史記 / 衛康叔世家
盜并殺太子伋,以報宣公。宣公乃以子朔爲太子。十九年,宣公卒,太子朔立,是爲惠公。左右公子不平朔之立也,惠公四年,左右公子怨惠公之讒殺前太子伋而代立,乃作亂,攻惠公,立太子伋之弟黔牟爲君,惠公奔齊。衞君黔牟立八年,齊襄公率諸侯奉王命共伐衞,納衞惠公,誅左右公子。衞君黔牟奔于周,惠公復立。惠公立三年出亡,亡八年復入,與前通年凡十三年矣。二十五年,惠公怨周之容舍黔牟,與燕伐周。周惠王奔温,衞、燕立惠王弟穨爲王。二十九年,鄭復納惠王。三十一年,惠公卒,子懿公赤立。懿公卽位,好鶴,淫樂奢侈。九年,翟伐衞,衞懿公欲發兵,兵或畔。大臣言曰:「君好鶴,鶴可令撃翟。」翟於是遂入,殺懿公。懿公之立也,百姓大臣皆不服。自懿公父惠公朔之讒殺太子伋代立至於懿公,常欲敗之,卒滅惠公之後而更立黔牟之弟昭伯頑之子申爲君,是爲戴公。戴公申元年卒。齊桓公以衞數亂,乃率諸侯伐翟,爲衞築楚丘,立戴公弟燬爲衞君,是爲文公。文公以亂故奔齊,齊人入之。初,翟殺懿公也,衞人憐之,思復立宣公前死太子伋之後,伋子又死,而代伋死者子壽又無子。
新字:盗并殺太子伋,以報宣公。宣公乃以子朔為太子。十九年,宣公卒,太子朔立,是為恵公。左右公子不平朔之立也,恵公四年,左右公子怨恵公之讒殺前太子伋而代立,乃作乱,攻恵公,立太子伋之弟黔牟為君,恵公奔斉。衛君黔牟立八年,斉襄公率諸侯奉王命共伐衛,納衛恵公,誅左右公子。衛君黔牟奔于周,恵公復立。恵公立三年出亡,亡八年復入,与前通年凡十三年矣。二十五年,恵公怨周之容舎黔牟,与燕伐周。周恵王奔温,衛、燕立恵王弟穨為王。二十九年,鄭復納恵王。三十一年,恵公卒,子懿公赤立。懿公即位,好鶴,淫楽奢侈。九年,翟伐衛,衛懿公欲発兵,兵或畔。大臣言曰:「君好鶴,鶴可令撃翟。」翟於是遂入,殺懿公。懿公之立也,百姓大臣皆不服。自懿公父恵公朔之讒殺太子伋代立至於懿公,常欲敗之,卒滅恵公之後而更立黔牟之弟昭伯頑之子申為君,是為戴公。戴公申元年卒。斉桓公以衛数乱,乃率諸侯伐翟,為衛築楚丘,立戴公弟燬為衛君,是為文公。文公以乱故奔斉,斉人入之。初,翟殺懿公也,衛人憐之,思復立宣公前死太子伋之後,伋子又死,而代伋死者子寿又無子。
書き下し
盗并せて太子伋を殺し、以て宣公に報ず。宣公乃ち子朔を以て太子と為す。十九年、宣公卒し、太子朔立つ。是を恵公と為す。左右公子朔の立つを平らかならずとす。恵公の四年、左右公子恵公の前太子伋を讒殺して代はり立つを怨み、乃ち乱を作し、恵公を攻め、太子伋の弟黔牟を立てて君と為す。恵公斉に奔る。衛君黔牟立ちて八年、斉の襄公諸侯を率ゐて王命を奉じて共に衛を伐ち、衛の恵公を納れ、左右公子を誅す。衛君黔牟周に奔り、恵公復た立つ。恵公立ちて三年にして出亡し、亡ぐること八年にして復た入る。前と年を通じて凡そ十三年なり。二十五年、恵公周の黔牟を容舎せしを怨み、燕と周を伐つ。周の恵王温に奔り、衛・燕恵王の弟穨を立てて王と為す。二十九年、鄭復た恵王を納る。三十一年、恵公卒し、子の懿公赤立つ。懿公即位し、鶴を好み、淫楽奢侈なり。九年、翟衛を伐つ。衛の懿公兵を発せんと欲するも、兵或いは畔く。大臣言ひて曰く、「君鶴を好む。鶴をして翟を撃たしむべし」と。翟是に於て遂に入り、懿公を殺す。懿公の立つや、百姓大臣皆服せず。懿公の父恵公朔の太子伋を讒殺して代はり立ちしより懿公に至るまで、常に之を敗らんと欲す。卒に恵公の後を滅ぼして、更に黔牟の弟昭伯頑の子申を立てて君と為す。是を戴公と為す。戴公申元年にして卒す。斉の桓公衛の数々乱るるを以て、乃ち諸侯を率ゐて翟を伐ち、衛の為に楚丘に築き、戴公の弟燬を立てて衛君と為す。是を文公と為す。文公乱を以ての故に斉に奔る。斉人之を入る。初め、翟の懿公を殺すや、衛人之を憐れみ、宣公の前に死せし太子伋の後を復立せんと思ふ。伋の子又死し、而して伋に代はりて死せし者子寿も又子無し。
