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史記 / 宋微子世家

十九年,宣公病,讓其弟和,曰:「父死子繼,兄死弟及,天下通義也。我其立和。」和亦三讓而受之。宣公卒,弟和立,是爲穆公。穆公九年,病,召大司馬孔父謂曰:「先君宣公捨太子與夷而立我,我不敢忘。我死,必立與夷也。」孔父曰:「羣臣皆願立公子馮。」穆公曰:「毋立馮,吾不可以負宣公。」於是穆公使馮出居于鄭。八月庚辰,穆公卒,兄宣公子與夷立,是爲殤公。君子聞之,曰:「宋宣公可謂知人矣,立其弟以成義,然卒其子復享之。殤公元年,衛公子州吁弒其君完自立,欲得諸矦,使告於宋曰:「馮在鄭,必爲亂,可與我伐之。」宋許之,與伐鄭,至東門而還。二年,鄭伐宋,以報東門之役。其後諸矦數來侵伐。九年,大司馬孔父嘉妻好,出,道遇太宰華督,督說,目而觀之。督利孔父妻,乃使人宣言國中曰:「殤公即位十年耳,而十一戰,民苦不堪,皆孔父爲之,我且殺孔父以寧民。」是歲,魯弒其君隱公。十年,華督攻殺孔父,取其妻。殤公怒,遂弒殤公,而迎穆公子馮於鄭而立之,是爲莊公。莊公元年,華督爲相。九年,執鄭之祭仲,要以立突爲鄭君。祭仲許,竟立突。十九年,莊公卒,子湣公捷立。湣公七年,齊桓公即位。九年,宋水,魯使臧文仲往弔水。

新字:十九年,宣公病,譲其弟和,曰:「父死子継,兄死弟及,天下通義也。我其立和。」和亦三譲而受之。宣公卒,弟和立,是為穆公。穆公九年,病,召大司馬孔父謂曰:「先君宣公捨太子与夷而立我,我不敢忘。我死,必立与夷也。」孔父曰:「羣臣皆願立公子馮。」穆公曰:「毋立馮,吾不可以負宣公。」於是穆公使馮出居于鄭。八月庚辰,穆公卒,兄宣公子与夷立,是為殤公。君子聞之,曰:「宋宣公可謂知人矣,立其弟以成義,然卒其子復享之。殤公元年,衛公子州吁弒其君完自立,欲得諸矦,使告於宋曰:「馮在鄭,必為乱,可与我伐之。」宋許之,与伐鄭,至東門而還。二年,鄭伐宋,以報東門之役。其後諸矦数来侵伐。九年,大司馬孔父嘉妻好,出,道遇太宰華督,督説,目而観之。督利孔父妻,乃使人宣言国中曰:「殤公即位十年耳,而十一戦,民苦不堪,皆孔父為之,我且殺孔父以寧民。」是歳,魯弒其君隠公。十年,華督攻殺孔父,取其妻。殤公怒,遂弒殤公,而迎穆公子馮於鄭而立之,是為荘公。荘公元年,華督為相。九年,執鄭之祭仲,要以立突為鄭君。祭仲許,竟立突。十九年,荘公卒,子湣公捷立。湣公七年,斉桓公即位。九年,宋水,魯使臧文仲往弔水。

書き下し

十九年、宣公病み、其の弟和に譲りて曰く、「父死して子継ぎ、兄死して弟及ぶは、天下の通義なり。我其れ和を立てん」と。和も亦た三たび譲りて之を受く。宣公卒し、弟の和立つ。是を穆公と為す。穆公の九年、病み、大司馬孔父を召して謂ひて曰く、「先君宣公太子与夷を捨てて我を立つ。我敢て忘れず。我死せば、必ず与夷を立てよ」と。孔父曰く、「群臣皆公子馮を立てんことを願ふ」と。穆公曰く、「馮を立つること毋かれ。吾以て宣公に負くべからず」と。是に於て穆公馮をして出でて鄭に居らしむ。八月庚辰、穆公卒し、兄宣公の子与夷立つ。是を殤公と為す。君子之を聞きて曰く、「宋の宣公は人を知ると謂ふべし。其の弟を立てて以て義を成し、然も卒に其の子復た之を享く。殤公の元年、衛の公子州吁其の君完を弑して自立し、諸侯を得んと欲し、宋に告げしめて曰く、「馮鄭に在り、必ず乱を為さん。我と与に之を伐つべし」と。宋之を許し、与に鄭を伐ち、東門に至りて還る。二年、鄭宋を伐ち、以て東門の役に報ゆ。其の後諸侯数々来たりて侵伐す。九年、大司馬孔父嘉の妻好し。出でて、道に太宰華督に遇ふ。督説び、目して之を観る。督孔父の妻を利とし、乃ち人をして国中に宣言せしめて曰く、「殤公即位して十年のみにして、十一たび戦ふ。民苦しみて堪へず。皆孔父之を為す。我且に孔父を殺して以て民を寧んぜんとす」と。是の歳、魯其の君隠公を弑す。十年、華督孔父を攻め殺し、其の妻を取る。殤公怒る。遂に殤公を弑して、穆公の子馮を鄭に迎へて之を立つ。是を荘公と為す。荘公の元年、華督相と為る。九年、鄭の祭仲を執へ、要して突を立てて鄭君と為さしむ。祭仲許し、竟に突を立つ。十九年、荘公卒し、子の湣公捷立つ。湣公の七年、斉の桓公即位す。九年、宋に水あり。魯臧文仲をして往きて水を弔はしむ。

