師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 衛康叔世家

太子伋同母弟二人:其一曰黔牟,黔牟嘗代惠公爲君,八年復去;其二曰昭伯。昭伯、黔牟皆已前死,故立昭伯子申爲戴公。戴公卒,復立其弟燬爲文公。文公初立,輕賦平罪,身自勞,與百姓同苦,以收衞民。十六年,晉公子重耳過,無禮。十七年,齊桓公卒。二十五年,文公卒,子成公鄭立。成公三年,晉欲假道於衞救宋,成公不許。晉更從南河度,救宋。徴師於衞,衞大夫欲許,成公不肯。大夫元咺攻成公,成公出奔。晉文公重耳伐衞,分其地予宋,討前過無禮及不救宋患也。衞成公遂出奔陳。二歳,如周求入,與晉文公會。晉使人鴆衞成公,成公私於周主鴆,令薄,得不死。已而周爲請晉文公,卒入之衞,而誅元咺,衞君瑕出奔。七年,晉文公卒。十二年,成公朝晉襄公。十四年,秦穆公卒。二十六年,齊邴歜弒其君懿公。三十五年,成公卒,子穆公遫立。穆公二年,楚莊王伐陳,殺夏徴舒。三年,楚莊王圍鄭,鄭降,復釋之。十一年,孫良夫救魯伐齊,復得侵地。穆公卒,子定公臧立。定公十二年卒,子獻公衎立。獻公十三年,公令師曹教宮妾鼓琴,妾不善,曹笞之。妾以幸惡曹於公,公亦笞曹三百。十八年,獻公戒孫文子、甯惠子食,皆往。日旰不召,而去射鴻於囿。

新字:太子伋同母弟二人:其一曰黔牟,黔牟嘗代恵公為君,八年復去;其二曰昭伯。昭伯、黔牟皆已前死,故立昭伯子申為戴公。戴公卒,復立其弟燬為文公。文公初立,軽賦平罪,身自労,与百姓同苦,以収衛民。十六年,晋公子重耳過,無礼。十七年,斉桓公卒。二十五年,文公卒,子成公鄭立。成公三年,晋欲仮道於衛救宋,成公不許。晋更従南河度,救宋。徴師於衛,衛大夫欲許,成公不肯。大夫元咺攻成公,成公出奔。晋文公重耳伐衛,分其地予宋,討前過無礼及不救宋患也。衛成公遂出奔陳。二歳,如周求入,与晋文公会。晋使人鴆衛成公,成公私於周主鴆,令薄,得不死。已而周為請晋文公,卒入之衛,而誅元咺,衛君瑕出奔。七年,晋文公卒。十二年,成公朝晋襄公。十四年,秦穆公卒。二十六年,斉邴歜弒其君懿公。三十五年,成公卒,子穆公遫立。穆公二年,楚荘王伐陳,殺夏徴舒。三年,楚荘王囲鄭,鄭降,復釈之。十一年,孫良夫救魯伐斉,復得侵地。穆公卒,子定公臧立。定公十二年卒,子献公衎立。献公十三年,公令師曹教宮妾鼓琴,妾不善,曹笞之。妾以幸悪曹於公,公亦笞曹三百。十八年,献公戒孫文子、甯恵子食,皆往。日旰不召,而去射鴻於囿。

書き下し

太子伋の同母弟二人あり。其の一を黔牟と曰ふ。黔牟嘗て恵公に代はりて君と為り、八年にして復た去る。其の二を昭伯と曰ふ。昭伯・黔牟皆已に前に死す。故に昭伯の子申を立てて戴公と為す。戴公卒し、復た其の弟燬を立てて文公と為す。文公初めて立ち、賦を軽くし罪を平らかにし、身自ら労し、百姓と苦を同じくし、以て衛の民を収む。十六年、晋の公子重耳過ぐ。礼無し。十七年、斉の桓公卒す。二十五年、文公卒し、子の成公鄭立つ。成公の三年、晋道を衛に仮りて宋を救はんと欲す。成公許さず。晋更に南河より度りて宋を救ふ。師を衛に徴す。衛の大夫許さんと欲するも、成公肯ぜず。大夫元咺成公を攻め、成公出奔す。晋の文公重耳衛を伐ち、其の地を分かちて宋に予ふ。前の過ぎりしときの無礼及び宋の患ひを救はざりしことを討つなり。衛の成公遂に出でて陳に奔る。二歳、周に如きて入らんことを求め、晋の文公と会す。晋人をして衛の成公に鴆せしむ。成公周の主鴆に私し、薄からしめ、死せざるを得たり。已にして周為に晋の文公に請ひ、卒に之を衛に入れ、而して元咺を誅す。衛君瑕出奔す。七年、晋の文公卒す。十二年、成公晋の襄公に朝す。十四年、秦の穆公卒す。二十六年、斉の邴歜其の君懿公を弑す。三十五年、成公卒し、子の穆公遫立つ。穆公の二年、楚の荘王陳を伐ち、夏徴舒を殺す。三年、楚の荘王鄭を囲む。鄭降り、復た之を釈す。十一年、孫良夫魯を救ひて斉を伐ち、復た侵地を得たり。穆公卒し、子の定公臧立つ。定公十二年にして卒し、子の献公衎立つ。献公の十三年、公師曹をして宮妾に琴を鼓くことを教へしむ。妾善くせず、曹之を笞うつ。妾幸を以て曹を公に悪しざまにす。公も亦た曹を笞うつこと三百。十八年、献公孫文子・甯恵子を戒めて食せしむ。皆往く。日旰(く)るるも召さず、而して去りて鴻を囿に射る。

