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史記 / 宋微子世家

於是武王乃封箕子於朝鮮而不臣也。其後箕子朝周,過故殷虛,感宮室毀壞,生禾黍,箕子傷之,欲哭則不可,欲泣爲其近婦人,乃作麥秀之詩以謌詠之。其詩曰:「麥秀漸漸兮,禾黍油油。彼狡僮兮,不與我好兮!」所謂狡童者,紂也。殷民聞之,皆爲流涕。武王崩,成王少,周公旦代行政當國。管、蔡疑之,乃與武庚作亂,欲襲成王、周公。周公既承成王命誅武庚,殺管叔,放蔡叔,乃命微子開代殷後,奉其先祀,作微子之命以申之,國于宋。微子故能仁賢,乃代武庚,故殷之餘民甚戴愛之。微子開卒,立其弟衍,是爲微仲。微仲卒,子宋公稽立。宋公稽卒,子丁公申立。丁公申卒,子湣公共立。湣公共卒,弟煬公熙立。煬公即位,湣公子鮒祀弒煬公而自立,曰「我當立」,是爲厲公。厲公卒,子釐公舉立。釐公十七年,周厲王出奔彘。二十八年,釐公卒,子惠公覵立。惠公四年,周宣王即位。三十年,惠公卒,子哀公立。哀公元年卒,子戴公立。戴公二十九年,周幽王爲犬戎所殺,秦始列爲諸矦。三十四年,戴公卒,子武公司空立。武公生女爲魯惠公夫人,生魯桓公。十八年,武公卒,子宣公力立。宣公有太子與夷。

新字:於是武王乃封箕子於朝鮮而不臣也。其後箕子朝周,過故殷虚,感宮室毀壊,生禾黍,箕子傷之,欲哭則不可,欲泣為其近婦人,乃作麦秀之詩以謌詠之。其詩曰:「麦秀漸漸兮,禾黍油油。彼狡僮兮,不与我好兮!」所謂狡童者,紂也。殷民聞之,皆為流涕。武王崩,成王少,周公旦代行政当国。管、蔡疑之,乃与武庚作乱,欲襲成王、周公。周公既承成王命誅武庚,殺管叔,放蔡叔,乃命微子開代殷後,奉其先祀,作微子之命以申之,国于宋。微子故能仁賢,乃代武庚,故殷之余民甚戴愛之。微子開卒,立其弟衍,是為微仲。微仲卒,子宋公稽立。宋公稽卒,子丁公申立。丁公申卒,子湣公共立。湣公共卒,弟煬公熙立。煬公即位,湣公子鮒祀弒煬公而自立,曰「我当立」,是為厲公。厲公卒,子釐公舉立。釐公十七年,周厲王出奔彘。二十八年,釐公卒,子恵公覵立。恵公四年,周宣王即位。三十年,恵公卒,子哀公立。哀公元年卒,子戴公立。戴公二十九年,周幽王為犬戎所殺,秦始列為諸矦。三十四年,戴公卒,子武公司空立。武公生女為魯恵公夫人,生魯桓公。十八年,武公卒,子宣公力立。宣公有太子与夷。

書き下し

是に於て武王乃ち箕子を朝鮮に封じて臣とせざるなり。其の後箕子周に朝し、故の殷虚を過ぎ、宮室の毀壊して、禾黍を生ずるに感ず。箕子之を傷み、哭せんと欲すれば則ち不可なり、泣かんと欲すれば其の婦人に近きが為なり。乃ち麦秀の詩を作りて以て之を謌詠す。其の詩に曰く、「麦秀でて漸漸たり、禾黍油油たり。彼の狡僮、我と好からず」と。所謂狡童とは、紂なり。殷の民之を聞き、皆為に流涕す。武王崩じ、成王少し。周公旦代はりて政を行ひ国に当たる。管・蔡之を疑ひ、乃ち武庚と乱を作し、成王・周公を襲はんと欲す。周公既に成王の命を承けて武庚を誅し、管叔を殺し、蔡叔を放つ。乃ち微子開に命じて殷の後に代はり、其の先祀を奉ぜしめ、微子の命を作りて以て之を申(かさ)ね、宋に国せしむ。微子故より能く仁賢にして、乃ち武庚に代はる。故に殷の余民甚だ之を戴愛す。微子開卒し、其の弟衍を立つ。是を微仲と為す。微仲卒し、子の宋公稽立つ。宋公稽卒し、子の丁公申立つ。丁公申卒し、子の湣公共立つ。湣公共卒し、弟の煬公熙立つ。煬公即位す。湣公の子鮒祀煬公を弑して自立し、「我当に立つべし」と曰ふ。是を厲公と為す。厲公卒し、子の釐公挙立つ。釐公の十七年、周の厲王出でて彘に奔る。二十八年、釐公卒し、子の恵公覵立つ。恵公の四年、周の宣王即位す。三十年、恵公卒し、子の哀公立つ。哀公元年にして卒し、子の戴公立つ。戴公の二十九年、周の幽王犬戎の殺す所と為り、秦始めて列して諸侯と為る。三十四年、戴公卒し、子の武公司空立つ。武公女を生みて魯の恵公の夫人と為し、魯の桓公を生む。十八年、武公卒し、子の宣公力立つ。宣公に太子与夷有り。

