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史記 / 宋微子世家

公子目夷諫曰:「小國爭盟,禍也。」不聽。秋,諸矦會宋公盟于盂。目夷曰:「禍其在此乎?君欲已甚,何以堪之!」於是楚執宋襄公以伐宋。冬,會于亳,以釋宋公。子魚曰:「禍猶未也。」十三年夏,宋伐鄭。子魚曰:「禍在此矣。」秋,楚伐宋以救鄭。襄公將戰,子魚諫曰:「天之棄商久矣,不可。」冬,十一月,襄公與楚成王戰于泓。楚人未濟,目夷曰:「彼眾我寡,及其未濟擊之。」公不聽。已濟未陳,又曰:「可擊。」公曰:「待其已陳。」陳成,宋人擊之。宋師大敗,襄公傷股。國人皆怨公。公曰:「君子不困人於阸,不鼓不成列。」子魚曰:「兵以勝爲功,何常言與!必如公言,即奴事之耳,又何戰爲?」楚成王已救鄭,鄭享之;去而取鄭二姬以歸。叔瞻曰:「成王无禮,其不沒乎?爲禮卒於无別,有以知其不遂霸也。」是年,晉公子重耳過宋,襄公以傷於楚,欲得晉援,厚禮重耳以馬二十乘。十四年夏,襄公病傷於泓而竟卒,子成公王臣立。成公元年,晉文公即位。三年,倍楚盟親晉,以有德於文公也。四年,楚成王伐宋,宋告急於晉。五年,晉文公救宋,楚兵去。九年,晉文公卒。十一年,楚太子商臣弒其父成王代立。十六年,秦穆公卒。十七年,成公卒。成公弟御殺太子及大司馬公孫固而自立爲君。

新字:公子目夷諫曰:「小国争盟,禍也。」不聴。秋,諸矦会宋公盟于盂。目夷曰:「禍其在此乎?君欲已甚,何以堪之!」於是楚執宋襄公以伐宋。冬,会于亳,以釈宋公。子魚曰:「禍猶未也。」十三年夏,宋伐鄭。子魚曰:「禍在此矣。」秋,楚伐宋以救鄭。襄公将戦,子魚諫曰:「天之棄商久矣,不可。」冬,十一月,襄公与楚成王戦于泓。楚人未済,目夷曰:「彼衆我寡,及其未済撃之。」公不聴。已済未陳,又曰:「可撃。」公曰:「待其已陳。」陳成,宋人撃之。宋師大敗,襄公傷股。国人皆怨公。公曰:「君子不困人於阸,不鼓不成列。」子魚曰:「兵以勝為功,何常言与!必如公言,即奴事之耳,又何戦為?」楚成王已救鄭,鄭享之;去而取鄭二姫以帰。叔瞻曰:「成王无礼,其不没乎?為礼卒於无別,有以知其不遂覇也。」是年,晋公子重耳過宋,襄公以傷於楚,欲得晋援,厚礼重耳以馬二十乗。十四年夏,襄公病傷於泓而竟卒,子成公王臣立。成公元年,晋文公即位。三年,倍楚盟親晋,以有徳於文公也。四年,楚成王伐宋,宋告急於晋。五年,晋文公救宋,楚兵去。九年,晋文公卒。十一年,楚太子商臣弒其父成王代立。十六年,秦穆公卒。十七年,成公卒。成公弟御殺太子及大司馬公孫固而自立為君。

書き下し

公子目夷諫めて曰く、「小国盟を争ふは、禍なり」と。聴かず。秋、諸侯宋公に会して盂に盟ふ。目夷曰く、「禍其れ此に在らんか。君の欲已に甚だし。何を以て之に堪へん」と。是に於て楚宋の襄公を執へて以て宋を伐つ。冬、亳に会し、以て宋公を釈す。子魚曰く、「禍猶ほ未だし」と。十三年夏、宋鄭を伐つ。子魚曰く、「禍此に在り」と。秋、楚宋を伐ちて以て鄭を救ふ。襄公将に戦はんとす。子魚諫めて曰く、「天の商を棄つること久し。不可なり」と。冬十一月、襄公楚の成王と泓に戦ふ。楚人未だ済らず。目夷曰く、「彼は衆く我は寡し。其の未だ済らざるに及びて之を撃たん」と。公聴かず。已に済りて未だ陳せず。又曰く、「撃つべし」と。公曰く、「其の已に陳するを待て」と。陳成りて、宋人之を撃つ。宋の師大いに敗れ、襄公股を傷つく。国人皆公を怨む。公曰く、「君子は人を阸(やく)に困しめず、列を成さざるに鼓せず」と。子魚曰く、「兵は勝つを以て功と為す。何ぞ常言あらんや。必ず公の言の如くならば、即ち之に奴事せんのみ。又何ぞ戦ふことを為さん」と。楚の成王已に鄭を救ふ。鄭之を享す。去りて鄭の二姫を取りて以て帰る。叔瞻曰く、「成王礼無し。其れ没せざらんか。礼を為して卒に別無し。以て其の覇を遂げざるを知る有り」と。是の年、晋の公子重耳宋を過ぐ。襄公楚に傷つけらるるを以て、晋の援けを得んと欲し、厚く重耳に礼するに馬二十乗を以てす。十四年夏、襄公泓に傷つけられしを病みて竟に卒し、子の成公王臣立つ。成公の元年、晋の文公即位す。三年、楚の盟に倍きて晋に親しむ。文公に徳有るを以てなり。四年、楚の成王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。五年、晋の文公宋を救ひ、楚の兵去る。九年、晋の文公卒す。十一年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。十六年、秦の穆公卒す。十七年、成公卒す。成公の弟御、太子及び大司馬公孫固を殺して自立して君と為る。

