史記 / 宋微子世家
湣公自罪曰:「寡人以不能事鬼神,政不修,故水。」臧文仲善此言。此言乃公子子魚教湣公也。十年夏,宋伐魯,戰於乘丘,魯生虜宋南宮萬。宋人請萬,萬歸宋。十一年秋,湣公與南宮萬獵,因博爭行,湣公怒,辱之,曰:「始吾敬若;今若,魯虜也。」萬有力,病此言,遂以局殺湣公于蒙澤。大夫仇牧聞之,以兵造公門。萬搏牧,牧齒著門闔死。因殺太宰華督,乃更立公子游爲君。諸公子奔蕭,公子御說奔亳。萬弟南宮牛將兵圍亳。冬,蕭及宋之諸公子共擊殺南宮牛,弒宋新君游而立湣公弟御說,是爲桓公。宋萬奔陳。宋人請以賂陳。陳人使婦人飲之醇酒,以革裹之,歸宋。宋人醢萬也。桓公二年,諸矦伐宋,至郊而去。三年,齊桓公始霸。二十三年,迎衛公子燬於齊,立之,是爲衛文公。文公女弟爲桓公夫人。秦穆公即位。三十年,桓公病,太子茲甫讓其庶兄目夷爲嗣。桓公義太子意,竟不聽。三十一年春,桓公卒,太子茲甫立,是爲襄公。以其庶兄目夷爲相。未葬,而齊桓公會諸矦于葵丘,襄公往會。襄公七年,宋地茀星如雨,與雨偕下;六鶂退蜚,風疾也。八年,齊桓公卒,宋欲爲盟會。十二年春,宋襄公爲鹿上之盟,以求諸矦於楚,楚人許之。
新字:湣公自罪曰:「寡人以不能事鬼神,政不修,故水。」臧文仲善此言。此言乃公子子魚教湣公也。十年夏,宋伐魯,戦於乗丘,魯生虜宋南宮万。宋人請万,万帰宋。十一年秋,湣公与南宮万猟,因博争行,湣公怒,辱之,曰:「始吾敬若;今若,魯虜也。」万有力,病此言,遂以局殺湣公于蒙沢。大夫仇牧聞之,以兵造公門。万搏牧,牧歯著門闔死。因殺太宰華督,乃更立公子游為君。諸公子奔蕭,公子御説奔亳。万弟南宮牛将兵囲亳。冬,蕭及宋之諸公子共撃殺南宮牛,弒宋新君游而立湣公弟御説,是為桓公。宋万奔陳。宋人請以賂陳。陳人使婦人飲之醇酒,以革裹之,帰宋。宋人醢万也。桓公二年,諸矦伐宋,至郊而去。三年,斉桓公始覇。二十三年,迎衛公子燬於斉,立之,是為衛文公。文公女弟為桓公夫人。秦穆公即位。三十年,桓公病,太子茲甫譲其庶兄目夷為嗣。桓公義太子意,竟不聴。三十一年春,桓公卒,太子茲甫立,是為襄公。以其庶兄目夷為相。未葬,而斉桓公会諸矦于葵丘,襄公往会。襄公七年,宋地茀星如雨,与雨偕下;六鶂退蜚,風疾也。八年,斉桓公卒,宋欲為盟会。十二年春,宋襄公為鹿上之盟,以求諸矦於楚,楚人許之。
書き下し
湣公自ら罪して曰く、「寡人鬼神に事ふること能はず、政修まらざるを以て、故に水あり」と。臧文仲此の言を善しとす。此の言は乃ち公子子魚湣公に教ふるなり。十年夏、宋魯を伐ち、乗丘に戦ふ。魯宋の南宮万を生虜にす。宋人万を請ひ、万宋に帰る。十一年秋、湣公南宮万と猟し、博に因りて行を争ふ。湣公怒り、之を辱めて曰く、「始め吾若を敬す。今若は魯の虜なり」と。万力有り、此の言を病み、遂に局を以て湣公を蒙沢に殺す。大夫仇牧之を聞き、兵を以て公門に造る。万牧を搏つ。牧の歯門の闔に著きて死す。因りて太宰華督を殺し、乃ち更に公子游を立てて君と為す。諸公子蕭に奔り、公子御説亳に奔る。万の弟南宮牛兵を将ゐて亳を囲む。冬、蕭及び宋の諸公子共に南宮牛を撃ち殺し、宋の新君游を弑して湣公の弟御説を立つ。是を桓公と為す。宋万陳に奔る。宋人賂を以て陳に請ふ。陳人婦人をして之に醇酒を飲ましめ、革を以て之を裹み、宋に帰す。宋人万を醢(ししびしほ)にす。桓公の二年、諸侯宋を伐ち、郊に至りて去る。三年、斉の桓公始めて覇たり。二十三年、衛の公子燬を斉に迎へ、之を立つ。是を衛の文公と為す。文公の女弟桓公の夫人と為る。秦の穆公即位す。三十年、桓公病む。太子茲甫其の庶兄目夷に譲りて嗣と為さんとす。桓公太子の意を義とするも、竟に聴かず。三十一年春、桓公卒し、太子茲甫立つ。是を襄公と為す。其の庶兄目夷を以て相と為す。未だ葬らざるに、斉の桓公諸侯を葵丘に会す。襄公往きて会す。襄公の七年、宋の地に茀星雨の如く、雨と偕に下る。六鶂退き蜚(と)ぶ、風疾ければなり。八年、斉の桓公卒す。宋盟会を為さんと欲す。十二年春、宋の襄公鹿上の盟を為し、以て諸侯を楚に求む。楚人之を許す。
