史記 / 陳杞世家
至禹,於周則杞,微甚,不足數也。楚惠王滅杞,其後越王句踐興。
新字:至禹,於周則杞,微甚,不足数也。楚恵王滅杞,其後越王句践興。
書き下し
禹に至りて、周に於ては則ち杞なり、微なること甚だしく、数ふるに足らざるなり。楚の恵王杞を滅ぼし、其の後越王句践興る。
現代語訳
(その徳が)禹に至っては、周の時代には杞の国となったが、あまりに小さく、数えるにも足りなかった。楚の恵王が杞を滅ぼしたのち、禹の子孫とされる越王句践が興った。
解説
陳杞世家の最後の「太史公曰」の締めくくりにあたる一節です。司馬遷はこの前の部分で、舜の徳が陳の子孫を経て斉の田氏にまで及んだことを称えました。それに対して禹の子孫の杞は、周の時代にはごく小さな国で、数えるほどのものではなかったと述べます。しかし、杞が楚に滅ぼされたあと、同じく禹の子孫とされる越の句践が現れ、呉を滅ぼして覇者となりました。大きな徳を持つ者の子孫は、一つの家が衰えても、別の場所で再び盛んになるという考え方がここにあります。小国杞のはかなさと、越の勃興を対にして結ぶことで、祖先の徳の力が長く続くことを示したのです。一つの部署や事業がうまくいかなくても、そこで育った人や考え方が別の場所で花開くことがあります。目先の成否だけで価値を判断しない視点を与えてくれる一文です。
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史記 東越列伝太史公曰く、「越は蛮夷と雖も、其の先豈に嘗て大功徳を民に有せしか、何ぞ其れ久しきや。数代を歴て常に君王為り、句践一たび伯と称す。然れども餘善大逆に至り、国を滅ぼし衆を遷す。其の先の苗裔繇王居股等猶ほ尚ほ封ぜられて萬戸侯と為る。此に由りて越の世世公侯為るを知る。蓋し禹の餘烈なり」と。
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『長短経』運命史記陳世家に曰く「陳は舜の後なり。周の武王之を陳に封ず」と。太史公云う「舜の徳は至れり。夏に禅りて、後世血食する者、三代を歴たり。楚の陳を滅ぼすに及びて、田氏は政を斉に得、卒に建国を為し、百世絶えず」と。又た南越伝に云う「越は蛮夷なりと雖も、其の先豈に嘗て大功徳を人に有せんや。何ぞ其れ久しきや。数代を歴て、嘗て君王たり、勾践一たび伯を称す。蓋し禹の烈なり」と。
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史記 陳杞世家太史公曰く、「舜の徳は至れりと謂ふ可し。位を夏に禅り、而して後世血食する者三代を歴たり。楚陳を滅ぼすに及び、而して田常齊に政を得、卒に建国を為し、百世絶えず、苗裔茲茲として、土有る者乏しからず」と。
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史記 越王句践世家故に軽く之を棄て、惜吝する所に非ず。前日吾の少子を遣らんと欲せし所以は、固より其の能く財を棄つるが為の故なり。而るに長者は能はず、故に卒に以て其の弟を殺す。事の理なり、悲しむに足る者無し。吾日夜固より以て其の喪の来るを望めり」と。故に范蠡三たび徙り、名を天下に成す。苟くも去るのみに非ず、止まる所必ず名を成す。卒に陶に老死す。故に世伝へて陶朱公と曰ふ。太史公曰く、禹の功大なるかな。九川を漸し、九州を定め、今に至るまで諸夏艾安す。苗裔の句践に及び、身を苦しめ思ひを焦がし、終に彊呉を滅ぼし、北のかた兵を中国に観し、以て周室を尊び、号して霸王と称す。句践賢と謂はざるべけんや。蓋し禹の遺烈有り。范蠡三たび遷りて皆栄名有り、名後世に垂る。臣主此の若くんば、顕るること毋からんと欲すとも得んや。
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