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史記 / 宋微子世家

景公殺昭公父糾,故昭公怨殺太子而自立。昭公四十七年卒,子悼公購由立。悼公八年卒,子休公田立。休公田二十三年卒,子辟公辟兵立。辟公三年卒,子剔成立。剔成四十一年,剔成弟偃攻襲剔成,剔成敗奔齊,偃自立爲宋君。君偃十一年,自立爲王。東敗齊,取五城;南敗楚,取地三百里;西敗魏軍,乃與齊、魏爲敵國。盛血以韋囊,縣而射之,命曰「射天」。淫於酒婦人。羣臣諫者輒射之。於是諸矦皆曰「桀宋」。「宋其復爲紂所爲,不可不誅」。告齊伐宋。王偃立四十七年,齊湣王與魏、楚伐宋,殺王偃,遂滅宋而三分其地。太史公曰:孔子稱「微子去之,箕子爲之奴,比干諫而死,殷有三仁焉」。春秋譏宋之亂自宣公廢太子而立弟,國以不寧者十世。襄公之時,修行仁義,欲爲盟主。其大夫正考父美之,故追道契、湯、髙宗,殷所以興,作商頌。襄公既敗於泓,而君子或以爲多,傷中國闕禮義,褒之也,宋襄之有禮讓也。

新字:景公殺昭公父糾,故昭公怨殺太子而自立。昭公四十七年卒,子悼公購由立。悼公八年卒,子休公田立。休公田二十三年卒,子辟公辟兵立。辟公三年卒,子剔成立。剔成四十一年,剔成弟偃攻襲剔成,剔成敗奔斉,偃自立為宋君。君偃十一年,自立為王。東敗斉,取五城;南敗楚,取地三百里;西敗魏軍,乃与斉、魏為敵国。盛血以韋嚢,県而射之,命曰「射天」。淫於酒婦人。羣臣諫者輒射之。於是諸矦皆曰「桀宋」。「宋其復為紂所為,不可不誅」。告斉伐宋。王偃立四十七年,斉湣王与魏、楚伐宋,殺王偃,遂滅宋而三分其地。太史公曰:孔子称「微子去之,箕子為之奴,比干諫而死,殷有三仁焉」。春秋譏宋之乱自宣公廃太子而立弟,国以不寧者十世。襄公之時,修行仁義,欲為盟主。其大夫正考父美之,故追道契、湯、高宗,殷所以興,作商頌。襄公既敗於泓,而君子或以為多,傷中国闕礼義,褒之也,宋襄之有礼譲也。

書き下し

景公昭公の父糾を殺す。故に昭公怨みて太子を殺して自立す。昭公四十七年にして卒し、子の悼公購由立つ。悼公八年にして卒し、子の休公田立つ。休公田二十三年にして卒し、子の辟公辟兵立つ。辟公三年にして卒し、子の剔成立つ。剔成の四十一年、剔成の弟偃剔成を攻襲す。剔成敗れて斉に奔る。偃自立して宋君と為る。君偃の十一年、自立して王と為る。東のかた斉を敗り、五城を取る。南のかた楚を敗り、地三百里を取る。西のかた魏の軍を敗り、乃ち斉・魏と敵国と為る。血を盛るに韋嚢を以てし、県けて之を射、命じて「射天」と曰ふ。酒と婦人とに淫す。群臣の諫むる者は輒ち之を射る。是に於て諸侯皆「桀宋」と曰ふ。「宋其れ復た紂の為す所を為す。誅せざるべからず」と。斉に告げて宋を伐たしむ。王偃立ちて四十七年、斉の湣王魏・楚と宋を伐ち、王偃を殺し、遂に宋を滅ぼして其の地を三分す。太史公曰く、孔子称す、「微子之を去り、箕子之が奴と為り、比干諫めて死す。殷に三仁有り」と。春秋、宋の乱の宣公の太子を廃して弟を立てしより、国以て寧からざる者十世なるを譏る。襄公の時、仁義を修行し、盟主と為らんと欲す。其の大夫正考父之を美とす。故に契・湯・高宗の殷の興る所以を追道し、商頌を作る。襄公既に泓に敗る。而して君子或いは以て多と為す。中国の礼義を闕くを傷み、之を褒むるなり。宋襄の礼譲有るなり。

現代語訳

景公は昭公の父の糾を殺していた。そのため昭公は恨んで、太子を殺して自ら立ったのである。昭公は在位四十七年で亡くなり、子の悼公購由が立った。悼公は在位八年で亡くなり、子の休公田が立った。休公田は在位二十三年で亡くなり、子の辟公辟兵が立った。辟公は在位三年で亡くなり、子の剔成が立った。剔成の四十一年、剔成の弟の偃が剔成を襲った。剔成は敗れて斉に逃れ、偃が自ら立って宋君となった。君偃の十一年、偃は自ら王を名乗った。東では斉を破って五つの城を取り、南では楚を破って三百里の地を取り、西では魏の軍を破り、こうして斉・魏と敵対する国となった。偃は血を皮袋に入れて吊るし、それを矢で射て「天を射る」と称した。酒と女におぼれ、諫める群臣はすぐに射殺した。そこで諸侯はみな宋を「桀宋(夏の暴君桀のような宋)」と呼び、「宋はまた紂王と同じことをしている。討たないわけにはいかない」と言い合い、斉に宋を討つよう求めた。王偃が即位して四十七年、斉の湣王は魏・楚とともに宋を攻め、王偃を殺し、ついに宋を滅ぼしてその領土を三つに分けた。太史公(司馬遷)は言う。孔子は「微子は殷を去り、箕子は奴隷となり、比干は諫めて死んだ。殷には三人の仁者がいた」と称えた。『春秋』は、宋の乱れが宣公が太子を廃して弟を立てたことに始まり、そのため十代にわたって国が安定しなかったことを批判している。襄公の時代には仁義を修め行い、盟主になろうとした。その大夫の正考父はこれを称え、殷の始祖の契、湯王、高宗(武丁)が殷を興した理由をさかのぼって述べ、「商頌」を作った。襄公は泓水で敗れたが、君子の中にはこれを高く評価する者もいた。中原の国々が礼義を欠いていることを嘆き、それゆえに襄公を褒めたのである。宋の襄公には礼と譲りの心があったのだ。

解説

宋の滅亡と、宋微子世家の太史公曰を含む最終段です。戦国時代の宋では、剔成の弟の偃が兄を追って即位し、王を名乗って周囲の大国と戦い、一時は勢いを示しました。しかし血を入れた皮袋を射て「天を射る」と称し、諫める臣下を射殺するなど暴虐を極め、諸侯から「桀宋」と呼ばれて、斉・魏・楚に滅ぼされます。殷の子孫の国が、殷の紂王と同じ道をたどって終わったことに、歴史の皮肉が込められています。続く太史公曰で、司馬遷は孔子の「殷に三仁あり」を引き、『春秋』が宣公の弟への譲位を十代の乱れの始まりとしたことを紹介します。一方で、泓水の戦いで敗れた襄公についても、礼義が失われた時代に礼譲を守ったことを評価する声があったと記しています。愚かさとも気高さとも読める襄公に、司馬遷は一方的な評価を下していません。一つの行動を複数の視点から評価する姿勢は、人を見るうえで今も大切なことです。

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