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史記 / 衛康叔世家

二子從之,公不釋射服與之言。二子怒,如宿。孫文子子數侍公飲,使師曹歌巧言之卒章。師曹又怒公之嘗笞三百,乃歌之,欲以怒孫文子,報衞獻公。文子語蘧伯玉,伯玉曰:「臣不知也。」遂攻出獻公。獻公奔齊,齊置衞獻公於聚邑。孫文子、甯惠子共立定公弟秋爲衞君,是爲殤公。殤公秋立,封孫文子林父於宿。十二年,甯喜與孫林父爭寵相惡,殤公使甯喜攻孫林父。林父奔晉,復求入故衞獻公。獻公在齊,齊景公聞之,與衞獻公如晉求入。晉爲伐衞,誘與盟。衞殤公會晉平公,平公執殤公與甯喜而復入衞獻公。獻公亡在外十二年而入。獻公後元年,誅甯喜。三年,呉延陵季子使過衞,見蘧伯玉、史,曰:「衞多君子,其國無故。」過宿,孫林父爲撃磬,曰:「不樂,音大悲,使衞亂乃此矣。」是年,獻公卒,子襄公惡立。襄公六年,楚靈王會諸侯,襄公稱病不往。九年,襄公卒。初,襄公有賤妾,幸之,有身,夢有人謂曰:「我康叔也,令若子必有衞,名而子曰『元』。」妾怪之,問孔成子。成子曰:「康叔者,衞祖也。」及生子,男也,以告襄公。襄公曰:「天所置也。」名之曰元。襄公夫人無子,於是乃立元爲嗣,是爲靈公。四十二年春,靈公游于郊,令子郢仆。郢,靈公少子也,字子南。

新字:二子従之,公不釈射服与之言。二子怒,如宿。孫文子子数侍公飲,使師曹歌巧言之卒章。師曹又怒公之嘗笞三百,乃歌之,欲以怒孫文子,報衛献公。文子語蘧伯玉,伯玉曰:「臣不知也。」遂攻出献公。献公奔斉,斉置衛献公於聚邑。孫文子、甯恵子共立定公弟秋為衛君,是為殤公。殤公秋立,封孫文子林父於宿。十二年,甯喜与孫林父争寵相悪,殤公使甯喜攻孫林父。林父奔晋,復求入故衛献公。献公在斉,斉景公聞之,与衛献公如晋求入。晋為伐衛,誘与盟。衛殤公会晋平公,平公執殤公与甯喜而復入衛献公。献公亡在外十二年而入。献公後元年,誅甯喜。三年,呉延陵季子使過衛,見蘧伯玉、史,曰:「衛多君子,其国無故。」過宿,孫林父為撃磬,曰:「不楽,音大悲,使衛乱乃此矣。」是年,献公卒,子襄公悪立。襄公六年,楚霊王会諸侯,襄公称病不往。九年,襄公卒。初,襄公有賤妾,幸之,有身,夢有人謂曰:「我康叔也,令若子必有衛,名而子曰『元』。」妾怪之,問孔成子。成子曰:「康叔者,衛祖也。」及生子,男也,以告襄公。襄公曰:「天所置也。」名之曰元。襄公夫人無子,於是乃立元為嗣,是為霊公。四十二年春,霊公游于郊,令子郢仆。郢,霊公少子也,字子南。

書き下し

二子之に従ふ。公射服を釈かずして之と言ふ。二子怒り、宿に如く。孫文子の子数々公に侍りて飲む。師曹をして巧言の卒章を歌はしむ。師曹又公の嘗て笞うつこと三百なりしを怒り、乃ち之を歌ひ、以て孫文子を怒らしめ、衛の献公に報いんと欲す。文子蘧伯玉に語る。伯玉曰く、「臣知らざるなり」と。遂に攻めて献公を出す。献公斉に奔る。斉衛の献公を聚邑に置く。孫文子・甯恵子共に定公の弟秋を立てて衛君と為す。是を殤公と為す。殤公秋立ち、孫文子林父を宿に封ず。十二年、甯喜孫林父と寵を争ひて相悪む。殤公甯喜をして孫林父を攻めしむ。林父晋に奔り、復た故の衛の献公を入れんことを求む。献公斉に在り、斉の景公之を聞き、衛の献公と晋に如きて入らんことを求む。晋為に衛を伐ち、誘ひて与に盟ふ。衛の殤公晋の平公に会す。平公殤公と甯喜とを執へて復た衛の献公を入る。献公亡げて外に在ること十二年にして入る。献公の後の元年、甯喜を誅す。三年、呉の延陵季子使ひして衛を過ぎ、蘧伯玉・史(史鰌)を見て曰く、「衛は君子多し。其の国故無からん」と。宿を過ぐ。孫林父為に磬を撃つ。曰く、「楽しからず。音大いに悲し。衛をして乱れしむるは乃ち此なり」と。是の年、献公卒し、子の襄公悪立つ。襄公の六年、楚の霊王諸侯を会す。襄公病と称して往かず。九年、襄公卒す。初め、襄公に賤妾有り、之を幸し、身有り。夢に人有りて謂ひて曰く、「我は康叔なり。若が子をして必ず衛を有たしめん。而の子に名づけて元と曰へ」と。妾之を怪しみ、孔成子に問ふ。成子曰く、「康叔は衛の祖なり」と。子を生むに及びて、男なり。以て襄公に告ぐ。襄公曰く、「天の置く所なり」と。之に名づけて元と曰ふ。襄公の夫人子無し。是に於て乃ち元を立てて嗣と為す。是を霊公と為す。四十二年春、霊公郊に游び、子郢をして仆たらしむ。郢は霊公の少子なり。字は子南。