現代語訳
湣公は自らを責めて言った。「私が鬼神にきちんと仕えることができず、政治も整わなかったので、洪水が起きたのだ」。臧文仲はこの言葉をよしとした。この言葉は、実は公子の子魚が湣公に教えたものであった。十年の夏、宋は魯を攻め、乗丘で戦った。魯は宋の南宮万を生け捕りにした。宋が万の返還を求め、万は宋に帰った。十一年の秋、湣公は南宮万と狩りに出かけ、双六の勝負で駒の進め方を言い争った。湣公は怒って万を辱めて言った。「はじめはおまえを敬っていたが、今のおまえは魯の捕虜あがりにすぎない」。万は力が強く、この言葉を恨みに思い、ついに双六の盤で湣公を蒙沢で殴り殺した。大夫の仇牧はこれを聞くと、兵を率いて宮門に駆けつけた。万は仇牧を殴り、仇牧は歯が門の扉に突き刺さって死んだ。万はさらに太宰の華督を殺し、公子の游を君主に立てた。公子たちは蕭に逃れ、公子の御説は亳に逃れた。万の弟の南宮牛が兵を率いて亳を包囲した。冬、蕭と宋の公子たちは共に南宮牛を撃ち殺し、宋の新しい君主の游を殺して、湣公の弟の御説を立てた。これが桓公である。南宮万は陳に逃れた。宋は陳に財物を贈って万の引き渡しを求めた。陳は女に強い酒を飲ませて万を酔わせ、皮で包んで宋に送り返した。宋は万を塩漬けの刑にした。桓公の二年、諸侯が宋を攻め、郊外まで来て引き揚げた。三年、斉の桓公が初めて覇者となった。二十三年、宋は衛の公子燬を斉から迎えて衛の君主に立てた。これが衛の文公である。文公の妹は宋の桓公の夫人となった。秦の穆公が即位した。三十年、桓公が病に倒れた。太子の茲甫は、異母兄の目夷に跡継ぎを譲りたいと申し出た。桓公は太子の心がけを立派だと思ったが、結局聞き入れなかった。三十一年の春、桓公が亡くなり、太子の茲甫が立った。これが襄公である。襄公は異母兄の目夷を宰相とした。桓公をまだ葬らないうちに、斉の桓公が葵丘で諸侯を集めて会盟し、襄公も出かけて会盟に加わった。襄公の七年、宋の地に流れ星が雨のように、雨とともに降り注いだ。また六羽の鷁(げき、水鳥)が後ろ向きに飛んだ。風が強かったためである。八年、斉の桓公が亡くなった。宋は自ら諸侯の会盟を主催しようとした。十二年の春、宋の襄公は鹿上で盟約を結び、楚に諸侯を集める主導権を認めるよう求めた。楚はこれを承知した。
解説
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史記 宋微子世家公子目夷諫めて曰く、「小国盟を争ふは、禍なり」と。聴かず。秋、諸侯宋公に会して盂に盟ふ。目夷曰く、「禍其れ此に在らんか。君の欲已に甚だし。何を以て之に堪へん」と。是に於て楚宋の襄公を執へて以て宋を伐つ。冬、亳に会し、以て宋公を釈す。子魚曰く、「禍猶ほ未だし」と。十三年夏、宋鄭を伐つ。子魚曰く、「禍此に在り」と。秋、楚宋を伐ちて以て鄭を救ふ。襄公将に戦はんとす。子魚諫めて曰く、「天の商を棄つること久し。不可なり」と。冬十一月、襄公楚の成王と泓に戦ふ。楚人未だ済らず。目夷曰く、「彼は衆く我は寡し。