史記 / 衛康叔世家
十六年,州吁收聚衞亡人以襲殺桓公,州吁自立爲衞君。爲鄭伯弟段欲伐鄭,請宋、陳、蔡與倶,三國皆許州吁。州吁新立,好兵,弒桓公,衞人皆不愛。石碏乃因桓公母家於陳,詳爲善州吁。至鄭郊,石碏與陳侯共謀,使右宰丑進食,因殺州吁于濮,而迎桓公弟晉於邢而立之,是爲宣公。宣公七年,魯弒其君隱公。九年,宋督弒其君殤公,及孔父。十年,晉曲沃莊伯弒其君哀侯。十八年,初,宣公愛夫人夷姜,夷姜生子伋,以爲太子,而令右公子傅之。右公子爲太子取齊女,未入室,而宣公見所欲爲太子婦者好,説而自取之,更爲太子取他女。宣公得齊女,生子壽、子朔,令左公子傅之。太子伋母死,宣公正夫人與朔共讒惡太子伋。宣公自以其奪太子妻也,心惡太子,欲廢之。及聞其惡,大怒,乃使太子伋於齊而令盜遮界上殺之,與太子白旄,而告界盜見持白旄者殺之。且行,子朔之兄壽,太子異母弟也,知朔之惡太子而君欲殺之,乃謂太子曰:「界盜見太子白旄,卽殺太子,太子可毋行。」太子曰:「逆父命求生,不可。」遂行。壽見太子不止,乃盜其白旄而先馳至界。界盜見其驗,卽殺之。壽已死,而太子伋又至,謂盜曰:「所當殺乃我也。」
新字:十六年,州吁収聚衛亡人以襲殺桓公,州吁自立為衛君。為鄭伯弟段欲伐鄭,請宋、陳、蔡与倶,三国皆許州吁。州吁新立,好兵,弒桓公,衛人皆不愛。石碏乃因桓公母家於陳,詳為善州吁。至鄭郊,石碏与陳侯共謀,使右宰丑進食,因殺州吁于濮,而迎桓公弟晋於邢而立之,是為宣公。宣公七年,魯弒其君隠公。九年,宋督弒其君殤公,及孔父。十年,晋曲沃荘伯弒其君哀侯。十八年,初,宣公愛夫人夷姜,夷姜生子伋,以為太子,而令右公子傅之。右公子為太子取斉女,未入室,而宣公見所欲為太子婦者好,説而自取之,更為太子取他女。宣公得斉女,生子寿、子朔,令左公子傅之。太子伋母死,宣公正夫人与朔共讒悪太子伋。宣公自以其奪太子妻也,心悪太子,欲廃之。及聞其悪,大怒,乃使太子伋於斉而令盗遮界上殺之,与太子白旄,而告界盗見持白旄者殺之。且行,子朔之兄寿,太子異母弟也,知朔之悪太子而君欲殺之,乃謂太子曰:「界盗見太子白旄,即殺太子,太子可毋行。」太子曰:「逆父命求生,不可。」遂行。寿見太子不止,乃盗其白旄而先馳至界。界盗見其験,即殺之。寿已死,而太子伋又至,謂盗曰:「所当殺乃我也。」
書き下し
十六年、州吁衛の亡人を収聚して以て桓公を襲殺し、州吁自立して衛君と為る。鄭伯の弟段の為に鄭を伐たんと欲し、宋・陳・蔡に与に倶にせんことを請ふ。三国皆州吁に許す。州吁新たに立ち、兵を好み、桓公を弑す。衛人皆愛せず。石碏乃ち桓公の母家の陳に因りて、詳(いつは)りて州吁に善くすと為す。鄭の郊に至り、石碏陳侯と共に謀り、右宰丑をして食を進めしめ、因りて州吁を濮に殺し、而して桓公の弟晋を邢に迎へて之を立つ。是を宣公と為す。宣公の七年、魯其の君隠公を弑す。九年、宋の督其の君殤公及び孔父を弑す。十年、晋の曲沃の荘伯其の君哀侯を弑す。十八年、初め、宣公夫人夷姜を愛す。夷姜子伋を生み、以て太子と為し、右公子をして之に傅たらしむ。右公子太子の為に斉の女を取る。未だ室に入らざるに、宣公太子の婦と為さんと欲する所の者の好きを見て、説びて自ら之を取り、更に太子の為に他の女を取る。宣公斉の女を得て、子寿・子朔を生み、左公子をして之に傅たらしむ。太子伋の母死す。宣公の正夫人朔と共に太子伋を讒悪す。宣公自ら其の太子の妻を奪ひしを以て、心に太子を悪み、之を廃せんと欲す。其の悪を聞くに及びて、大いに怒り、乃ち太子伋を斉に使ひせしめて、盗をして界上に遮りて之を殺さしめんとす。