現代語訳

そこで武王は箕子を朝鮮に封じたが、臣下としては扱わなかった。その後、箕子が周に参朝する途中で、もとの殷の都の廃墟を通りかかり、宮殿が壊れて稲や黍が生い茂っているのを見て心を痛めた。声をあげて泣こうとしても、それは許されることではなく、すすり泣こうとすれば、女々しいように思われた。そこで「麦秀」の詩を作って歌った。その詩はこうである。「麦の穂はすくすくと伸び、稲や黍はつやつやと茂る。あの悪童めが、私の言うことを聞かなかったばかりに」。ここでいう悪童とは紂のことである。殷の民はこれを聞いて、みな涙を流した。武王が亡くなり、成王は幼かったので、周公旦が代わって政治を行い、国政を担った。管叔と蔡叔は周公を疑い、武庚とともに反乱を起こし、成王と周公を襲おうとした。周公は成王の命令を受けて武庚を誅し、管叔を殺し、蔡叔を追放した。そして微子開に命じて武庚に代わって殷の後継者とし、殷の祖先の祭祀を継がせた。「微子之命」の文を作ってその任命を重ねて告げ、宋に国を建てさせた。微子はもともと仁愛と賢明さを備えており、武庚に代わって殷の後継となったので、殷の遺民は微子を深く敬い慕った。微子開が亡くなると、弟の衍が立った。これが微仲である。微仲が亡くなり、子の宋公稽が立った。宋公稽が亡くなり、子の丁公申が立った。丁公申が亡くなり、子の湣公共が立った。湣公共が亡くなり、弟の煬公熙が立った。煬公が即位すると、湣公の子の鮒祀が煬公を殺して自ら立ち、「私こそが立つべきだったのだ」と言った。これが厲公である。厲公が亡くなり、子の釐公挙が立った。釐公の十七年、周の厲王が彘に逃れた。二十八年、釐公が亡くなり、子の恵公覵が立った。恵公の四年、周の宣王が即位した。三十年、恵公が亡くなり、子の哀公が立った。哀公は即位したその年に亡くなり、子の戴公が立った。戴公の二十九年、周の幽王が犬戎に殺され、秦が初めて諸侯に列せられた。三十四年、戴公が亡くなり、子の武公司空が立った。武公は娘を魯の恵公の夫人とし、その娘が魯の桓公を産んだ。十八年、武公が亡くなり、子の宣公力が立った。宣公には太子の与夷がいた。

解説

洪範を説き終えた箕子のその後と、微子が宋の国を開く経緯を描く段です。武王は箕子を朝鮮に封じますが、臣下としては扱いませんでした。前王朝の賢者への敬意の表れです。箕子が殷の旧都の廃墟を通り、麦や黍が茂るのを見て作った「麦秀の歌」は、亡国の悲しみを詠んだ詩として名高く、後世「麦秀の嘆」という言葉になりました。紂を「狡童(悪童)」と呼ぶ言葉には、諫めを聞かなかった主君への悔しさと哀惜が込められています。その後、武庚と管叔・蔡叔の乱が鎮圧されると、周公は仁と賢で知られた微子を殷の後継に立て、宋を建国させました。殷の遺民が微子を慕ったのは、武庚と違ってその人柄に信頼を寄せていたからでしょう。後半は宋の系譜で、湣公の子・鮒祀が叔父を殺して「私こそが立つべきだった」と即位するなど、継承争いの種がここにも見えます。敗れた側の人々をまとめるには、何より信頼される人物を据えることが大切だと教えてくれる段です。

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