論語 / 雍也篇
季氏使閔子騫爲費宰。閔子騫曰:「善爲我辭焉。如有復我者,則吾必在汶上矣。」
新字:季氏使閔子騫為費宰。閔子騫曰:「善為我辞焉。如有復我者,則吾必在汶上矣。」
書き下し
季氏、閔子騫をして費の宰たらしむ。閔子騫曰く、「善く我が為に辞せよ。如し我を復たびする者有らば、則ち吾必ず汶の上に在らん。」
現代語訳
季氏が閔子騫を費の代官に任命しようとした。閔子騫は使者に言った。「私のために、うまく断ってください。もしまた同じ話を持ってくる人があれば、そのときは私はきっと汶水のほとりに移っているでしょう。」
解説
丁重な辞退の言葉の後に、はっきりした最後通牒が置かれている。もう一度言ってきたら、国を出る、と。閔子騫は季氏という実力者の不義を認めていなかった。断る理由を長々と説明せず、条件だけを示したのが巧い。断り方として学べるところが多い。理由を細かく説明すれば、相手はその理由を一つずつ潰しにかかる。待遇の問題なら上げる、時期の問題なら延ばす、というふうに。だから交渉可能な理由を並べず、線だけを引いた。仕事を受けない判断は、能力の問題ではなく、誰と組むかの判断である。組む相手を選ばないまま条件だけで受けると、後から降りるほうがはるかに高くつく。断るときは、迷う余地を残さないほうが互いのためになる。
この章句が説くこと
辞退一貫性節操信頼理念断り方
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