史記 / 宋微子世家
宋人共殺君御而立成公少子杵臼,是爲昭公。昭公四年,宋敗長翟緣斯於長丘。七年,楚莊王即位。九年,昭公无道,國人不附。昭公弟鮑革賢而下士。先,襄公夫人欲通於公子鮑,不可,乃助之施於國,因大夫華元爲右師。昭公出獵,夫人王姬使衛伯攻殺昭公杵臼。弟鮑革立,是爲文公。文公元年,晉率諸矦伐宋,責以弒君。聞文公定立,乃去。二年,昭公子因文公母弟須與武、繆、戴、莊、桓之族爲亂,文公盡誅之,出武、繆之族。四年春,楚命鄭伐宋。宋使華元將,鄭敗宋,囚華元。華元之將戰,殺羊以食士,其御羊羹不及,故怨,馳入鄭軍,故宋師敗,得囚華元。宋以兵車百乘文馬四百匹贖華元。未盡入,華元亡歸宋。十四年,楚莊王圍鄭。鄭伯降楚,楚復釋之。十六年,楚使過宋,宋有歬仇,執楚使。九月,楚莊王圍宋。十七年,楚以圍宋五月不解,宋城中急,无食,華元乃夜私見楚將子反。子反告莊王。王問:「城中何如?」曰:「析骨而炊,易子而食。」莊王曰:「誠哉言!我軍亦有二日糧。」以信故,遂罷兵去。二十二年,文公卒,子共公瑕立。始厚葬。君子譏華元不臣矣。共公十年,華元善楚將子重,又善晉將欒書,兩盟晉楚。十三年,共公卒。華元爲右師,魚石爲左師。
新字:宋人共殺君御而立成公少子杵臼,是為昭公。昭公四年,宋敗長翟縁斯於長丘。七年,楚荘王即位。九年,昭公无道,国人不附。昭公弟鮑革賢而下士。先,襄公夫人欲通於公子鮑,不可,乃助之施於国,因大夫華元為右師。昭公出猟,夫人王姫使衛伯攻殺昭公杵臼。弟鮑革立,是為文公。文公元年,晋率諸矦伐宋,責以弒君。聞文公定立,乃去。二年,昭公子因文公母弟須与武、繆、戴、荘、桓之族為乱,文公尽誅之,出武、繆之族。四年春,楚命鄭伐宋。宋使華元将,鄭敗宋,囚華元。華元之将戦,殺羊以食士,其御羊羹不及,故怨,馳入鄭軍,故宋師敗,得囚華元。宋以兵車百乗文馬四百匹贖華元。未尽入,華元亡帰宋。十四年,楚荘王囲鄭。鄭伯降楚,楚復釈之。十六年,楚使過宋,宋有歬仇,執楚使。九月,楚荘王囲宋。十七年,楚以囲宋五月不解,宋城中急,无食,華元乃夜私見楚将子反。子反告荘王。王問:「城中何如?」曰:「析骨而炊,易子而食。」荘王曰:「誠哉言!我軍亦有二日糧。」以信故,遂罷兵去。二十二年,文公卒,子共公瑕立。始厚葬。君子譏華元不臣矣。共公十年,華元善楚将子重,又善晋将欒書,両盟晋楚。十三年,共公卒。華元為右師,魚石為左師。
書き下し
宋人共に君御を殺して成公の少子杵臼を立つ。是を昭公と為す。昭公の四年、宋長翟の縁斯を長丘に敗る。七年、楚の荘王即位す。九年、昭公無道にして、国人附かず。昭公の弟鮑革賢にして士に下る。先に、襄公の夫人公子鮑に通ぜんと欲するも、可かず。乃ち之を助けて国に施さしめ、大夫華元に因りて右師と為す。昭公出でて猟す。夫人王姫衛伯をして昭公杵臼を攻め殺さしむ。弟の鮑革立つ。是を文公と為す。文公の元年、晋諸侯を率ゐて宋を伐ち、責むるに君を弑するを以てす。文公の定まりて立つを聞き、乃ち去る。二年、昭公の子文公の母弟須と武・繆・戴・荘・桓の族とに因りて乱を為す。文公尽く之を誅し、武・繆の族を出す。四年春、楚鄭に命じて宋を伐たしむ。宋華元をして将たらしむ。鄭宋を敗り、華元を囚ふ。華元の将に戦はんとするや、羊を殺して以て士に食はしむ。其の御に羊羹及ばず。故に怨み、馳せて鄭の軍に入る。故に宋の師敗れ、華元を囚ふるを得たり。宋兵車百乗・文馬四百匹を以て華元を贖ふ。未だ尽くは入らざるに、華元亡げて宋に帰る。十四年、楚の荘王鄭を囲む。鄭伯楚に降る。楚復た之を釈す。十六年、楚の使ひ宋を過ぐ。宋前の仇有り、楚の使ひを執ふ。九月、楚の荘王宋を囲む。十七年、楚宋を囲むこと五月なるを以て解けず。宋の城中急にして、食無し。華元乃ち夜私かに楚の将子反に見ゆ。子反荘王に告ぐ。王問ふ、「城中何如」と。曰く、「骨を析きて炊ぎ、子を易へて食らふ」と。荘王曰く、「誠なるかな言。我が軍も亦た二日の糧有るのみ」と。信を以ての故に、遂に兵を罷めて去る。二十二年、文公卒し、子の共公瑕立つ。始めて厚葬す。君子華元の臣ならざるを譏る。共公の十年、華元楚の将子重に善く、又晋の将欒書に善く、両つながら晋・楚に盟ふ。十三年、共公卒す。華元右師と為り、魚石左師と為る。