其の未だ済らざるに及びて之を撃たん」と。公聴かず。已に済りて未だ陳せず。又曰く、「撃つべし」と。公曰く、「其の已に陳するを待て」と。陳成りて、宋人之を撃つ。宋の師大いに敗れ、襄公股を傷つく。国人皆公を怨む。公曰く、「君子は人を阸(やく)に困しめず、列を成さざるに鼓せず」と。子魚曰く、「兵は勝つを以て功と為す。何ぞ常言あらんや。必ず公の言の如くならば、即ち之に奴事せんのみ。又何ぞ戦ふことを為さん」と。楚の成王已に鄭を救ふ。鄭之を享す。去りて鄭の二姫を取りて以て帰る。叔瞻曰く、「成王礼無し。其れ没せざらんか。礼を為して卒に別無し。以て其の覇を遂げざるを知る有り」と。是の年、晋の公子重耳宋を過ぐ。襄公楚に傷つけらるるを以て、晋の援けを得んと欲し、厚く重耳に礼するに馬二十乗を以てす。十四年夏、襄公泓に傷つけられしを病みて竟に卒し、子の成公王臣立つ。成公の元年、晋の文公即位す。三年、楚の盟に倍きて晋に親しむ。文公に徳有るを以てなり。四年、楚の成王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。五年、晋の文公宋を救ひ、楚の兵去る。九年、晋の文公卒す。十一年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。十六年、秦の穆公卒す。十七年、成公卒す。成公の弟御、太子及び大司馬公孫固を殺して自立して君と為る。
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史記 宋微子世家十九年、宣公病み、其の弟和に譲りて曰く、「父死して子継ぎ、兄死して弟及ぶは、天下の通義なり。我其れ和を立てん」と。和も亦た三たび譲りて之を受く。宣公卒し、弟の和立つ。是を穆公と為す。穆公の九年、病み、大司馬孔父を召して謂ひて曰く、「先君宣公太子与夷を捨てて我を立つ。我敢て忘れず。我死せば、必ず与夷を立てよ」と。孔父曰く、「群臣皆公子馮を立てんことを願ふ」と。穆公曰く、「馮を立つること毋かれ。吾以て宣公に負くべからず」と。是に於て穆公馮をして出でて鄭に居らしむ。八月庚辰、穆公卒し、兄宣公の子与夷立つ。是を殤公と為す。君子之を聞きて曰く、「宋の宣公は人を知ると謂ふべし。其の弟を立てて以て義を成し、然も卒に其の子復た之を享く。殤公の元年、衛の公子州吁其の君完を弑して自立し、諸侯を得んと欲し、宋に告げしめて曰く、「馮鄭に在り、必ず乱を為さん。我と与に之を伐つべし」と。宋之を許し、与に鄭を伐ち、東門に至りて還る。二年、鄭宋を伐ち、以て東門の役に報ゆ。其の後諸侯数々来たりて侵伐す。九年、大司馬孔父嘉の妻好し。出でて、道に太宰華督に遇ふ。督説び、目して之を観る。督孔父の妻を利とし、乃ち人をして国中に宣言せしめて曰く、「殤公即位して十年のみにして、十一たび戦ふ。民苦しみて堪へず。皆孔父之を為す。我且に孔父を殺して以て民を寧んぜんとす」と。是の歳、魯其の君隠公を弑す。十年、華督孔父を攻め殺し、其の妻を取る。殤公怒る。遂に殤公を弑して、穆公の子馮を鄭に迎へて之を立つ。是を荘公と為す。荘公の元年、華督相と為る。九年、鄭の祭仲を執へ、要して突を立てて鄭君と為さしむ。祭仲許し、竟に突を立つ。十九年、荘公卒し、子の湣公捷立つ。湣公の七年、斉の桓公即位す。九年、宋に水あり。魯臧文仲をして往きて水を弔はしむ。
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