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史記 / 陳杞世家

是年,惠公卒,子懷公柳立。懷公元年,吳破楚,在郢,召陳侯。陳侯欲往,大夫曰:「吳新得意;楚王雖亡,與陳有故,不可倍。」懷公乃以疾謝吳。四年,吳復召懷公。懷公恐,如吳。吳怒其前不往,留之,因卒吳。陳乃立懷公之子越,是為湣公。湣公六年,孔子適陳。吳王夫差伐陳,取三邑而去。十三年,吳復來伐陳,陳告急楚,楚昭王來救,軍於城父,吳師去。是年,楚昭王卒於城父。時孔子在陳。十五年,宋滅曹。十六年,吳王夫差伐齊,敗之艾陵,使人召陳侯。陳侯恐,如吳。楚伐陳。二十一年,齊田常弒其君簡公。二十三年,楚之白公勝殺令尹子西、子綦,襲惠王。葉公攻敗白公,白公自殺。二十四年,楚惠王復國,以兵北伐,殺陳湣公,遂滅陳而有之。是歲,孔子卒。杞東樓公者,夏后禹之後苗裔也。殷時或封或絕。周武王克殷紂,求禹之後,得東樓公,封之於杞,以奉夏后氏祀。東樓公生西樓公,西樓公生題公,題公生謀娶公。謀娶公當周厲王時。謀娶公生武公。武公立四十七年卒,子靖公立。靖公二十三年卒,子共公立。共公八年卒,子德公立。德公十八年卒,弟桓公姑容立。桓公十七年卒,子孝公丐立。孝公十七年卒,弟文公益姑立。文公十四年卒,弟平公郁立。

新字:是年,恵公卒,子懐公柳立。懐公元年,呉破楚,在郢,召陳侯。陳侯欲往,大夫曰:「呉新得意;楚王雖亡,与陳有故,不可倍。」懐公乃以疾謝呉。四年,呉復召懐公。懐公恐,如呉。呉怒其前不往,留之,因卒呉。陳乃立懐公之子越,是為湣公。湣公六年,孔子適陳。呉王夫差伐陳,取三邑而去。十三年,呉復来伐陳,陳告急楚,楚昭王来救,軍於城父,呉師去。是年,楚昭王卒於城父。時孔子在陳。十五年,宋滅曹。十六年,呉王夫差伐斉,敗之艾陵,使人召陳侯。陳侯恐,如呉。楚伐陳。二十一年,斉田常弒其君簡公。二十三年,楚之白公勝殺令尹子西、子綦,襲恵王。葉公攻敗白公,白公自殺。二十四年,楚恵王復国,以兵北伐,殺陳湣公,遂滅陳而有之。是歳,孔子卒。杞東楼公者,夏后禹之後苗裔也。殷時或封或絶。周武王克殷紂,求禹之後,得東楼公,封之於杞,以奉夏后氏祀。東楼公生西楼公,西楼公生題公,題公生謀娶公。謀娶公当周厲王時。謀娶公生武公。武公立四十七年卒,子靖公立。靖公二十三年卒,子共公立。共公八年卒,子徳公立。徳公十八年卒,弟桓公姑容立。桓公十七年卒,子孝公丐立。孝公十七年卒,弟文公益姑立。文公十四年卒,弟平公郁立。

書き下し

是の年、恵公卒し、子の懐公柳立つ。懐公の元年、呉楚を破り、郢に在りて、陳侯を召す。陳侯往かんと欲す。大夫曰く、「呉新たに意を得たり。楚王亡ぐと雖も、陳と故有り、倍くべからず」と。懐公乃ち疾を以て呉に謝す。四年、呉復た懐公を召す。懐公恐れて呉に如く。呉其の前に往かざるを怒り、之を留む。因りて呉に卒す。陳乃ち懐公の子越を立つ。是を湣公と為す。湣公の六年、孔子陳に適く。呉王夫差陳を伐ち、三邑を取りて去る。十三年、呉復た来たりて陳を伐つ。陳急を楚に告ぐ。楚の昭王来たり救ひ、城父に軍す。呉の師去る。是の年、楚の昭王城父に卒す。時に孔子陳に在り。十五年、宋曹を滅ぼす。十六年、呉王夫差斉を伐ち、之を艾陵に敗り、人をして陳侯を召さしむ。陳侯恐れて呉に如く。楚陳を伐つ。二十一年、斉の田常其の君簡公を弑す。二十三年、楚の白公勝令尹子西・子綦を殺し、恵王を襲ふ。葉公攻めて白公を敗る。白公自殺す。二十四年、楚の恵王国を復し、兵を以て北のかた伐ち、陳の湣公を殺し、遂に陳を滅ぼして之を有つ。是の歳、孔子卒す。杞の東楼公は、夏后禹の後の苗裔なり。殷の時或いは封ぜられ或いは絶ゆ。周の武王殷の紂に克ち、禹の後を求め、東楼公を得て、之を杞に封じ、以て夏后氏の祀を奉ぜしむ。東楼公西楼公を生み、西楼公題公を生み、題公謀娶公を生む。謀娶公は周の厲王の時に当たる。謀娶公武公を生む。武公立ちて四十七年にして卒し、子の靖公立つ。靖公二十三年にして卒し、子の共公立つ。共公八年にして卒し、子の徳公立つ。徳公十八年にして卒し、弟の桓公姑容立つ。桓公十七年にして卒し、子の孝公丐立つ。孝公十七年にして卒し、弟の文公益姑立つ。文公十四年にして卒し、弟の平公郁立つ。

