史記 / 晋世家
是歳也,晉復假道於虞以伐虢。虞之大夫宮之奇諫虞君曰:「晉不可假道也,是且滅虞。」虞君曰:「晉我同姓,不宜伐我。」宮之奇曰:「太伯、虞仲,太王之子也,太伯亡去,是以不嗣。虢仲、虢叔,王季之子也,爲文王卿士,其記勳在王室,藏於盟府。將虢是滅,何愛于虞?且虞之親能親於桓、莊之族乎?桓、莊之族何罪,盡滅之。虞之與虢,脣之與齒,脣亡則齒寒。」虞公不聽,遂許晉。宮之奇以其族去虞。其冬,晉滅虢,虢公丑奔周。還,襲滅虞,虜虞公及其大夫井伯百里奚以媵秦穆姬,而修虞祀。荀息牽曩所遺虞屈産之乘馬奉之獻公,獻公笑曰:「馬則吾馬,齒亦老矣!」二十三年,獻公遂發賈華等伐屈,屈潰。夷吾將奔翟。冀芮曰:「不可,重耳已在矣,今往,晉必移兵伐翟,翟畏晉,禍且及。不如走梁,梁近於秦,秦彊,吾君百歳後可以求入焉。」遂奔梁。二十五年,晉伐翟,翟以重耳故,亦撃晉於齧桑,晉兵解而去。當此時,晉彊,西有河西,與秦接境,北邊翟,東至河内。驪姬弟生悼子。二十六年夏,齊桓公大會諸侯於葵丘。晉獻公病,行後,未至,逢周之宰孔。宰孔曰:「齊桓公益驕,不務德而務遠略,諸侯弗平。君弟毋會,毋如晉何。」獻公亦病,復還歸。
新字:是歳也,晋復仮道於虞以伐虢。虞之大夫宮之奇諫虞君曰:「晋不可仮道也,是且滅虞。」虞君曰:「晋我同姓,不宜伐我。」宮之奇曰:「太伯、虞仲,太王之子也,太伯亡去,是以不嗣。虢仲、虢叔,王季之子也,為文王卿士,其記勲在王室,蔵於盟府。将虢是滅,何愛于虞?且虞之親能親於桓、荘之族乎?桓、荘之族何罪,尽滅之。虞之与虢,脣之与歯,脣亡則歯寒。」虞公不聴,遂許晋。宮之奇以其族去虞。其冬,晋滅虢,虢公丑奔周。還,襲滅虞,虜虞公及其大夫井伯百里奚以媵秦穆姫,而修虞祀。荀息牽曩所遺虞屈産之乗馬奉之献公,献公笑曰:「馬則吾馬,歯亦老矣!」二十三年,献公遂発賈華等伐屈,屈潰。夷吾将奔翟。冀芮曰:「不可,重耳已在矣,今往,晋必移兵伐翟,翟畏晋,禍且及。不如走梁,梁近於秦,秦彊,吾君百歳後可以求入焉。」遂奔梁。二十五年,晋伐翟,翟以重耳故,亦撃晋於齧桑,晋兵解而去。当此時,晋彊,西有河西,与秦接境,北辺翟,東至河内。驪姫弟生悼子。二十六年夏,斉桓公大会諸侯於葵丘。晋献公病,行後,未至,逢周之宰孔。宰孔曰:「斉桓公益驕,不務徳而務遠略,諸侯弗平。君弟毋会,毋如晋何。」献公亦病,復還帰。
書き下し
是の歳や、晋復た道を虞に仮りて以て虢を伐つ。虞の大夫宮之奇虞君を諫めて曰く、「晋に道を仮すべからず。是れ且に虞を滅ぼさんとす」と。虞君曰く、「晋は我と同姓なり。宜しく我を伐つべからず」と。宮之奇曰く、「太伯・虞仲は、太王の子なり。太伯亡げ去る。是を以て嗣がず。虢仲・虢叔は、王季の子なり。文王の卿士と為り、其の勲を王室に記し、盟府に蔵す。将に虢を是れ滅ぼさんとす。何ぞ虞を愛しまん。且つ虞の親は能く桓・荘の族より親しからんや。桓・荘の族何の罪ありて、尽く之を滅ぼせる。虞の虢に与けるは、脣の歯に与けるがごとし。脣亡ぶれば則ち歯寒し」と。虞公聴かず、遂に晋に許す。宮之奇其の族を以て虞を去る。其の冬、晋虢を滅ぼす。虢公丑周に奔る。還りて、襲ひて虞を滅ぼし、虞公及び其の大夫井伯・百里奚を虜にして以て秦の穆姫に媵(よう)し、而して虞の祀を修む。荀息曩に虞に遺りし所の屈産の乗馬を牽きて之を献公に奉ず。献公笑ひて曰く、「馬は則ち吾が馬なり。歯も亦た老いたり」と。二十三年、献公遂に賈華等を発して屈を伐たしむ。屈潰ゆ。夷吾将に翟に奔らんとす。冀芮曰く、「不可なり。重耳已に在り。今往かば、晋必ず兵を移して翟を伐たん。翟晋を畏れ、禍且に及ばんとす。梁に走るに如かず。