現代語訳
宋の人々は共に君主の御を殺し、成公の末子の杵臼を立てた。これが昭公である。昭公の四年、宋は長翟(北方の異民族)の縁斯を長丘で破った。七年、楚の荘王が即位した。九年、昭公は道にはずれた振る舞いが多く、国の人々は従わなかった。昭公の弟の鮑革は賢く、へりくだって士を大切にした。これより前、襄公の夫人(昭公の祖母)が公子鮑と通じようとしたが、鮑は応じなかった。そこで夫人は鮑を助けて国中に施しをさせ、大夫の華元を通じて右師(執政の官)にさせた。昭公が狩りに出かけたとき、夫人の王姫は衛伯に命じて昭公杵臼を攻め殺させた。弟の鮑革が立った。これが文公である。文公の元年、晋は諸侯を率いて宋を攻め、君主殺しの罪を責めたが、文公が安定して位についていると聞いて引き揚げた。二年、昭公の子が、文公の同母弟の須や、武公・繆公・戴公・荘公・桓公の一族を頼って乱を起こした。文公はことごとくこれを誅殺し、武公・繆公の一族を国外に追放した。四年の春、楚は鄭に命じて宋を攻めさせた。宋は華元を将軍としたが、鄭は宋を破り、華元を捕らえた。華元は戦いの前に羊を殺して兵士にふるまったが、自分の車の御者には羊の吸い物が回らなかった。そのため御者は恨んで、華元を乗せたまま車を走らせて鄭の軍中に入ってしまった。それで宋軍は敗れ、華元は捕らえられたのである。宋は兵車百乗と飾り馬四百頭で華元の身代金を払おうとしたが、まだ全部を払い終えないうちに、華元は逃げて宋に帰った。十四年、楚の荘王が鄭を包囲した。鄭伯は楚に降伏し、楚はまた鄭を許した。十六年、楚の使者が宋を通過した。宋は以前からの恨みがあったので、楚の使者を捕らえた。九月、楚の荘王は宋を包囲した。十七年、楚は宋を五か月包囲しても落とせなかった。宋の城内は危急に陥り、食糧も尽きた。華元は夜ひそかに楚の将軍の子反に会いに行った。子反はこれを荘王に報告した。荘王は問うた。「城内はどうなのか」。華元は答えた。「骨を割って薪にして炊ぎ、子を取り替えて食べている」。荘王は言った。「正直な言葉だ。わが軍もあと二日分の兵糧しかない」。互いに誠実に打ち明けたので、荘王は兵を引いて去った。二十二年、文公が亡くなり、子の共公瑕が立った。このとき初めて手厚い葬儀を行った。君子は、華元が臣下としての道にはずれたと非難した。共公の十年、華元は楚の将軍の子重と親しく、また晋の将軍の欒書とも親しかったので、晋と楚の両方と盟約を結ばせた。十三年、共公が亡くなった。華元は右師に、魚石は左師になった。
解説
関連する章句
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史記 宋微子世家十九年、宣公病み、其の弟和に譲りて曰く、「父死して子継ぎ、兄死して弟及ぶは、天下の通義なり。我其れ和を立てん」と。和も亦た三たび譲りて之を受く。宣公卒し、弟の和立つ。是を穆公と為す。穆公の九年、病み、大司馬孔父を召して謂ひて曰く、「先君宣公太子与夷を捨てて我を立つ。我敢て忘れず。我死せば、必ず与夷を立てよ」と。孔父曰く、「群臣皆公子馮を立てんことを願ふ」と。穆公曰く、「馮を立つること毋かれ。