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史記 / 宋微子世家

司馬唐山攻殺太子肥,欲殺華元,華元犇晉,魚石止之,至河乃還,誅唐山。乃立共公少子戌,是爲平公。平公三年,楚共王拔宋之彭城,以封宋左師魚石。四年,諸矦共誅魚石,而歸彭城於宋。三十五年,楚公子圍弒其君自立,爲靈王。四十四年,平公卒,子元公佐立。元公三年,楚公子棄疾弒靈王,自立爲平王。八年,宋火。十年,元公毋信,詐殺諸公子,大夫華、向氏作亂。楚平王太子建來奔,見諸華氏相攻亂,建去如鄭。十五年,元公爲魯昭公避季氏居外,爲之求入魯,行道卒,子景公頭曼立。景公十六年,魯陽虎來奔,已復去。二十五年,孔子過宋,宋司馬桓魋惡之,欲殺孔子,孔子微服去。三十年,曹倍宋,又倍晉,宋伐曹,晉不救,遂滅曹有之。三十六年,齊田常弒簡公。三十七年,楚惠王滅陳。熒惑守心。心,宋之分野也。景公憂之。司星子韋曰:「可移於相。」景公曰:「相,吾之股肱。」曰:「可移於民。」景公曰:「君者待民。」曰:「可移於歲。」景公曰:「歲饑民困,吾誰爲君!」子韋曰:「天髙聽卑。君有君人之言三,熒惑宜有動。」於是候之,果徙三度。六十四年,景公卒。宋公子特攻殺太子而自立,是爲昭公。昭公者,元公之曾庶孫也。昭公父公孫糾,糾父公子褍秦,褍秦即元公少子也。

新字:司馬唐山攻殺太子肥,欲殺華元,華元犇晋,魚石止之,至河乃還,誅唐山。乃立共公少子戌,是為平公。平公三年,楚共王抜宋之彭城,以封宋左師魚石。四年,諸矦共誅魚石,而帰彭城於宋。三十五年,楚公子囲弒其君自立,為霊王。四十四年,平公卒,子元公佐立。元公三年,楚公子棄疾弒霊王,自立為平王。八年,宋火。十年,元公毋信,詐殺諸公子,大夫華、向氏作乱。楚平王太子建来奔,見諸華氏相攻乱,建去如鄭。十五年,元公為魯昭公避季氏居外,為之求入魯,行道卒,子景公頭曼立。景公十六年,魯陽虎来奔,已復去。二十五年,孔子過宋,宋司馬桓魋悪之,欲殺孔子,孔子微服去。三十年,曹倍宋,又倍晋,宋伐曹,晋不救,遂滅曹有之。三十六年,斉田常弒簡公。三十七年,楚恵王滅陳。熒惑守心。心,宋之分野也。景公憂之。司星子韋曰:「可移於相。」景公曰:「相,吾之股肱。」曰:「可移於民。」景公曰:「君者待民。」曰:「可移於歳。」景公曰:「歳饑民困,吾誰為君!」子韋曰:「天高聴卑。君有君人之言三,熒惑宜有動。」於是候之,果徙三度。六十四年,景公卒。宋公子特攻殺太子而自立,是為昭公。昭公者,元公之曽庶孫也。昭公父公孫糾,糾父公子褍秦,褍秦即元公少子也。

書き下し

司馬唐山太子肥を攻め殺し、華元を殺さんと欲す。華元晋に犇(はし)らんとす。魚石之を止め、河に至りて乃ち還り、唐山を誅す。乃ち共公の少子戌を立つ。是を平公と為す。平公の三年、楚の共王宋の彭城を抜き、以て宋の左師魚石を封ず。四年、諸侯共に魚石を誅し、而して彭城を宋に帰す。三十五年、楚の公子囲其の君を弑して自立し、霊王と為る。四十四年、平公卒し、子の元公佐立つ。元公の三年、楚の公子棄疾霊王を弑し、自立して平王と為る。八年、宋に火あり。十年、元公信毋く、詐りて諸公子を殺す。大夫華・向氏乱を作す。楚の平王の太子建来奔す。諸華氏の相攻めて乱るるを見て、建去りて鄭に如く。十五年、元公魯の昭公の季氏を避けて外に居るが為に、之が為に魯に入らんことを求め、道を行きて卒し、子の景公頭曼立つ。景公の十六年、魯の陽虎来奔し、已にして復た去る。二十五年、孔子宋を過ぐ。宋の司馬桓魋之を悪み、孔子を殺さんと欲す。孔子微服して去る。三十年、曹宋に倍き、又晋に倍く。宋曹を伐つ。晋救はず。遂に曹を滅ぼして之を有つ。三十六年、斉の田常簡公を弑す。三十七年、楚の恵王陳を滅ぼす。熒惑心を守る。心は宋の分野なり。景公之を憂ふ。司星子韋曰く、「相に移すべし」と。景公曰く、「相は吾の股肱なり」と。曰く、「民に移すべし」と。景公曰く、「君は民を待つ」と。曰く、「歳に移すべし」と。景公曰く、「歳饑うれば民困しむ。吾誰の為にか君たらん」と。子韋曰く、「天は高きも卑きに聴く。君に君人の言三つ有り。熒惑宜しく動くこと有るべし」と。是に於て之を候ふに、果たして徙ること三度。六十四年、景公卒す。宋の公子特太子を攻め殺して自立す。是を昭公と為す。昭公は、元公の曾庶孫なり。昭公の父は公孫糾、糾の父は公子褍秦、褍秦は即ち元公の少子なり。