現代語訳
盗賊は太子伋も殺して、宣公に報告した。宣公はそこで子の朔を太子とした。十九年、宣公が亡くなり、太子の朔が立った。これが恵公である。左公子と右公子は朔の即位に不満を抱いていた。恵公の四年、左右の公子は、恵公が前の太子伋を讒言で殺させて代わりに立ったことを恨んで反乱を起こし、恵公を攻め、太子伋の弟の黔牟を君主に立てた。恵公は斉に逃れた。衛君黔牟が立って八年後、斉の襄公は諸侯を率いて周王の命を奉じ、共に衛を攻めて恵公を帰国させ、左右の公子を誅殺した。衛君黔牟は周に逃れ、恵公が再び位についた。恵公は即位して三年で国を追われ、八年の亡命ののちに再び国に入った。前の在位と合わせると通算十三年になる。二十五年、恵公は周が黔牟をかくまったことを恨み、燕とともに周を攻めた。周の恵王は温に逃れ、衛と燕は恵王の弟の穨を王に立てた。二十九年、鄭が恵王を再び都に帰らせた。三十一年、恵公が亡くなり、子の懿公赤が立った。懿公は即位すると鶴を好み、遊興と贅沢にふけった。九年、翟(北方の異民族)が衛を攻めた。衛の懿公は兵を出そうとしたが、兵の中には背く者もいた。大臣たちは言った。「君は鶴がお好きだ。鶴に翟を撃たせればよい」。こうして翟はついに衛に攻め込み、懿公を殺した。懿公が即位したときから、民も大臣もみな服していなかった。懿公の父の恵公朔が太子伋を讒言で殺させて代わりに立って以来、懿公に至るまで、人々は常に恵公の家を倒そうと思っていたのである。ついに恵公の血筋を絶やし、あらためて黔牟の弟の昭伯頑の子の申を君主に立てた。これが戴公である。戴公申は即位した年に亡くなった。斉の桓公は衛がたびたび乱れるので、諸侯を率いて翟を討ち、衛のために楚丘に城を築き、戴公の弟の燬を衛君に立てた。これが文公である。文公は国の乱れのために斉に逃れていたが、斉の人が彼を国に入れたのである。これより前、翟が懿公を殺したとき、衛の人々は亡き太子伋を哀れみ、その子孫をもう一度立てたいと考えた。しかし伋の子もまた死に、伋の身代わりに死んだ寿にも子がいなかった。
解説
関連する章句
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史記 衛康叔世家太子伋の同母弟二人あり。其の一を黔牟と曰ふ。黔牟嘗て恵公に代はりて君と為り、八年にして復た去る。其の二を昭伯と曰ふ。昭伯・黔牟皆已に前に死す。故に昭伯の子申を立てて戴公と為す。戴公卒し、復た其の弟燬を立てて文公と為す。文公初めて立ち、賦を軽くし罪を平らかにし、身自ら労し、百姓と苦を同じくし、以て衛の民を収む。十六年、晋の公子重耳過ぐ。礼無し。十七年、斉の桓公卒す。二十五年、文公卒し、子の成公鄭立つ。成公の三年、晋道を衛に仮りて宋を救はんと欲す。成公許さず。晋更に南河より度りて宋を救ふ。師を衛に徴す。衛の大夫許さんと欲するも、成公肯ぜず。大夫元咺成公を攻め、成公出奔す。晋の文公重耳衛を伐ち、其の地を分かちて宋に予ふ。前の過ぎりしときの無礼及び宋の患ひを救はざりしことを討つなり。衛の成公遂に出でて陳に奔る。二歳、周に如きて入らんことを求め、晋の文公と会す。晋人をして衛の成公に鴆せしむ。成公周の主鴆に私し、薄からしめ、死せざるを得たり。已にして周為に晋の文公に請ひ、卒に之を衛に入れ、而して元咺を誅す。衛君瑕出奔す。