吾以て宣公に負くべからず」と。是に於て穆公馮をして出でて鄭に居らしむ。八月庚辰、穆公卒し、兄宣公の子与夷立つ。是を殤公と為す。君子之を聞きて曰く、「宋の宣公は人を知ると謂ふべし。其の弟を立てて以て義を成し、然も卒に其の子復た之を享く。殤公の元年、衛の公子州吁其の君完を弑して自立し、諸侯を得んと欲し、宋に告げしめて曰く、「馮鄭に在り、必ず乱を為さん。我と与に之を伐つべし」と。宋之を許し、与に鄭を伐ち、東門に至りて還る。二年、鄭宋を伐ち、以て東門の役に報ゆ。其の後諸侯数々来たりて侵伐す。九年、大司馬孔父嘉の妻好し。出でて、道に太宰華督に遇ふ。督説び、目して之を観る。督孔父の妻を利とし、乃ち人をして国中に宣言せしめて曰く、「殤公即位して十年のみにして、十一たび戦ふ。民苦しみて堪へず。皆孔父之を為す。我且に孔父を殺して以て民を寧んぜんとす」と。是の歳、魯其の君隠公を弑す。十年、華督孔父を攻め殺し、其の妻を取る。殤公怒る。遂に殤公を弑して、穆公の子馮を鄭に迎へて之を立つ。是を荘公と為す。荘公の元年、華督相と為る。九年、鄭の祭仲を執へ、要して突を立てて鄭君と為さしむ。祭仲許し、竟に突を立つ。十九年、荘公卒し、子の湣公捷立つ。湣公の七年、斉の桓公即位す。九年、宋に水あり。魯臧文仲をして往きて水を弔はしむ。
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史記 宋微子世家公子目夷諫めて曰く、「小国盟を争ふは、禍なり」と。聴かず。秋、諸侯宋公に会して盂に盟ふ。目夷曰く、「禍其れ此に在らんか。君の欲已に甚だし。何を以て之に堪へん」と。是に於て楚宋の襄公を執へて以て宋を伐つ。冬、亳に会し、以て宋公を釈す。子魚曰く、「禍猶ほ未だし」と。十三年夏、宋鄭を伐つ。子魚曰く、「禍此に在り」と。秋、楚宋を伐ちて以て鄭を救ふ。襄公将に戦はんとす。子魚諫めて曰く、「天の商を棄つること久し。不可なり」と。冬十一月、襄公楚の成王と泓に戦ふ。楚人未だ済らず。目夷曰く、「彼は衆く我は寡し。其の未だ済らざるに及びて之を撃たん」と。公聴かず。已に済りて未だ陳せず。又曰く、「撃つべし」と。公曰く、「其の已に陳するを待て」と。陳成りて、宋人之を撃つ。宋の師大いに敗れ、襄公股を傷つく。国人皆公を怨む。公曰く、「君子は人を阸(やく)に困しめず、列を成さざるに鼓せず」と。子魚曰く、「兵は勝つを以て功と為す。何ぞ常言あらんや。必ず公の言の如くならば、即ち之に奴事せんのみ。又何ぞ戦ふことを為さん」と。楚の成王已に鄭を救ふ。鄭之を享す。去りて鄭の二姫を取りて以て帰る。叔瞻曰く、「成王礼無し。其れ没せざらんか。礼を為して卒に別無し。以て其の覇を遂げざるを知る有り」と。是の年、晋の公子重耳宋を過ぐ。襄公楚に傷つけらるるを以て、晋の援けを得んと欲し、厚く重耳に礼するに馬二十乗を以てす。十四年夏、襄公泓に傷つけられしを病みて竟に卒し、子の成公王臣立つ。成公の元年、晋の文公即位す。三年、楚の盟に倍きて晋に親しむ。文公に徳有るを以てなり。四年、楚の成王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。五年、晋の文公宋を救ひ、楚の兵去る。九年、晋の文公卒す。十一年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。十六年、秦の穆公卒す。十七年、成公卒す。成公の弟御、太子及び大司馬公孫固を殺して自立して君と為る。
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