現代語訳

十九年、宣公は病に倒れ、弟の和に位を譲ろうとして言った。「父が死ねば子が継ぎ、兄が死ねば弟が継ぐのは、天下に通じる道理だ。私は和を立てよう」。和も三度辞退したのち、これを受けた。宣公が亡くなり、弟の和が立った。これが穆公である。穆公の九年、穆公は病に倒れ、大司馬の孔父を呼んで言った。「先君の宣公は太子の与夷を差し置いて私を立ててくださった。私はそのことを決して忘れない。私が死んだら、必ず与夷を立てよ」。孔父は言った。「群臣はみな公子馮(穆公の子)を立てたいと願っている」。穆公は言った。「馮を立ててはならない。私は宣公に背くことはできない」。そこで穆公は馮を国外に出して鄭に住まわせた。八月庚辰の日、穆公が亡くなり、兄の宣公の子の与夷が立った。これが殤公である。君子はこれを聞いて言った。「宋の宣公は人を見る目があったと言える。弟を立てて義を成し遂げ、しかも最後には自分の子が再び位を受けることになったのだから」。殤公の元年、衛の公子州吁がその君の完を殺して自ら立ち、諸侯の支持を得ようとして、宋に使者を送って言った。「馮は鄭にいて、必ず乱を起こすだろう。われわれとともに鄭を討つべきだ」。宋はこれを承知し、ともに鄭を攻め、鄭の東門まで行って引き返した。二年、鄭が宋を攻め、東門の戦いの報復をした。その後、諸侯がたびたび宋に攻め込んできた。九年、大司馬の孔父嘉の妻は美しかった。外出した際、道で太宰の華督に出会った。華督は心を奪われ、じっと見つめた。華督は孔父の妻を手に入れたいと思い、人を使って国中に言いふらさせた。「殤公は即位してまだ十年なのに、十一回も戦をした。民は苦しみに耐えられない。これはみな孔父のせいだ。私は孔父を殺して民を安んじようと思う」。この年、魯でその君の隠公が殺された。十年、華督は孔父を攻め殺し、その妻を奪った。殤公が怒ると、華督はついに殤公を殺し、穆公の子の馮を鄭から迎えて立てた。これが荘公である。荘公の元年、華督が宰相となった。九年、宋は鄭の祭仲を捕らえ、突を鄭君に立てるよう迫った。祭仲は承諾し、ついに突を立てた。十九年、荘公が亡くなり、子の湣公捷が立った。湣公の七年、斉の桓公が即位した。九年、宋で洪水があった。魯は臧文仲を派遣して水害の見舞いをさせた。

解説

宋の宣公と穆公の兄弟間の譲り合いと、それが後に乱を生む経緯を描く段です。宣公は「兄死すれば弟及ぶ」という殷の継承の慣習を持ち出して、我が子ではなく弟に位を譲りました。穆公もその恩を忘れず、自分の子の馮を国外に出してまで兄の子の与夷に位を返します。君子はこの美談を称えました。しかし継承の筋が二つに分かれたことで、国外の馮を担ぐ勢力が生まれ、殤公の治世は戦続きになります。そこへ太宰の華督が、孔父の妻の美しさに目をつけ、戦続きの責任を孔父に押しつける噂を流して孔父を殺し、殤公までも殺して馮を立てました。美しい譲り合いが、結果的に争いの火種を残したのです。個人の欲望が「民のため」という大義名分をまとって語られる点も見逃せません。善意の決定でも、後に残る仕組みの歪みまで考えておく必要があることを、この段は示しています。

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