七年、晋の文公卒す。十二年、成公晋の襄公に朝す。十四年、秦の穆公卒す。二十六年、斉の邴歜其の君懿公を弑す。三十五年、成公卒し、子の穆公遫立つ。穆公の二年、楚の荘王陳を伐ち、夏徴舒を殺す。三年、楚の荘王鄭を囲む。鄭降り、復た之を釈す。十一年、孫良夫魯を救ひて斉を伐ち、復た侵地を得たり。穆公卒し、子の定公臧立つ。定公十二年にして卒し、子の献公衎立つ。献公の十三年、公師曹をして宮妾に琴を鼓くことを教へしむ。妾善くせず、曹之を笞うつ。妾幸を以て曹を公に悪しざまにす。公も亦た曹を笞うつこと三百。十八年、献公孫文子・甯恵子を戒めて食せしむ。皆往く。日旰(く)るるも召さず、而して去りて鴻を囿に射る。
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史記 衛康叔世家十六年、州吁衛の亡人を収聚して以て桓公を襲殺し、州吁自立して衛君と為る。鄭伯の弟段の為に鄭を伐たんと欲し、宋・陳・蔡に与に倶にせんことを請ふ。三国皆州吁に許す。州吁新たに立ち、兵を好み、桓公を弑す。衛人皆愛せず。石碏乃ち桓公の母家の陳に因りて、詳(いつは)りて州吁に善くすと為す。鄭の郊に至り、石碏陳侯と共に謀り、右宰丑をして食を進めしめ、因りて州吁を濮に殺し、而して桓公の弟晋を邢に迎へて之を立つ。是を宣公と為す。宣公の七年、魯其の君隠公を弑す。九年、宋の督其の君殤公及び孔父を弑す。十年、晋の曲沃の荘伯其の君哀侯を弑す。十八年、初め、宣公夫人夷姜を愛す。夷姜子伋を生み、以て太子と為し、右公子をして之に傅たらしむ。右公子太子の為に斉の女を取る。未だ室に入らざるに、宣公太子の婦と為さんと欲する所の者の好きを見て、説びて自ら之を取り、更に太子の為に他の女を取る。宣公斉の女を得て、子寿・子朔を生み、左公子をして之に傅たらしむ。太子伋の母死す。宣公の正夫人朔と共に太子伋を讒悪す。宣公自ら其の太子の妻を奪ひしを以て、心に太子を悪み、之を廃せんと欲す。其の悪を聞くに及びて、大いに怒り、乃ち太子伋を斉に使ひせしめて、盗をして界上に遮りて之を殺さしめんとす。太子に白旄を与へ、而して界の盗に告ぐらく、白旄を持つ者を見ば之を殺せと。且に行かんとす。子朔の兄寿は、太子の異母弟なり。朔の太子を悪みて君の殺さんと欲するを知り、乃ち太子に謂ひて曰く、「界の盗太子の白旄を見ば、即ち太子を殺さん。太子行くこと毋かるべし」と。太子曰く、「父の命に逆らひて生を求むるは、不可なり」と。遂に行く。寿太子の止まらざるを見て、乃ち其の白旄を盗みて先に馳せて界に至る。界の盗其の験を見て、即ち之を殺す。寿已に死して、太子伋又至り、盗に謂ひて曰く、「当に殺すべき所は乃ち我なり」と。
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史記 衛康叔世家成王長じて、事を用ひ、康叔を挙げて周の司寇と為し、衛に宝祭器を賜ひ、以て有徳を章(あら)はす。康叔卒し、子の康伯代はり立つ。康伯卒し、子の考伯立つ。考伯卒し、子の嗣伯立つ。嗣伯卒し、子の偼伯立つ。偼伯卒し、子の靖伯立つ。靖伯卒し、子の貞伯立つ。貞伯卒し、子の頃侯立つ。頃侯厚く周の夷王に賂ひ、夷王衛に命じて侯と為す。頃侯立ちて十二年にして卒し、子の釐侯立つ。釐侯の十三年、周の厲王出でて彘に奔り、共和政を行ふ。二十八年、周の宣王立つ。四十二年、釐侯卒し、太子共伯余立ちて君と為る。共伯の弟和、釐侯に寵有り、多く之に賂を予ふ。和其の賂を以て士に賂ひ、以て共伯を墓上に襲攻す。共伯釐侯の羨に入りて自殺す。