梁は秦に近く、秦は彊し。吾が君百歳の後、以て入らんことを求むべし」と。遂に梁に奔る。二十五年、晋翟を伐つ。翟重耳の故を以て、亦た晋を齧桑に撃ち、晋の兵解きて去る。此の時に当たりて、晋彊し。西は河西を有ち、秦と境を接し、北は翟に辺し、東は河内に至る。驪姫の弟悼子を生む。二十六年夏、斉の桓公大いに諸侯を葵丘に会す。晋の献公病み、行くこと後れて、未だ至らず。周の宰孔に逢ふ。宰孔曰く、「斉の桓公益々驕り、徳を務めずして遠略を務む。諸侯平らかならず。君弟(ただ)会すること毋かれ。晋を如何ともする毋からん」と。献公も亦た病み、復た還り帰る。
現代語訳
この年、晋は再び虞に道を借りて虢を攻めようとした。虞の大夫の宮之奇は虞君を諫めて言った。「晋に道を貸してはならない。晋はこれを機に虞を滅ぼすつもりだ」。虞君は言った。「晋はわが国と同姓だ。わが国を攻めるはずがない」。宮之奇は言った。「太伯と虞仲は、周の太王の子だ。太伯は国を去ったので、位を継がなかった(虞は虞仲の子孫である)。虢仲と虢叔は、王季の子で、文王の卿士となり、その功績は王室に記録され、盟約の文書庫に納められている。晋はその虢さえ滅ぼそうとしているのだ。どうして虞を大事にしようか。それに虞と晋との親しさが、晋の桓叔・荘伯の一族より近いとでもいうのか。桓叔・荘伯の一族に何の罪があったというのか。それでも晋の献公は彼らをみな滅ぼした。虞と虢の関係は、唇と歯のようなものだ。唇がなくなれば歯は寒くなる」。虞公は聞き入れず、晋に道を貸すことを許した。宮之奇は一族を連れて虞を去った。その冬、晋は虢を滅ぼし、虢公の丑は周に逃れた。晋軍は帰り道で虞を襲って滅ぼし、虞公とその大夫の井伯・百里奚を捕らえ、秦の穆姫(献公の娘)の嫁入りのお供の者とした。そして虞の祭祀は晋が引き継いで行った。荀息は、かつて虞に贈った屈産の名馬を引いて献公に差し出した。献公は笑って言った。「馬はやはりわが馬だ。だが歯はずいぶん老けてしまった」。二十三年、献公はついに賈華らを送って屈を攻めさせた。屈の守りは崩れた。夷吾は翟へ逃げようとしたが、冀芮が言った。「いけない。重耳がすでに翟にいる。いま翟へ行けば、晋は必ず兵を向けて翟を攻めるだろう。翟は晋を恐れて、災いが我々に及ぶことになる。梁へ行くのがよい。梁は秦に近く、秦は強い。わが君(献公)が亡くなった後、秦の力を借りて帰国を求めることができる」。そこで夷吾は梁に逃れた。二十五年、晋が翟を攻めた。翟は重耳をかくまっていたので、晋を齧桑で迎え撃ち、晋軍は囲みを解いて去った。このころ晋は強大で、西は河西の地を領して秦と国境を接し、北は翟と境を接し、東は河内にまで及んでいた。驪姫の妹が悼子を産んだ。二十六年の夏、斉の桓公が葵丘で盛大に諸侯を集めて会盟した。晋の献公は病気で出発が遅れ、まだ着かないうちに、周の宰孔に出会った。宰孔は言った。「斉の桓公はますます驕り、徳に努めずに遠くへの攻略ばかりに努めている。諸侯は不満を抱いている。君はただ会盟に行かなければよい。斉も晋をどうすることもできないだろう」。献公もまた病が重かったので、引き返して帰った。
解説
関連する章句