太子に白旄を与へ、而して界の盗に告ぐらく、白旄を持つ者を見ば之を殺せと。且に行かんとす。子朔の兄寿は、太子の異母弟なり。朔の太子を悪みて君の殺さんと欲するを知り、乃ち太子に謂ひて曰く、「界の盗太子の白旄を見ば、即ち太子を殺さん。太子行くこと毋かるべし」と。太子曰く、「父の命に逆らひて生を求むるは、不可なり」と。遂に行く。寿太子の止まらざるを見て、乃ち其の白旄を盗みて先に馳せて界に至る。界の盗其の験を見て、即ち之を殺す。寿已に死して、太子伋又至り、盗に謂ひて曰く、「当に殺すべき所は乃ち我なり」と。
現代語訳
十六年、州吁は衛から亡命してきた者たちを集めて桓公を襲って殺し、自ら衛君となった。州吁は鄭伯の弟の段のために鄭を攻めようとして、宋・陳・蔡にともに出兵するよう求め、三国はみな州吁に同意した。州吁は即位したばかりで、戦を好み、しかも桓公を殺していたので、衛の人々はみな州吁を慕わなかった。石碏はそこで、桓公の母の実家である陳を頼りにしつつ、表向きは州吁と親しくするふりをした。鄭の郊外に至ると、石碏は陳侯と共謀し、右宰の丑に食事を出させ、その隙に州吁を濮で殺した。そして桓公の弟の晋を邢から迎えて君主に立てた。これが宣公である。宣公の七年、魯でその君の隠公が殺された。九年、宋の華督がその君の殤公と孔父を殺した。十年、晋の曲沃の荘伯がその君の哀侯を殺した。十八年のこと。これより前、宣公は夫人の夷姜を愛した。夷姜は子の伋を産み、宣公は伋を太子として右公子を守り役にした。右公子は太子のために斉から妻を迎えたが、まだ婚礼を挙げないうちに、宣公は太子の妻になるはずの女性が美しいのを見て気に入り、自分の妻にしてしまい、太子には別の女性を迎えた。宣公は斉の女との間に子の寿と朔をもうけ、左公子を守り役にした。太子伋の母が亡くなった。宣公の正夫人(斉の女)は朔とともに太子伋を悪しざまに言った。宣公は自分が太子の妻を奪ったことから、心の中で太子を嫌っており、廃嫡したいと思っていた。太子の悪口を聞くと大いに怒り、太子伋を斉への使者に立て、国境で盗賊に待ち伏せさせて殺そうとした。太子には白い旄(はた飾り)を持たせ、国境の盗賊には「白い旄を持つ者を見たら殺せ」と命じておいた。太子が出発しようとしたとき、朔の兄の寿、つまり太子の異母弟が、朔が太子を憎み君主が太子を殺そうとしていることを知って、太子に言った。「国境の盗賊は太子の白い旄を見たら、すぐに太子を殺すだろう。行かないほうがいい」。太子は言った。「父の命令に背いて生き延びようとするのは、してはならないことだ」。そして出発した。寿は太子が思いとどまらないのを見ると、その白い旄を盗み、先に馬を走らせて国境に着いた。国境の盗賊はその目印を見て、すぐに寿を殺した。寿が殺されたあと、太子伋がやって来て盗賊に言った。「殺すべきなのは私だ」。
解説
関連する章句
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史記 衛康叔世家盗并せて太子伋を殺し、以て宣公に報ず。宣公乃ち子朔を以て太子と為す。十九年、宣公卒し、太子朔立つ。是を恵公と為す。左右公子朔の立つを平らかならずとす。恵公の四年、左右公子恵公の前太子伋を讒殺して代はり立つを怨み、乃ち乱を作し、恵公を攻め、太子伋の弟黔牟を立てて君と為す。恵公斉に奔る。衛君黔牟立ちて八年、斉の襄公諸侯を率ゐて王命を奉じて共に衛を伐ち、衛の恵公を納れ、左右公子を誅す。衛君黔牟周に奔り、恵公復た立つ。恵公立ちて三年にして出亡し、亡ぐること八年にして復た入る。