衛人因りて之を釐侯の旁に葬り、諡して共伯と曰ひ、而して和を立てて衛侯と為す。是を武公と為す。武公即位し、康叔の政を修め、百姓和集す。四十二年、犬戎周の幽王を殺す。武公兵を将ゐて往きて周を佐けて戎を平らげ、甚だ功有り。周の平王武公に命じて公と為す。五十五年、卒し、子の荘公揚立つ。荘公の五年、斉の女を取りて夫人と為す。好くして子無し。又陳の女を取りて夫人と為し、子を生むも、蚤く死す。陳の女の女弟も亦た荘公に幸せられて、子完を生む。完の母死し、荘公夫人の斉の女をして之を子とせしめ、立てて太子と為す。荘公に寵妾有り、子州吁を生む。十八年、州吁長じて、兵を好む。荘公将たらしむ。石碏荘公を諫めて曰く、「庶子兵を好み、将たらしむれば、乱此より起こらん」と。聴かず。二十三年、荘公卒し、太子完立つ。是を桓公と為す。桓公の二年、弟州吁驕奢なり。桓公之を絀(しりぞ)け、州吁出奔す。十三年、鄭伯の弟段其の兄を攻め、勝たずして亡ぐ。而して州吁之と友たらんことを求む。
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史記 衛康叔世家二子之に従ふ。公射服を釈かずして之と言ふ。二子怒り、宿に如く。孫文子の子数々公に侍りて飲む。師曹をして巧言の卒章を歌はしむ。師曹又公の嘗て笞うつこと三百なりしを怒り、乃ち之を歌ひ、以て孫文子を怒らしめ、衛の献公に報いんと欲す。文子蘧伯玉に語る。伯玉曰く、「臣知らざるなり」と。遂に攻めて献公を出す。献公斉に奔る。斉衛の献公を聚邑に置く。孫文子・甯恵子共に定公の弟秋を立てて衛君と為す。是を殤公と為す。殤公秋立ち、孫文子林父を宿に封ず。十二年、甯喜孫林父と寵を争ひて相悪む。殤公甯喜をして孫林父を攻めしむ。林父晋に奔り、復た故の衛の献公を入れんことを求む。献公斉に在り、斉の景公之を聞き、衛の献公と晋に如きて入らんことを求む。晋為に衛を伐ち、誘ひて与に盟ふ。衛の殤公晋の平公に会す。平公殤公と甯喜とを執へて復た衛の献公を入る。献公亡げて外に在ること十二年にして入る。献公の後の元年、甯喜を誅す。三年、呉の延陵季子使ひして衛を過ぎ、蘧伯玉・史(史鰌)を見て曰く、「衛は君子多し。其の国故無からん」と。宿を過ぐ。孫林父為に磬を撃つ。曰く、「楽しからず。音大いに悲し。衛をして乱れしむるは乃ち此なり」と。是の年、献公卒し、子の襄公悪立つ。襄公の六年、楚の霊王諸侯を会す。襄公病と称して往かず。九年、襄公卒す。初め、襄公に賤妾有り、之を幸し、身有り。夢に人有りて謂ひて曰く、「我は康叔なり。若が子をして必ず衛を有たしめん。而の子に名づけて元と曰へ」と。妾之を怪しみ、孔成子に問ふ。成子曰く、「康叔は衛の祖なり」と。子を生むに及びて、男なり。以て襄公に告ぐ。襄公曰く、「天の置く所なり」と。之に名づけて元と曰ふ。襄公の夫人子無し。是に於て乃ち元を立てて嗣と為す。是を霊公と為す。四十二年春、霊公郊に游び、子郢をして仆たらしむ。郢は霊公の少子なり。字は子南。
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史記 衛康叔世家子路曰く、「焉を食みて其の難を辟けず」と。子羔遂に出づ。子路入り、門に及ぶ。公孫敢門を闔ぢて曰く、「入りて為すこと毋かれ」と。子路曰く、「是れ公孫か。利を求めて其の難を逃る。由は然らず。其の禄を利とせば、必ず其の患を救はん」と。使者の出づる有り、子路乃ち入るを得たり。曰く、「太子焉んぞ孔悝を用ゐん。之を殺すと雖も、必ず或いは之を継がん」と。且つ曰く、「太子勇無し。