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史記 / 衛康叔世家

成王長,用事,舉康叔爲周司寇,賜衞寶祭器,以章有德。康叔卒,子康伯代立。康伯卒,子考伯立。考伯卒,子嗣伯立。嗣伯卒,子偼伯立。偼伯卒,子靖伯立。靖伯卒,子貞伯立。貞伯卒,子頃侯立。頃侯厚賂周夷王,夷王命衞爲侯。頃侯立十二年卒,子釐侯立。釐侯十三年,周厲王出奔于彘,共和行政焉。二十八年,周宣王立。四十二年,釐侯卒,太子共伯餘立爲君。共伯弟和有寵於釐侯,多予之賂;和以其賂賂士,以襲攻共伯於墓上,共伯入釐侯羨自殺。衞人因葬之釐侯旁,諡曰共伯,而立和爲衞侯,是爲武公。武公卽位,修康叔之政,百姓和集。四十二年,犬戎殺周幽王,武公將兵往佐周平戎,甚有功,周平王命武公爲公。五十五年,卒,子莊公揚立。莊公五年,取齊女爲夫人,好而無子。又取陳女爲夫人,生子,蚤死。陳女女弟亦幸於莊公,而生子完。完母死,莊公令夫人齊女子之,立爲太子。莊公有寵妾,生子州吁。十八年,州吁長,好兵,莊公使將。石碏諫莊公曰:「庶子好兵,使將,亂自此起。」不聽。二十三年,莊公卒,太子完立,是爲桓公。桓公二年,弟州吁驕奢,桓公絀之,州吁出奔。十三年,鄭伯弟段攻其兄,不勝,亡,而州吁求與之友。

新字:成王長,用事,舉康叔為周司寇,賜衛宝祭器,以章有徳。康叔卒,子康伯代立。康伯卒,子考伯立。考伯卒,子嗣伯立。嗣伯卒,子偼伯立。偼伯卒,子靖伯立。靖伯卒,子貞伯立。貞伯卒,子頃侯立。頃侯厚賂周夷王,夷王命衛為侯。頃侯立十二年卒,子釐侯立。釐侯十三年,周厲王出奔于彘,共和行政焉。二十八年,周宣王立。四十二年,釐侯卒,太子共伯余立為君。共伯弟和有寵於釐侯,多予之賂;和以其賂賂士,以襲攻共伯於墓上,共伯入釐侯羨自殺。衛人因葬之釐侯旁,諡曰共伯,而立和為衛侯,是為武公。武公即位,修康叔之政,百姓和集。四十二年,犬戎殺周幽王,武公将兵往佐周平戎,甚有功,周平王命武公為公。五十五年,卒,子荘公揚立。荘公五年,取斉女為夫人,好而無子。又取陳女為夫人,生子,蚤死。陳女女弟亦幸於荘公,而生子完。完母死,荘公令夫人斉女子之,立為太子。荘公有寵妾,生子州吁。十八年,州吁長,好兵,荘公使将。石碏諫荘公曰:「庶子好兵,使将,乱自此起。」不聴。二十三年,荘公卒,太子完立,是為桓公。桓公二年,弟州吁驕奢,桓公絀之,州吁出奔。十三年,鄭伯弟段攻其兄,不勝,亡,而州吁求与之友。

書き下し

成王長じて、事を用ひ、康叔を挙げて周の司寇と為し、衛に宝祭器を賜ひ、以て有徳を章(あら)はす。康叔卒し、子の康伯代はり立つ。康伯卒し、子の考伯立つ。考伯卒し、子の嗣伯立つ。嗣伯卒し、子の偼伯立つ。偼伯卒し、子の靖伯立つ。靖伯卒し、子の貞伯立つ。貞伯卒し、子の頃侯立つ。頃侯厚く周の夷王に賂ひ、夷王衛に命じて侯と為す。頃侯立ちて十二年にして卒し、子の釐侯立つ。釐侯の十三年、周の厲王出でて彘に奔り、共和政を行ふ。二十八年、周の宣王立つ。四十二年、釐侯卒し、太子共伯余立ちて君と為る。共伯の弟和、釐侯に寵有り、多く之に賂を予ふ。和其の賂を以て士に賂ひ、以て共伯を墓上に襲攻す。共伯釐侯の羨に入りて自殺す。衛人因りて之を釐侯の旁に葬り、諡して共伯と曰ひ、而して和を立てて衛侯と為す。是を武公と為す。武公即位し、康叔の政を修め、百姓和集す。四十二年、犬戎周の幽王を殺す。武公兵を将ゐて往きて周を佐けて戎を平らげ、甚だ功有り。周の平王武公に命じて公と為す。五十五年、卒し、子の荘公揚立つ。荘公の五年、斉の女を取りて夫人と為す。好くして子無し。又陳の女を取りて夫人と為し、子を生むも、蚤く死す。陳の女の女弟も亦た荘公に幸せられて、子完を生む。完の母死し、荘公夫人の斉の女をして之を子とせしめ、立てて太子と為す。荘公に寵妾有り、子州吁を生む。十八年、州吁長じて、兵を好む。荘公将たらしむ。石碏荘公を諫めて曰く、「庶子兵を好み、将たらしむれば、乱此より起こらん」と。聴かず。二十三年、荘公卒し、太子完立つ。是を桓公と為す。桓公の二年、弟州吁驕奢なり。桓公之を絀(しりぞ)け、州吁出奔す。十三年、鄭伯の弟段其の兄を攻め、勝たずして亡ぐ。而して州吁之と友たらんことを求む。