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『春秋左氏伝』僖公五年 唇亡歯寒晉侯復た道を虞に假りて以って虢を伐たんとす。宮之奇諫めて曰く、「虢は虞の表なり。虢亡びなば、虞必ず之に從はん。晉は啟く可からず、寇は翫(あなど)る可からず。一たびを之れ甚だしと謂ふ、其れ再びす可けんや。諺に所謂『輔車相ひ依り、脣亡ぶれば齒寒し』とは、其れ虞虢の謂ひなり」と。公曰く、「晉は吾が宗なり、豈に我を害せんや」と。對へて曰く、「大伯・虞仲は、大王の昭なり。大伯從はず、是を以って嗣がず。虢仲・虢叔は、王季の穆なり、文王の卿士と為り、勳王室に在り、盟府に藏む。將に虢を是れ滅ぼさんとす、何ぞ虞を愛せんや。且つ虞は能く桓・莊よりも親しからんや。其れ之を愛するや、桓・莊の族何の罪ありて、以って戮と為すや、唯だ偪(せま)ればならずや。親にして寵を以って偪る、猶ほ尚ほ之を害す、況んや國を以ってせんをや」と。
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『新序』善謀第九宮之奇諫めて曰く、晉の使者、其の幣重く、其の辭卑し。必ず虞に便ならず。語に曰く、脣亡ぶれば則ち齒寒し、と。故に虞・虢の相い救うは、相い賜を爲すに非ざるなり。今日虢を亡ぼさば、明日虞を亡ぼさん、と。公聽かず、遂に其の幣を受けて之に道を借す。旋りて歸る。四年、反りて虞を取る。荀息馬を牽き璧を抱きて前みて曰く、臣の謀如何、と。獻公曰く、璧は則ち猶お是のごとし。而れども吾が馬の齒は加ミ長ぜり、と。晉の獻公荀息の謀を用いて虞を禽らう。虞は宮之奇の謀を用いずして亡ぶ。故に荀息は覇王の佐に非ず、戰國并兼の臣なり。宮之奇の若きは則ち忠臣の謀と謂う可きなり。
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呂氏春秋・權勳③昔者、晉の獻公、荀息をして道を虞に假らしめ、以て虢を伐たんとす。荀息曰く、「請う、垂棘の璧と屈産の乘とを以て、以て虞公に賂い、而して道を假ることを求めん。必ず得可からん。」獻公曰く、「夫れ垂棘の璧は、吾先君の寶なり。屈産の乘は、寡人の駿なり。若し吾が幣を受けて吾に道を假さずんば、將に奈何せんとする。」荀息曰く、「然らず。彼若し吾に道を假さずんば、必ず吾に受けざらん。若し我に受けて我に道を假さば、是れ猶ほ之を內府に取りて之を外府に藏むるがごとく、猶ほ之を內皁に取りて之を外皁に著ぐがごときなり。君奚ぞ患えん。」獻公、之を許す。乃ち荀息をして屈産の乘を以て庭實と為し、而も加うるに垂棘の璧を以てし、以て道を虞に假りて虢を伐たしめんとす。虞公、寶と馬とを濫りて之を許さんと欲す。宮之奇諫めて曰く、「許す可からざるなり。虞と虢とは、車の輔有るが若きなり。車は輔に依り、輔も亦た車に依る。虞と虢の勢は是れなり。先人に言える有り、曰く、『脣竭くれば齒寒し。』夫れ虢の亡びざるは、虞を恃めばなり、虞の亡びざるも、亦た虢を恃めばなり。若し之に道を假さば、則ち虢朝に亡びて虞夕べに之に從わん。奈何ぞ其れ之に道を假さんや。」虞公、聽かずして、之に道を假す。荀息、虢を伐ち、之に克つ。還反りて虞を伐ち、又之に克つ。荀息、璧を操り馬を牽きて報ず。獻公喜びて曰く、「璧は則ち猶ほ是れなり、馬の齒も亦た薄長じたり。」故に曰く、小利は、大利の殘なり、と。
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史記 晋世家小子の元年、曲沃の武公韓万をして虜とする所の晋の哀侯を殺さしむ。曲沃益々彊く、晋之を如何ともする無し。晋の小子の四年、曲沃の武公晋の小子を誘ひ召して之を殺す。周の桓王虢仲をして曲沃の武公を伐たしむ。武公曲沃に入る。乃ち晋の哀侯の弟緡を立てて晋侯と為す。晋侯緡の四年、宋鄭の祭仲を執へて突を立てて鄭君と為す。晋侯の十九年、斉人管至父其の君襄公を弑す。晋侯の二十八年、斉の桓公始めて覇たり。曲沃の武公晋侯緡を伐ち、之を滅ぼし、尽く其の宝器を以て周の釐王に賂献す。