現代語訳

太子伋には同じ母の弟が二人いた。一人は黔牟で、かつて恵公に代わって君主となったが、八年で位を去った。もう一人は昭伯である。昭伯と黔牟はどちらもすでに亡くなっていたので、昭伯の子の申を立てて戴公とした。戴公が亡くなると、その弟の燬を立てて文公とした。文公は即位すると、税を軽くし、刑罰を公平にし、自ら骨身を惜しまず働き、民と苦労を共にして、衛の民の心をつかんだ。十六年、晋の公子重耳が衛を通ったが、文公は礼を尽くさなかった。十七年、斉の桓公が亡くなった。二十五年、文公が亡くなり、子の成公鄭が立った。成公の三年、晋は衛の領内を通って宋を救おうとしたが、成公は許さなかった。晋は別の道をとって南河から渡り、宋を救った。晋は衛に出兵を求めた。衛の大夫たちは応じようとしたが、成公は承知しなかった。大夫の元咺が成公を攻め、成公は国外に逃れた。晋の文公重耳は衛を攻め、その領土を分けて宋に与えた。かつて通過したときの無礼と、宋の危難を救わなかったことを罰したのである。衛の成公はそのまま陳に逃れた。二年後、成公は周に行って帰国の口添えを求め、晋の文公と会った。晋は人に命じて衛の成公に毒酒を飲ませようとした。成公はひそかに周の毒酒係に頼み込んで毒を薄くさせ、死なずに済んだ。その後、周が成公のために晋の文公に頼み、ついに成公を衛に帰国させ、成公は元咺を誅殺した。元咺が立てていた衛君の瑕は国外に逃げた。七年、晋の文公が亡くなった。十二年、成公は晋の襄公のもとへ参朝した。十四年、秦の穆公が亡くなった。二十六年、斉の邴歜がその君の懿公を殺した。三十五年、成公が亡くなり、子の穆公遫が立った。穆公の二年、楚の荘王が陳を攻め、夏徴舒を殺した。三年、楚の荘王が鄭を包囲した。鄭は降伏したが、楚はまた鄭を許した。十一年、衛の孫良夫が魯を救って斉を攻め、奪われていた土地を取り戻した。穆公が亡くなり、子の定公臧が立った。定公は在位十二年で亡くなり、子の献公衎が立った。献公の十三年、献公は楽師の曹に宮中の女たちへ琴を教えさせた。ある女がうまく弾けなかったので、曹はその女を鞭で打った。女は寵愛をいいことに曹のことを献公に悪く言いつけ、献公もまた曹を三百回鞭打った。十八年、献公は孫文子と甯恵子を食事に招き、二人ともやって来た。ところが日が暮れても献公は二人を呼ばず、庭園に出かけて鴻を射ていた。

解説

衛の再建と、その後の君主たちの浮き沈みを描く段です。文公は滅亡寸前の国を引き継ぎ、税を軽くし刑罰を公平にし、自ら働いて民と苦労を共にすることで国を立て直しました。ところが亡命中の重耳に礼を尽くさなかったことが後の禍根となり、子の成公の代に、晋の文公となった重耳から報復を受けます。成公は国を追われ、毒殺されかけますが、毒酒係を味方につけて生き延びるという場面は、史記らしい生々しさがあります。後半は献公の時代で、楽師を寵妾の言葉だけで三百回も鞭打ち、重臣を食事に招いておきながら放置して狩りに興じるなど、人を軽んじる振る舞いが続きます。この二つの無礼が、次の段で献公自身の追放につながっていきます。相手を大切に扱うか軽んじるかという日々の小さな態度が、やがて大きな結果になって返ってくることは、今の職場でも変わらない真理です。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る