現代語訳

公子目夷は諫めて言った。「小国が盟主の座を争うのは、災いのもとだ」。襄公は聞き入れなかった。秋、諸侯は宋公と盂で会盟した。目夷は言った。「災いはここで起こるのではないか。君の野心はあまりに大きい。どうしてそれに耐えられよう」。はたして楚はこの場で宋の襄公を捕らえ、そのまま宋を攻めた。冬、諸侯が亳で会し、宋公は釈放された。子魚(目夷)は言った。「災いはまだ終わっていない」。十三年の夏、宋は鄭を攻めた。子魚は言った。「災いはここにある」。秋、楚は宋を攻めて鄭を救おうとした。襄公が迎え撃とうとすると、子魚は諫めた。「天が商(殷の子孫である宋)を見捨ててから久しい。戦ってはならない」。冬十一月、襄公は楚の成王と泓水で戦った。楚軍がまだ川を渡りきらないうちに、目夷が言った。「敵は多く、味方は少ない。渡りきらないうちに攻撃しよう」。襄公は聞き入れなかった。楚軍が渡り終えて、まだ陣形を整えていないとき、目夷はまた言った。「今こそ攻撃すべきだ」。襄公は言った。「陣形が整うのを待て」。楚の陣形が整ってから、宋軍は攻撃した。宋軍は大敗し、襄公は股に傷を負った。国の人々はみな襄公を恨んだ。襄公は言った。「君子は相手が困難な状況にあるときに苦しめたりせず、陣形が整わない相手に攻撃の太鼓を打ったりしないものだ」。子魚は言った。「戦は勝つことこそが手柄だ。何の決まり文句があるものか。もし君の言うとおりにするなら、はじめから相手に奴隷として仕えればよい。どうして戦う必要があろう」。楚の成王は鄭を救い終えると、鄭の君主にもてなされた。帰るときには鄭の二人の姫を連れ去った。鄭の叔瞻は言った。「成王は礼を欠いている。まともな最期を迎えられないのではないか。礼を受けながら最後に男女の別をわきまえなかった。これで彼が覇業を成し遂げられないことがわかる」。この年、晋の公子重耳が宋に立ち寄った。襄公は楚に傷つけられたので晋の援助を得ようと考え、重耳を手厚くもてなし、馬車二十乗分の馬を贈った。十四年の夏、襄公は泓水の戦いで受けた傷がもとで亡くなり、子の成公王臣が立った。成公の元年、晋の文公が即位した。三年、宋は楚との盟約に背いて晋に近づいた。晋の文公に恩を施していたからである。四年、楚の成王が宋を攻め、宋は晋に急を告げた。五年、晋の文公が宋を救い、楚軍は引き揚げた。九年、晋の文公が亡くなった。十一年、楚の太子商臣が父の成王を殺して代わりに立った。十六年、秦の穆公が亡くなった。十七年、成公が亡くなった。成公の弟の御が、太子と大司馬の公孫固を殺して自ら君主となった。

解説

「宋襄の仁」の故事で知られる泓水の戦いを描く段です。宋の襄公は、斉の桓公亡き後の覇者を目指しますが、宰相で異母兄の目夷(子魚)は「小国が盟主を争うのは災いだ」と繰り返し諫めます。その言葉どおり、襄公は会盟の場で楚に捕らえられ、さらに泓水で楚と戦うことになります。目夷は、楚軍が川を渡りきる前、陣形を整える前に攻撃すべきだと二度進言しますが、襄公は「君子は相手の困難につけ込まない」と退け、大敗して自らも傷を負いました。子魚の「戦は勝つことが手柄だ。そんな決まり文句にこだわるなら、はじめから奴隷として仕えればよい」という反論は痛烈です。後世、「宋襄の仁」は無用の情けをかけて自滅する愚かさのたとえになりました。ただし司馬遷は、この後の太史公曰で襄公の礼譲を評価する見方も紹介しています。理想を貫くことと、状況に応じた判断とのバランスは、今の意思決定でも大きな課題です。

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