現代語訳

司馬の唐山が太子の肥を攻め殺し、さらに華元を殺そうとした。華元は晋へ逃げようとしたが、魚石が引き止めたので、黄河まで行って引き返し、唐山を誅殺した。そして共公の末子の戌を立てた。これが平公である。平公の三年、楚の共王が宋の彭城を奪い、宋の左師の魚石をそこに封じた。四年、諸侯が共に魚石を誅殺し、彭城を宋に返した。三十五年、楚の公子囲がその君を殺して自ら立ち、霊王となった。四十四年、平公が亡くなり、子の元公佐が立った。元公の三年、楚の公子棄疾が霊王を殺し、自ら立って平王となった。八年、宋で火災があった。十年、元公は信義がなく、公子たちをだまして殺した。大夫の華氏と向氏が乱を起こした。楚の平王の太子の建が宋に亡命してきたが、華氏たちが互いに攻め合って乱れているのを見て、宋を去って鄭に行った。十五年、元公は、魯の昭公が季氏を避けて国外にいたので、昭公のために魯へ帰国させてやろうと働きかけたが、その道中で亡くなった。子の景公頭曼が立った。景公の十六年、魯の陽虎が亡命してきたが、やがてまた去った。二十五年、孔子が宋を通りかかった。宋の司馬の桓魋は孔子を憎み、殺そうとした。孔子は身なりを変えて立ち去った。三十年、曹が宋に背き、さらに晋にも背いた。宋が曹を攻めたが、晋は救わなかったので、宋はついに曹を滅ぼして領土とした。三十六年、斉の田常が簡公を殺した。三十七年、楚の恵王が陳を滅ぼした。熒惑(火星)が心宿(さそり座のあたりの星宿)にとどまった。心宿は宋に対応する天の区域である。景公はこれを憂えた。天文を司る子韋は言った。「災いを宰相に移すことができる」。景公は言った。「宰相は私の手足となる重臣だ」。子韋は言った。「民に移すことができる」。景公は言った。「君主は民に支えられている」。子韋は言った。「その年の作柄に移すことができる」。景公は言った。「凶作になれば民が苦しむ。私は誰のために君主でいるのか」。子韋は言った。「天は高いところにあっても、低いところの言葉をよく聞いている。君は君主にふさわしい言葉を三つも口にされた。熒惑はきっと動くはずだ」。そこで観測すると、はたして火星は三度(天の度数で三度)移動した。六十四年、景公が亡くなった。宋の公子特が太子を攻め殺して自ら立った。これが昭公である。昭公は元公の曾孫で庶流の出である。昭公の父は公孫糾、糾の父は公子褍秦で、褍秦は元公の末子である。

解説

春秋後期の宋の歩みを描く段で、景公と火星の逸話がよく知られています。前半は、平公・元公の時代の内紛や、華氏・向氏の乱、元公が信義なく公子たちをだまし討ちにしたことなどが続きます。孔子が宋で司馬桓魋に命を狙われ、身なりを変えて逃れたのもこの時代です。後半の景公は、宋に対応する星域に火星がとどまるという凶兆に直面します。天文官の子韋は、災いを宰相に、民に、作柄に移せると提案しますが、景公はいずれも断ります。「宰相は私の手足だ」「君主は民に支えられている」「凶作になれば誰のために君主でいるのか」という三つの答えに天が感じて、火星が動いたと伝えられています。この話は『呂氏春秋』などにも見え、君主の徳が天を動かす例として語り継がれました。自分の責任を部下や顧客に転嫁しない姿勢は、リーダーの信頼を支える最も基本的な条件だと言えるでしょう。

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