現代語訳

成王は成長して自ら政治を執るようになると、康叔を周の司寇(司法の長官)に取り立て、衛に宝物や祭器を下賜して、その徳を顕彰した。康叔が亡くなり、子の康伯が代わって立った。康伯が亡くなり、子の考伯が立った。考伯が亡くなり、子の嗣伯が立った。嗣伯が亡くなり、子の偼伯が立った。偼伯が亡くなり、子の靖伯が立った。靖伯が亡くなり、子の貞伯が立った。貞伯が亡くなり、子の頃侯が立った。頃侯は周の夷王に手厚く賄賂を贈り、夷王は衛の君主を侯の位に上げた。頃侯は在位十二年で亡くなり、子の釐侯が立った。釐侯の十三年、周の厲王が国を追われて彘に逃れ、共和の政治が行われた。二十八年、周の宣王が即位した。四十二年、釐侯が亡くなり、太子の共伯余が君主となった。共伯の弟の和は釐侯に寵愛され、多くの財物を与えられていた。和はその財物で士を買収し、父の墓前にいた共伯を襲った。共伯は釐侯の墓の通路に逃げ込んで自殺した。衛の人々は共伯を釐侯の傍らに葬り、共伯と諡(おくりな)し、和を衛侯に立てた。これが武公である。武公は即位すると康叔の政治をあらためて行い、民は和合した。四十二年、犬戎が周の幽王を殺した。武公は兵を率いて周を助け、戎を平定して大きな功績を挙げた。周の平王は武公を公の位に上げた。在位五十五年で亡くなり、子の荘公揚が立った。荘公の五年、斉の女を娶って夫人とした。美しかったが子がなかった。さらに陳の女を夫人とし、子を産んだが早くに死んだ。陳の女の妹もまた荘公に寵愛され、子の完を産んだ。完の母が亡くなると、荘公は斉の女の夫人に完を自分の子として育てさせ、太子に立てた。荘公には寵愛する側室がいて、子の州吁を産んだ。十八年、州吁は成長して戦を好んだ。荘公は州吁を将軍にした。石碏は荘公を諫めて言った。「側室の子が戦を好むのに将軍にすれば、乱はここから起こる」。荘公は聞き入れなかった。二十三年、荘公が亡くなり、太子の完が立った。これが桓公である。桓公の二年、弟の州吁は驕り高ぶって贅沢だったので、桓公は州吁を退け、州吁は国外に逃げた。十三年、鄭伯(鄭の荘公)の弟の段が兄を攻めたが、勝てずに逃亡した。州吁は段と交わりを結ぼうとした。

解説

康叔の後の衛の歩みを描く段です。康叔は成王に司寇として重用されますが、その後の子孫は周の夷王に賄賂を贈って侯の位を得るなど、始祖の徳から離れていきます。釐侯の死後には、父に溺愛された弟の和が財物で士を買収して兄を死に追いやり、武公として即位しました。ただ武公は即位後に康叔の政治を立て直し、周の東遷を助けて公の位を得ており、手段の悪さと治績のよさが同居した人物として描かれています。後半は荘公の時代で、寵愛する側室の子・州吁を将軍にしたことに対し、石碏が「乱はここから起こる」と諫めます。この予言は次の段で現実のものとなります。親の偏愛が兄弟の争いを生み、跡継ぎでない者に過大な権限を与えることが内乱の芽になるという構図が、繰り返し描かれています。後継者以外の身内にどこまで権限を与えるかという問題は、今の同族企業でも避けて通れない課題です。

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