前と年を通じて凡そ十三年なり。二十五年、恵公周の黔牟を容舎せしを怨み、燕と周を伐つ。周の恵王温に奔り、衛・燕恵王の弟穨を立てて王と為す。二十九年、鄭復た恵王を納る。三十一年、恵公卒し、子の懿公赤立つ。懿公即位し、鶴を好み、淫楽奢侈なり。九年、翟衛を伐つ。衛の懿公兵を発せんと欲するも、兵或いは畔く。大臣言ひて曰く、「君鶴を好む。鶴をして翟を撃たしむべし」と。翟是に於て遂に入り、懿公を殺す。懿公の立つや、百姓大臣皆服せず。懿公の父恵公朔の太子伋を讒殺して代はり立ちしより懿公に至るまで、常に之を敗らんと欲す。卒に恵公の後を滅ぼして、更に黔牟の弟昭伯頑の子申を立てて君と為す。是を戴公と為す。戴公申元年にして卒す。斉の桓公衛の数々乱るるを以て、乃ち諸侯を率ゐて翟を伐ち、衛の為に楚丘に築き、戴公の弟燬を立てて衛君と為す。是を文公と為す。文公乱を以ての故に斉に奔る。斉人之を入る。初め、翟の懿公を殺すや、衛人之を憐れみ、宣公の前に死せし太子伋の後を復立せんと思ふ。伋の子又死し、而して伋に代はりて死せし者子寿も又子無し。
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史記 衛康叔世家成王長じて、事を用ひ、康叔を挙げて周の司寇と為し、衛に宝祭器を賜ひ、以て有徳を章(あら)はす。康叔卒し、子の康伯代はり立つ。康伯卒し、子の考伯立つ。考伯卒し、子の嗣伯立つ。嗣伯卒し、子の偼伯立つ。偼伯卒し、子の靖伯立つ。靖伯卒し、子の貞伯立つ。貞伯卒し、子の頃侯立つ。頃侯厚く周の夷王に賂ひ、夷王衛に命じて侯と為す。頃侯立ちて十二年にして卒し、子の釐侯立つ。釐侯の十三年、周の厲王出でて彘に奔り、共和政を行ふ。二十八年、周の宣王立つ。四十二年、釐侯卒し、太子共伯余立ちて君と為る。共伯の弟和、釐侯に寵有り、多く之に賂を予ふ。和其の賂を以て士に賂ひ、以て共伯を墓上に襲攻す。共伯釐侯の羨に入りて自殺す。衛人因りて之を釐侯の旁に葬り、諡して共伯と曰ひ、而して和を立てて衛侯と為す。是を武公と為す。武公即位し、康叔の政を修め、百姓和集す。四十二年、犬戎周の幽王を殺す。武公兵を将ゐて往きて周を佐けて戎を平らげ、甚だ功有り。周の平王武公に命じて公と為す。五十五年、卒し、子の荘公揚立つ。荘公の五年、斉の女を取りて夫人と為す。好くして子無し。又陳の女を取りて夫人と為し、子を生むも、蚤く死す。陳の女の女弟も亦た荘公に幸せられて、子完を生む。完の母死し、荘公夫人の斉の女をして之を子とせしめ、立てて太子と為す。荘公に寵妾有り、子州吁を生む。十八年、州吁長じて、兵を好む。荘公将たらしむ。石碏荘公を諫めて曰く、「庶子兵を好み、将たらしむれば、乱此より起こらん」と。聴かず。二十三年、荘公卒し、太子完立つ。是を桓公と為す。桓公の二年、弟州吁驕奢なり。桓公之を絀(しりぞ)け、州吁出奔す。十三年、鄭伯の弟段其の兄を攻め、勝たずして亡ぐ。而して州吁之と友たらんことを求む。
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史記 衛康叔世家太子伋の同母弟二人あり。其の一を黔牟と曰ふ。黔牟嘗て恵公に代はりて君と為り、八年にして復た去る。其の二を昭伯と曰ふ。昭伯・黔牟皆已に前に死す。故に昭伯の子申を立てて戴公と為す。戴公卒し、復た其の弟燬を立てて文公と為す。文公初めて立ち、賦を軽くし罪を平らかにし、身自ら労し、百姓と苦を同じくし、以て衛の民を収む。十六年、晋の公子重耳過ぐ。礼無し。十七年、斉の桓公卒す。