釐王曲沃の武公に命じて晋君と為し、列して諸侯と為す。是に於て尽く晋の地を併せて之を有つ。曲沃の武公已に即位して三十七年なり。更に号して晋の武公と曰ふ。晋の武公始めて晋国に都す。前に曲沃に即位し、年を通じて三十八年なり。武公称は、先の晋の穆侯の曾孫なり、曲沃の桓叔の孫なり。桓叔は、始めて曲沃に封ぜらる。武公は、荘伯の子なり。桓叔の初めて曲沃に封ぜられしより以て武公の晋を滅ぼすに至るまで、凡そ六十七歳にして、卒に晋に代はりて諸侯と為る。武公晋に代はりて二歳にして卒す。曲沃と年を通じて、即位して凡そ三十九年にして卒す。子の献公詭諸立つ。献公の元年、周の恵王の弟穨恵王を攻め、恵王出奔し、鄭の櫟邑に居る。五年、驪戎を伐ち、驪姫・驪姫の弟を得て、倶に之を愛幸す。八年、士蒍公に説きて曰く、「故の晋の群公子多し。誅せずんば、乱且に起こらんとす」と。乃ち尽く諸公子を殺さしめ、而して聚に城きて之に都し、命じて絳と曰ひ、始めて絳に都す。九年、晋の群公子既に亡げて虢に奔る。虢其の故を以て再び晋を伐つも、克たず。十年、晋虢を伐たんと欲す。士蒍曰く、「且く其の乱るるを待て」と。十二年、驪姫奚斉を生む。
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史記 晋世家病甚だしく、乃ち荀息に謂ひて曰く、「吾奚斉を以て後と為す。年少くして、諸大臣服せず、乱の起こらんことを恐る。子能く之を立てんか」と。荀息曰く、「能くせん」と。献公曰く、「何を以て験と為す」と。対へて曰く、「死者をして復た生かしめ、生者慚ぢざる、之が験と為さん」と。是に於て遂に奚斉を荀息に属す。荀息相と為り、国政を主る。秋九月、献公卒す。里克・邳鄭重耳を内れんと欲し、三公子の徒を以て乱を作さんとし、荀息に謂ひて曰く、「三怨将に起こらんとし、秦・晋之を輔く。子将に何如せんとす」と。荀息曰く、「吾先君の言に負くべからず」と。十月、里克奚斉を喪次に殺す。献公未だ葬られざるなり。荀息将に之に死せんとす。或ひと曰く、奚斉の弟悼子を立てて之に傅たるに如かずと。荀息悼子を立てて献公を葬る。十一月、里克悼子を朝に弑す。荀息之に死す。君子曰く、「詩に所謂『白珪の玷(か)けたるは、猶ほ磨くべし。斯の言の玷けたるは、為(をさ)むべからず』とは、其れ荀息の謂ひか。其の言に負かず」と。初め、献公将に驪戎を伐たんとす。卜して曰く「歯牙禍を為す」と。驪戎を破り、驪姫を獲るに及び、之を愛し、竟に以て晋を乱す。里克等已に奚斉・悼子を殺し、人をして公子重耳を翟に迎へしめ、之を立てんと欲す。重耳謝して曰く、「父の命に負きて出奔し、父死して人子の礼を修めて喪に侍するを得ず。重耳何ぞ敢て入らん。大夫其れ更に他子を立てよ」と。還りて里克に報ず。里克をして夷吾を梁に迎へしむ。夷吾往かんと欲す。呂省・郤芮曰く、「内に猶ほ公子の立つべき者有りて外に求むるは、信じ難し。計るに秦に之き、彊国の威を輔として以て入るに非ずんば、恐らくは危ふからん」と。乃ち郤芮をして厚く秦に賂はしめ、約して曰く、「即し入るを得ば、請ふ晋の河西の地を以て秦に与へん」と。及び里克に書を遺りて曰く、「誠に立つを得ば、請ふ遂に子を汾陽の邑に封ぜん」と。秦の繆公乃ち兵を発して夷吾を晋に送る。斉の桓公晋の内乱を聞き、亦た諸侯を率ゐて晋に如く。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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