現代語訳

この年、恵公が亡くなり、子の懐公柳が立った。懐公の元年、呉は楚を破って郢にとどまっており、陳侯を呼び寄せた。陳侯は行こうとしたが、大夫が言った。「呉はいま勝って意気盛んだが、楚王は逃げたとはいえ陳とは古いよしみがある。背いてはならない」。懐公はそこで病気を理由に呉の招きを断った。四年、呉は再び懐公を呼び寄せた。懐公は恐れて呉へ行った。呉は以前に来なかったことを怒って懐公を抑留し、懐公はそのまま呉で亡くなった。陳はそこで懐公の子の越を立てた。これが湣公である。湣公の六年、孔子が陳に来た。呉王夫差が陳を攻め、三つの邑を取って去った。十三年、呉が再び陳を攻めてきた。陳は楚に急を告げた。楚の昭王が救援に来て城父に陣を敷き、呉軍は去った。この年、楚の昭王は城父で亡くなった。このとき孔子は陳にいた。十五年、宋が曹を滅ぼした。十六年、呉王夫差が斉を攻めて艾陵で破り、人を遣わして陳侯を呼び寄せた。陳侯は恐れて呉へ行った。すると楚が陳を攻めた。二十一年、斉の田常がその君の簡公を殺した。二十三年、楚の白公勝が令尹の子西と子綦を殺し、恵王を襲った。葉公が攻めて白公を破り、白公は自殺した。二十四年、楚の恵王は国を取り戻すと、兵を北へ向け、陳の湣公を殺し、ついに陳を滅ぼして自国の領土とした。この年、孔子が亡くなった。杞の東楼公は、夏王朝の禹の遠い子孫である。殷の時代には、封じられたり絶えたりした。周の武王は殷の紂王に勝つと、禹の子孫を探し、東楼公を見つけて杞に封じ、夏王朝の祭祀を継がせた。東楼公は西楼公を生み、西楼公は題公を生み、題公は謀娶公を生んだ。謀娶公は周の厲王の時代にあたる。謀娶公は武公を生んだ。武公は在位四十七年で亡くなり、子の靖公が立った。靖公は在位二十三年で亡くなり、子の共公が立った。共公は在位八年で亡くなり、子の徳公が立った。徳公は在位十八年で亡くなり、弟の桓公姑容が立った。桓公は在位十七年で亡くなり、子の孝公丐が立った。孝公は在位十七年で亡くなり、弟の文公益姑が立った。文公は在位十四年で亡くなり、弟の平公郁が立った。

解説

陳の滅亡と、杞の歴史の始まりを描く段です。春秋末の陳は、南の楚と東の新興国・呉の間で板挟みになりました。懐公は大夫の進言で呉の召し出しを断りますが、再び呼ばれると恐れて出向き、抑留されて死にます。湣公も呉に呼ばれれば行き、そのたびに楚に攻められるという具合で、最後は楚の恵王に滅ぼされました。その年に孔子が亡くなったと記されるのは、孔子が陳に滞在した縁を踏まえた配置でしょう。後半からは、禹の子孫を封じた杞の系譜に移ります。陳と杞は、ともに古代の聖王の子孫を周が封じた国として一つの世家にまとめられています。大国の間で一貫した方針を持てず、その場しのぎで両方の顔色をうかがう小国の姿は、有力な取引先の間で揺れる中小企業の苦しさにも重なります。どちらにも誠実さを示せない振る舞いは、結局どちらからも信頼を失わせるのです。

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