二十五年、文公卒し、子の成公鄭立つ。成公の三年、晋道を衛に仮りて宋を救はんと欲す。成公許さず。晋更に南河より度りて宋を救ふ。師を衛に徴す。衛の大夫許さんと欲するも、成公肯ぜず。大夫元咺成公を攻め、成公出奔す。晋の文公重耳衛を伐ち、其の地を分かちて宋に予ふ。前の過ぎりしときの無礼及び宋の患ひを救はざりしことを討つなり。衛の成公遂に出でて陳に奔る。二歳、周に如きて入らんことを求め、晋の文公と会す。晋人をして衛の成公に鴆せしむ。成公周の主鴆に私し、薄からしめ、死せざるを得たり。已にして周為に晋の文公に請ひ、卒に之を衛に入れ、而して元咺を誅す。衛君瑕出奔す。七年、晋の文公卒す。十二年、成公晋の襄公に朝す。十四年、秦の穆公卒す。二十六年、斉の邴歜其の君懿公を弑す。三十五年、成公卒し、子の穆公遫立つ。穆公の二年、楚の荘王陳を伐ち、夏徴舒を殺す。三年、楚の荘王鄭を囲む。鄭降り、復た之を釈す。十一年、孫良夫魯を救ひて斉を伐ち、復た侵地を得たり。穆公卒し、子の定公臧立つ。定公十二年にして卒し、子の献公衎立つ。献公の十三年、公師曹をして宮妾に琴を鼓くことを教へしむ。妾善くせず、曹之を笞うつ。妾幸を以て曹を公に悪しざまにす。公も亦た曹を笞うつこと三百。十八年、献公孫文子・甯恵子を戒めて食せしむ。皆往く。日旰(く)るるも召さず、而して去りて鴻を囿に射る。
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『新序』節士第七衞の宣公の子は伋なり、壽なり、朔なり。伋は前母の子なり。壽と朔とは後母の子なり。壽の母朔と謀り、太子伋を殺して壽を立てんと欲するなり。人をして伋と舟に河中に乘らしめ、將に沈めて之を殺さんとす。壽止むる能わざるを知るなり。因りて之と舟を同じくす。舟人伋を殺すを得ず。方に舟に乘る時、伋の傅母其の死せんことを恐るるなり。閔れみて詩を作る。二子乘舟の詩是れなり。其の詩に曰く、二子舟に乘り、汎汎たり其の景、願わくは言に子を思う、中心養養たり、と。是に於いて壽其の兄の且に害せられんとするを閔れみ、憂思の詩を作る。黍離の詩是れなり。其の詩に曰く、行き邁くこと靡靡たり、中心搖搖たり、我を知る者は我が心憂うと謂い、我を知らざる者は、我何をか求むと謂う。悠悠たる蒼天、此れ何人ぞや、と。又た伋をして齊に之かしむ。將に使いせしめんとするや、盜をして旌を載するを見て、要して之を殺さしむ。壽伋を止む。伋曰く、父の命を棄つるは子の道に非ざるなり。不可なり、と。壽又た之と偕に行く。壽の母止むる能わざるを知るなり。因りて之を戒めて曰く、壽前を爲す無かれ、と。壽又た前を爲し、竊かに伋の旌もて以て先行す。幾ど齊に及ばんとす。盜見て之を殺す。伋至り、壽の死せるを見る。其の己に代わりて死せるを痛み、涕泣悲哀し、遂に其の屍を載せて還る。境に至りて自殺す。兄弟俱に死す。故に君子此の二人を義とし、宣公の讒を聽けるを傷むなり。
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史記 衛康叔世家二子之に従ふ。公射服を釈かずして之と言ふ。二子怒り、宿に如く。孫文子の子数々公に侍りて飲む。師曹をして巧言の卒章を歌はしむ。師曹又公の嘗て笞うつこと三百なりしを怒り、乃ち之を歌ひ、以て孫文子を怒らしめ、衛の献公に報いんと欲す。文子蘧伯玉に語る。伯玉曰く、「臣知らざるなり」と。遂に攻めて献公を出す。献公斉に奔る。斉衛の献公を聚邑に置く。孫文子・甯恵子共に定公の弟秋を立てて衛君と為す。