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史記 / 陳杞世家

平公十八年卒,子悼公成立。悼公十二年卒,子隱公乞立。七月,隱公弟遂弒隱公自立,是為釐公。釐公十九年卒,子湣公維立。湣公十五年,楚惠王滅陳。十六年,湣公弟閼路弒湣公代立,是為哀公。哀公立十年卒,湣公子敕立,是為出公。出公十二年卒,子簡公春立。立一年,楚惠王之四十四年,滅杞。杞後陳亡三十四年。杞小微,其事不足稱述。舜之後,周武王封之陳,至楚惠王滅之,有世家言。禹之後,周武王封之杞,楚惠王滅之,有世家言。契之後為殷,殷有本紀言。殷破,周封其後於宋,齊湣王滅之,有世家言。后稷之後為周,秦昭王滅之,有本紀言。皋陶之後,或封英、六,楚穆王滅之,無譜。伯夷之後,至周武王復封於齊,曰太公望,陳氏滅之,有世家言。伯翳之後,至周平王時封為秦,項羽滅之,有本紀言。垂、益、夔、龍,其後不知所封,不見也。右十一人者,皆唐虞之際名有功德臣也;其五人之後皆至帝王,餘乃為顯諸侯。滕、薛、騶,夏、殷、周之閒封也,小,不足齒列,弗論也。周武王時,侯伯尚千餘人。及幽、厲之後,諸侯力攻相并。江、黃、胡、沈之屬,不可勝數,故弗采著于傳云。

新字:平公十八年卒,子悼公成立。悼公十二年卒,子隠公乞立。七月,隠公弟遂弒隠公自立,是為釐公。釐公十九年卒,子湣公維立。湣公十五年,楚恵王滅陳。十六年,湣公弟閼路弒湣公代立,是為哀公。哀公立十年卒,湣公子勅立,是為出公。出公十二年卒,子簡公春立。立一年,楚恵王之四十四年,滅杞。杞後陳亡三十四年。杞小微,其事不足称述。舜之後,周武王封之陳,至楚恵王滅之,有世家言。禹之後,周武王封之杞,楚恵王滅之,有世家言。契之後為殷,殷有本紀言。殷破,周封其後於宋,斉湣王滅之,有世家言。后稷之後為周,秦昭王滅之,有本紀言。皋陶之後,或封英、六,楚穆王滅之,無譜。伯夷之後,至周武王復封於斉,曰太公望,陳氏滅之,有世家言。伯翳之後,至周平王時封為秦,項羽滅之,有本紀言。垂、益、夔、竜,其後不知所封,不見也。右十一人者,皆唐虞之際名有功徳臣也;其五人之後皆至帝王,余乃為顕諸侯。滕、薛、騶,夏、殷、周之閒封也,小,不足歯列,弗論也。周武王時,侯伯尚千余人。及幽、厲之後,諸侯力攻相并。江、黄、胡、沈之属,不可勝数,故弗采著于伝云。

書き下し

平公十八年にして卒し、子の悼公成立つ。悼公十二年にして卒し、子の隠公乞立つ。七月、隠公の弟遂隠公を弑して自立す。是を釐公と為す。釐公十九年にして卒し、子の湣公維立つ。湣公の十五年、楚の恵王陳を滅ぼす。十六年、湣公の弟閼路湣公を弑して代はり立つ。是を哀公と為す。哀公立ちて十年にして卒し、湣公の子敕立つ。是を出公と為す。出公十二年にして卒し、子の簡公春立つ。立ちて一年、楚の恵王の四十四年、杞を滅ぼす。杞は陳に後れて亡ぶること三十四年なり。杞は小微にして、其の事称述するに足らず。舜の後は、周の武王之を陳に封じ、楚の恵王之を滅ぼすに至る。世家有りて言ふ。禹の後は、周の武王之を杞に封じ、楚の恵王之を滅ぼす。世家有りて言ふ。契の後は殷と為る。殷は本紀有りて言ふ。殷破れ、周其の後を宋に封じ、斉の湣王之を滅ぼす。世家有りて言ふ。后稷の後は周と為り、秦の昭王之を滅ぼす。本紀有りて言ふ。皋陶の後は、或いは英・六に封ぜられ、楚の穆王之を滅ぼす。譜無し。伯夷の後は、周の武王に至りて復た斉に封ぜられ、太公望と曰ふ。陳氏之を滅ぼす。世家有りて言ふ。伯翳の後は、周の平王の時に至りて封ぜられて秦と為り、項羽之を滅ぼす。本紀有りて言ふ。垂・益・夔・竜は、其の後封ぜらるる所を知らず、見えざるなり。右の十一人は、皆唐虞の際の名ある功徳の臣なり。其の五人の後は皆帝王に至り、余は乃ち顕諸侯と為る。滕・薛・騶は、夏・殷・周の間に封ぜられ、小にして、歯列するに足らず、論ぜざるなり。周の武王の時、侯伯尚ほ千余人なり。幽・厲の後に及びて、諸侯力攻して相并す。江・黄・胡・沈の属は、勝げて数ふべからず。故に采りて伝に著さずと云ふ。