若し台を燔かば、必ず孔叔を舎(ゆる)さん」と。太子之を聞きて懼れ、石乞・盂黶を下して子路に敵せしむ。戈を以て之を撃ち、纓を割く。子路曰く、「君子は死すとも、冠は免がず」と。纓を結びて死す。孔子衛の乱を聞きて曰く、「嗟乎、柴や其れ来たらんか。由や其れ死せん」と。孔悝竟に太子蒯聵を立つ。是を荘公と為す。荘公蒯聵は、出公の父なり。外に居り、大夫の迎へ立つる莫きを怨む。元年即位し、尽く大臣を誅せんと欲して曰く、「寡人外に居ること久し。子も亦た嘗て之を聞けるか」と。群臣乱を作さんと欲す。乃ち止む。二年、魯の孔丘卒す。三年、荘公城に上り、戎州を見る。曰く、「戎虜何為れぞ是ある」と。戎州之を病む。十月、戎州趙簡子に告げ、簡子衛を囲む。十一月、荘公出奔す。衛人公子斑師を立てて衛君と為す。斉衛を伐ち、斑師を虜にし、更に公子起を立てて衛君と為す。衛君起の元年、衛の石曼尃其の君起を逐ひ、起斉に奔る。衛の出公輒斉より復た帰りて立つ。初め、出公立ちて十二年にして亡げ、亡げて外に在ること四年にして復た入る。出公の後の元年、従亡の者を賞す。立ちて二十一年にして卒す。出公の季父黔出公の子を攻めて自立す。是を悼公と為す。悼公五年にして卒し、子の敬公弗立つ。敬公十九年にして卒し、子の昭公糾立つ。是の時三晋彊く、衛は小侯の如く、之に属す。昭公の六年、公子亹之を弑して代はり立つ。是を懐公と為す。懐公の十一年、公子穨懐公を弑して代はり立つ。是を慎公と為す。
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史記 衛康叔世家霊公太子の出奔せしを怨み、郢に謂ひて曰く、「我将に若を立てて後と為さんとす」と。郢対へて曰く、「郢以て社稷を辱むるに足らず。君更に之を図れ」と。夏、霊公卒す。夫人子郢に命じて太子と為して曰く、「此れ霊公の命なり」と。郢曰く、「亡人太子蒯聵の子輒在り。敢て当たらず」と。是に於て衛乃ち輒を以て君と為す。是を出公と為す。六月乙酉、趙簡子蒯聵を入れんと欲し、乃ち陽虎をして衛の十余人に詐命して衰絰して帰らしめ、簡子蒯聵を送る。衛人之を聞き、兵を発して蒯聵を撃つ。蒯聵入るを得ず、宿に入りて保つ。衛人も亦た兵を罷む。出公輒の四年、斉の田乞其の君孺子を弑す。八年、斉の鮑子其の君悼公を弑す。孔子陳より衛に入る。九年、孔文子兵を仲尼に問ふ。仲尼対へず。其の後魯仲尼を迎へ、仲尼魯に反る。十二年、初め、孔圉文子太子蒯聵の姊を取り、悝を生む。孔氏の豎渾良夫美好なり。孔文子卒し、良夫悝の母に通ず。太子宿に在り。悝の母良夫をして太子に使ひせしむ。太子良夫と言ひて曰く、「苟くも能く我を国に入れば、子に報ゆるに乗軒を以てし、子の三死を免じ、与る所毋からしめん」と。之と盟ひ、悝の母を以て妻と為すことを許す。閏月、良夫太子と入り、孔氏の外圃に舎る。昏に、二人衣を蒙りて乗り、宦者の羅御して、孔氏に如く。孔氏の老欒甯之を問ふ。姻妾と称して以て告ぐ。遂に入りて、伯姫氏に適く。既に食し、悝の母戈を杖つきて先んじ、太子五人と介し、猳を輿(か)きて之に従ふ。伯姫悝を廁に劫かし、彊ひて之と盟ひ、遂に劫かして以て台に登る。欒甯将に酒を飲まんとす。炙未だ熟せず、乱を聞き、仲由に告げしむ。護駕に乗車を召し、爵を行ひ炙を食らひ、出公輒を奉じて魯に奔る。仲由将に入らんとし、子羔の将に出でんとするに遇ふ。曰く、「門已に閉ぢたり」と。子路曰く、「吾姑く至らん」と。子羔曰く、「及ばず。其の難を践むこと莫かれ」と。
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