繆公の子四十人、其の太子嵤代はりて立つ。是を康公と為す。康公の元年。往歳繆公の卒せしとき、晋の襄公も亦卒す。襄公の弟名は雍、秦の出なり、秦に在り。晋の趙盾之を立てんと欲し、随会をして来たりて雍を迎へしむ。秦兵を以て送りて令狐に至る。晋襄公の子を立てて反りて秦の師を撃つ。秦の師敗れ、随会来奔す。二年、秦晋を伐ち、武城を取り、令狐の役に報ゆ。四年、晋秦を伐ち、少梁を取る。六年、秦晋を伐ち、羈馬を取る。河曲に戦ひ、大いに晋の軍を敗る。晋人随会の秦に在りて乱を為すを患ひ、乃ち魏讎余をして詳りて反かしめ、会と合謀し、詐りて会を得たり。会遂に晋に帰る。康公立つこと十二年にして卒し、子共公立つ。共公の二年、晋の趙穿其の君霊公を弒す。三年、楚の荘王彊く、北のかた兵雒に至り、周の鼎を問ふ。共公立つこと五年にして卒し、子桓公立つ。桓公の三年、晋我が一将を敗る。十年、楚の荘王鄭を服し、北のかた晋の兵を河上に敗る。是の時に当たり、楚霸たり、会盟を為して諸侯を合す。二十四年、晋の厲公初めて立ち、秦の桓公と河を夾みて盟ふ。帰りて秦盟に倍き、翟と合謀して晋を撃つ。二十六年、晋諸侯を率ゐて秦を伐つ。秦の軍敗走し、追ひて涇に至りて還る。桓公立つこと二十七年にして卒し、子景公立つ。景公の四年、晋の欒書其の君厲公を弒す。十五年、鄭を救ひ、晋の兵を櫟に敗る。是の時晋の悼公盟主為り。十八年、晋の悼公彊く、数諸侯を会し、率ゐて以て秦を伐ち、秦の軍を敗る。秦の軍走り、晋の兵之を追ひ、遂に涇を渡り、棫林に至りて還る。二十七年、景公晋に如き、平公と盟ひ、已にして之に背く。三十六年、楚の公子囲其の君を弒して自立す。是を霊王と為す。
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史記 晋世家秦の兵と夷吾も亦た晋に至る。斉乃ち隰朋をして秦に会して倶に夷吾を入れしめ、立てて晋君と為す。是を恵公と為す。斉の桓公晋の高梁に至りて還帰す。恵公夷吾の元年、邳鄭をして秦に謝せしめて曰く、「始め夷吾河西の地を以て君に許す。今幸ひに入りて立つを得たり。大臣曰く、『地は先君の地なり。君亡げて外に在り。何を以て擅に秦に許すを得たる者ぞ』と。寡人之を争ふも得ること能はず。故に秦に謝す」と。亦た里克に汾陽の邑を与へず、而して之が権を奪ふ。四月、周の襄王周公忌父をして斉・秦の大夫に会して共に晋の恵公に礼せしむ。恵公重耳の外に在るを以て、里克の変を為さんことを畏れ、里克に死を賜ふ。謂ひて曰く、「里子微(な)かりせば寡人立つを得ず。然りと雖も、子も亦た二君一大夫を殺す。子の君為る者も亦た難からずや」と。里克対へて曰く、「廃する所有らずんば、君何を以て興らん。之を誅せんと欲す。其れ辞無からんや。乃ち此を為すと言ふ。臣命を聞けり」と。遂に剣に伏して死す。是に於て邳鄭秦に謝せんとして使ひし未だ還らず。故に難に及ばず。晋の君恭太子申生を改葬す。秋、狐突下国に之き、申生に遇ふ。申生与に載せて之に告げて曰く、「夷吾無礼なり。余帝に請ふを得たり。将に晋を以て秦に与へんとす。秦将に余を祀らんとす」と。狐突対へて曰く、「臣聞く、神は其の宗に非ざるを食らはずと。君の祀は乃ち絶ゆること毋からんや。君其れ之を図れ」と。申生曰く、「諾。吾将に復た帝に請はんとす。後十日、新城の西偏に将に巫者有りて我を見んとす」と。之を許すや、遂に見えず。期に及びて往き、復た見ゆ。申生之に告げて曰く、「帝有罪を罰することを許せり。韓に弊れん」と。児乃ち謡ひて曰く、「恭太子更に葬らる。後十四年、晋も亦た昌えず。昌ゆるは乃ち兄に在り」と。邳鄭秦に使ひし、里克の誅せらるるを聞き、乃ち秦の繆公に説きて曰く、「呂省・郤称・冀芮実に従はざるを為す。若し重く賂ひて与に謀り、晋君を出だして、重耳を入るれば、事必ず就らん」と。
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