現代語訳

平公は在位十八年で亡くなり、子の悼公成が立った。悼公は在位十二年で亡くなり、子の隠公乞が立った。七月、隠公の弟の遂が隠公を殺して自ら立った。これが釐公である。釐公は在位十九年で亡くなり、子の湣公維が立った。湣公の十五年、楚の恵王が陳を滅ぼした。十六年、湣公の弟の閼路が湣公を殺して代わりに立った。これが哀公である。哀公は在位十年で亡くなり、湣公の子の敕が立った。これが出公である。出公は在位十二年で亡くなり、子の簡公春が立った。簡公が即位して一年、楚の恵王の四十四年に、楚は杞を滅ぼした。杞は陳より三十四年遅れて滅んだ。杞は小さく弱い国で、その事績は取り立てて述べるほどのものではない。舜の子孫は、周の武王が陳に封じ、楚の恵王に滅ぼされるまで続いた。世家に記してある。禹の子孫は、周の武王が杞に封じ、楚の恵王が滅ぼした。世家に記してある。契の子孫は殷となった。殷は本紀に記してある。殷が滅ぶと、周はその子孫を宋に封じ、斉の湣王が滅ぼした。世家に記してある。后稷の子孫は周となり、秦の昭王が滅ぼした。本紀に記してある。皋陶の子孫は英や六に封じられ、楚の穆王が滅ぼした。系譜は残っていない。伯夷の子孫は、周の武王の時に再び斉に封じられ、太公望と呼ばれた。陳氏(田氏)がこれを滅ぼした。世家に記してある。伯翳の子孫は、周の平王の時に封じられて秦となり、項羽が滅ぼした。本紀に記してある。垂・益・夔・竜の子孫は、どこに封じられたかわからず、記録にも見えない。以上の十一人は、みな堯・舜の時代に功績と徳で名高かった臣下である。そのうち五人の子孫はいずれも帝王となり、残りも名のある諸侯となった。滕・薛・騶は、夏・殷・周の間に封じられた国だが、小さくて列に加えるほどではないので、論じない。周の武王の時代には、諸侯はなお千余りもあった。幽王・厲王の後になると、諸侯は力で攻め合って互いに併合した。江・黄・胡・沈のような国は数えきれないほどあったので、取り上げて伝には記さなかったのである。

解説

杞の滅亡と、陳杞世家を締めくくる総括の段です。杞は陳より三十四年遅れて楚の恵王に滅ぼされますが、司馬遷は「小さく弱く、述べるに足らない」と率直に書いています。そのうえで、堯・舜の時代に功績のあった十一人の名臣の子孫がどうなったかを一覧にし、殷・周・秦の王朝となった家、宋・斉・陳・杞の諸侯となった家、行方の知れない家を整理しています。『史記』の本紀・世家という枠組みそのものが、古代の功臣の子孫の行く末を記録する仕組みであることがよくわかる段です。さらに、周初には千余りあった諸侯が力による併合で消えていき、江・黄・胡・沈のような小国はとても書き尽くせないと述べ、記録の取捨の基準を明かしています。どれほど功績ある家も、力の時代にはのみ込まれていくという冷静な歴史観とともに、何を書き何を省くかという編集の判断が見て取れます。

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