現代語訳

二人は献公のあとを追って行った。献公は狩りの服を脱ぎもせずに二人と話をした。二人は怒って、孫文子の領地の宿へ引き揚げた。孫文子の子はたびたび献公の酒宴に侍っていた。献公は楽師の曹に『詩経』の「巧言」の最後の章を歌わせた。師曹は以前に三百回も鞭打たれたことを恨んでいたので、あえてその歌を歌い、孫文子を怒らせて献公に仕返しをしようとした。孫文子はこのことを蘧伯玉に話した。蘧伯玉は「私は存じません」と答えた。孫文子はついに献公を攻めて国外に追い出した。献公は斉に逃れ、斉は献公を聚邑に住まわせた。孫文子と甯恵子は共に定公の弟の秋を衛君に立てた。これが殤公である。殤公秋は即位すると、孫文子林父を宿に封じた。十二年、甯喜(甯恵子の子)は孫林父と寵愛を争って互いに憎み合った。殤公は甯喜に孫林父を攻めさせた。孫林父は晋に逃げ、かつての衛の献公を再び国に戻すよう求めた。献公は斉にいたが、斉の景公はこれを聞いて、献公とともに晋へ行き、帰国を助けるよう求めた。晋は献公のために衛を攻め、衛を誘い出して盟約を結ばせた。衛の殤公が晋の平公と会うと、平公は殤公と甯喜を捕らえ、再び衛の献公を国に入れた。献公は国外に亡命して十二年で帰国した。献公は復位した元年に甯喜を誅殺した。三年、呉の延陵季子(季札)が使者として衛に立ち寄り、蘧伯玉と史鰌に会って言った。「衛には君子が多い。この国は無事だろう」。宿に立ち寄ると、孫林父が季子のために磬を打った。季子は言った。「楽しくない。音があまりに悲しい。衛を乱すのはこの人だ」。この年、献公が亡くなり、子の襄公悪が立った。襄公の六年、楚の霊王が諸侯を集めたが、襄公は病気と称して行かなかった。九年、襄公が亡くなった。これより前、襄公には身分の低い側室がいて、寵愛して身ごもらせた。側室は夢の中で、ある人からこう告げられた。「私は康叔だ。そなたの子に必ず衛を治めさせよう。その子を元と名づけよ」。側室は不思議に思って孔成子に尋ねた。孔成子は「康叔は衛の始祖だ」と答えた。生まれた子は男の子であった。そのことを襄公に告げると、襄公は「天が定めたことだ」と言い、元と名づけた。襄公の夫人には子がなかったので、元を跡継ぎに立てた。これが霊公である。(霊公の)四十二年の春、霊公は郊外に出かけ、子の郢に車の御者をさせた。郢は霊公の末子で、字を子南という。

解説

衛の献公が追放され、十二年後に復位するまでの経緯を描く段です。献公は重臣の孫文子と甯恵子を招いておきながら待たせ、狩りの服のまま応対するという無礼を重ねました。さらに、かつて鞭打たれた楽師の曹は、わざと謀反を思わせる詩を歌って孫文子をあおります。こうして献公は国を追われました。小さな恨みが積み重なって大きな政変になったのです。賢者の蘧伯玉は政変に関わることを避けて「知らない」と答え、身を守りました。また、呉の季札が孫林父の奏でる音の悲しさから衛の乱れを見抜く場面は、音楽に人の心が表れるという考え方をよく示しています。後半では、始祖の康叔が夢に現れて後継者を告げ、霊公が立ちます。軽んじられた人の恨みが最後に大きな形で返ってくることや、表に出る振る舞いや音に内面が現れることは、今の組織の人間関係にもそのまま当てはまります。

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