是を殤公と為す。殤公秋立ち、孫文子林父を宿に封ず。十二年、甯喜孫林父と寵を争ひて相悪む。殤公甯喜をして孫林父を攻めしむ。林父晋に奔り、復た故の衛の献公を入れんことを求む。献公斉に在り、斉の景公之を聞き、衛の献公と晋に如きて入らんことを求む。晋為に衛を伐ち、誘ひて与に盟ふ。衛の殤公晋の平公に会す。平公殤公と甯喜とを執へて復た衛の献公を入る。献公亡げて外に在ること十二年にして入る。献公の後の元年、甯喜を誅す。三年、呉の延陵季子使ひして衛を過ぎ、蘧伯玉・史(史鰌)を見て曰く、「衛は君子多し。其の国故無からん」と。宿を過ぐ。孫林父為に磬を撃つ。曰く、「楽しからず。音大いに悲し。衛をして乱れしむるは乃ち此なり」と。是の年、献公卒し、子の襄公悪立つ。襄公の六年、楚の霊王諸侯を会す。襄公病と称して往かず。九年、襄公卒す。初め、襄公に賤妾有り、之を幸し、身有り。夢に人有りて謂ひて曰く、「我は康叔なり。若が子をして必ず衛を有たしめん。而の子に名づけて元と曰へ」と。妾之を怪しみ、孔成子に問ふ。成子曰く、「康叔は衛の祖なり」と。子を生むに及びて、男なり。以て襄公に告ぐ。襄公曰く、「天の置く所なり」と。之に名づけて元と曰ふ。襄公の夫人子無し。是に於て乃ち元を立てて嗣と為す。是を霊公と為す。四十二年春、霊公郊に游び、子郢をして仆たらしむ。郢は霊公の少子なり。字は子南。
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史記 衛康叔世家子路曰く、「焉を食みて其の難を辟けず」と。子羔遂に出づ。子路入り、門に及ぶ。公孫敢門を闔ぢて曰く、「入りて為すこと毋かれ」と。子路曰く、「是れ公孫か。利を求めて其の難を逃る。由は然らず。其の禄を利とせば、必ず其の患を救はん」と。使者の出づる有り、子路乃ち入るを得たり。曰く、「太子焉んぞ孔悝を用ゐん。之を殺すと雖も、必ず或いは之を継がん」と。且つ曰く、「太子勇無し。若し台を燔かば、必ず孔叔を舎(ゆる)さん」と。太子之を聞きて懼れ、石乞・盂黶を下して子路に敵せしむ。戈を以て之を撃ち、纓を割く。子路曰く、「君子は死すとも、冠は免がず」と。纓を結びて死す。孔子衛の乱を聞きて曰く、「嗟乎、柴や其れ来たらんか。由や其れ死せん」と。孔悝竟に太子蒯聵を立つ。是を荘公と為す。荘公蒯聵は、出公の父なり。外に居り、大夫の迎へ立つる莫きを怨む。元年即位し、尽く大臣を誅せんと欲して曰く、「寡人外に居ること久し。子も亦た嘗て之を聞けるか」と。群臣乱を作さんと欲す。乃ち止む。二年、魯の孔丘卒す。三年、荘公城に上り、戎州を見る。曰く、「戎虜何為れぞ是ある」と。戎州之を病む。十月、戎州趙簡子に告げ、簡子衛を囲む。十一月、荘公出奔す。衛人公子斑師を立てて衛君と為す。斉衛を伐ち、斑師を虜にし、更に公子起を立てて衛君と為す。衛君起の元年、衛の石曼尃其の君起を逐ひ、起斉に奔る。衛の出公輒斉より復た帰りて立つ。初め、出公立ちて十二年にして亡げ、亡げて外に在ること四年にして復た入る。出公の後の元年、従亡の者を賞す。立ちて二十一年にして卒す。出公の季父黔出公の子を攻めて自立す。是を悼公と為す。悼公五年にして卒し、子の敬公弗立つ。敬公十九年にして卒し、子の昭公糾立つ。是の時三晋彊く、衛は小侯の如く、之に属す。昭公の六年、公子亹之を弑して代はり立つ。是を懐公と為す。懐公の十一年、公子穨懐公を弑して代はり立つ。是を慎公と為す。
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