史記 / 陳杞世家
二十九年,陳倍楚盟。三十年,楚共王伐陳。是歲,成公卒,子哀公弱立。楚以陳喪,罷兵去。哀公三年,楚圍陳,復釋之。二十八年,楚公子圍弒其君郟敖自立,為靈王。三十四年,初,哀公娶鄭,長姬生悼太子師,少姬生偃。二嬖妾,長妾生留,少妾生勝。留有寵哀公,哀公屬之其弟司徒招。哀公病,三月,招殺悼太子,立留為太子。哀公怒,欲誅招,招發兵圍守哀公,哀公自經殺。招卒立留為陳君。四月,陳使使赴楚。楚靈王聞陳亂,乃殺陳使者,使公子棄疾發兵伐陳,陳君留奔鄭。九月,楚圍陳。十一月,滅陳。使棄疾為陳公。招之殺悼太子也,太子之子名吳,出奔晉。晉平公問太史趙曰:「陳遂亡乎?」對曰:「陳,顓頊之族。陳氏得政於齊,乃卒亡。自幕至于瞽瞍,無違命。舜重之以明德。至於遂,世世守之。及胡公,周賜之姓,使祀虞帝。且盛德之後,必百世祀。虞之世未也,其在齊乎?」楚靈王滅陳五歲,楚公子棄疾弒靈王代立,是為平王。平王初立,欲得和諸侯,乃求故陳悼太子師之子吳,立為陳侯,是為惠公。惠公立,探續哀公卒時年而為元,空籍五歲矣。十年,陳火。十五年,吳王僚使公子光伐陳,取胡、沈而去。二十八年,吳王闔閭與子胥敗楚入郢。
新字:二十九年,陳倍楚盟。三十年,楚共王伐陳。是歳,成公卒,子哀公弱立。楚以陳喪,罷兵去。哀公三年,楚囲陳,復釈之。二十八年,楚公子囲弒其君郟敖自立,為霊王。三十四年,初,哀公娶鄭,長姫生悼太子師,少姫生偃。二嬖妾,長妾生留,少妾生勝。留有寵哀公,哀公属之其弟司徒招。哀公病,三月,招殺悼太子,立留為太子。哀公怒,欲誅招,招発兵囲守哀公,哀公自経殺。招卒立留為陳君。四月,陳使使赴楚。楚霊王聞陳乱,乃殺陳使者,使公子棄疾発兵伐陳,陳君留奔鄭。九月,楚囲陳。十一月,滅陳。使棄疾為陳公。招之殺悼太子也,太子之子名呉,出奔晋。晋平公問太史趙曰:「陳遂亡乎?」対曰:「陳,顓頊之族。陳氏得政於斉,乃卒亡。自幕至于瞽瞍,無違命。舜重之以明徳。至於遂,世世守之。及胡公,周賜之姓,使祀虞帝。且盛徳之後,必百世祀。虞之世未也,其在斉乎?」楚霊王滅陳五歳,楚公子棄疾弒霊王代立,是為平王。平王初立,欲得和諸侯,乃求故陳悼太子師之子呉,立為陳侯,是為恵公。恵公立,探続哀公卒時年而為元,空籍五歳矣。十年,陳火。十五年,呉王僚使公子光伐陳,取胡、沈而去。二十八年,呉王闔閭与子胥敗楚入郢。
書き下し
二十九年、陳楚の盟に倍(そむ)く。三十年、楚の共王陳を伐つ。是の歳、成公卒し、子の哀公弱立つ。楚陳の喪を以て、兵を罷めて去る。哀公の三年、楚陳を囲み、復た之を釈す。二十八年、楚の公子囲其の君郟敖を弑して自立し、霊王と為る。三十四年、初め、哀公鄭に娶る。長姫悼太子師を生み、少姫偃を生む。二嬖妾あり、長妾は留を生み、少妾は勝を生む。留哀公に寵有り、哀公之を其の弟司徒招に属す。哀公病む。三月、招悼太子を殺し、留を立てて太子と為す。哀公怒り、招を誅せんと欲す。招兵を発して哀公を囲み守る。哀公自ら経(くび)れて殺す。招卒に留を立てて陳君と為す。四月、陳使ひをして楚に赴せしむ。楚の霊王陳の乱るるを聞き、乃ち陳の使者を殺し、公子棄疾をして兵を発して陳を伐たしむ。陳君留鄭に奔る。九月、楚陳を囲む。十一月、陳を滅ぼし、棄疾をして陳公と為らしむ。招の悼太子を殺すや、太子の子名は呉、出でて晋に奔る。晋の平公太史趙に問ひて曰く、「陳は遂に亡びんか」と。対へて曰く、「陳は顓頊の族なり。陳氏政を斉に得て、乃ち卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふこと無し。舜之を重ぬるに明徳を以てす。遂に至るまで、世々之を守る。胡公に及びて、周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。且つ盛徳の後は、必ず百世祀らる。虞の世未だし。其れ斉に在らんか」と。楚の霊王陳を滅ぼして五歳、楚の公子棄疾霊王を弑して代はり立つ。是を平王と為す。平王初めて立ち、諸侯を和するを得んと欲し、乃ち故の陳の悼太子師の子呉を求め、立てて陳侯と為す。是を恵公と為す。恵公立ち、探りて哀公の卒せし時の年に続けて元と為す。空籍五歳なり。十年、陳火あり。十五年、呉王僚公子光をして陳を伐たしめ、胡・沈を取りて去る。二十八年、呉王闔閭子胥と楚を敗りて郢に入る。
現代語訳
(成公の)二十九年、陳は楚との盟約に背いた。三十年、楚の共王が陳を攻めた。この年、成公が亡くなり、子の哀公弱が立った。楚は陳が喪中であることから、兵を引いて去った。哀公の三年、楚は陳を包囲したが、また解放した。二十八年、楚の公子囲がその君の郟敖を殺して自ら立ち、霊王となった。三十四年のこと。これより前、哀公は鄭から妻を迎えていた。姉の姫は悼太子師を産み、妹の姫は偃を産んだ。また寵愛する側室が二人いて、姉は留を産み、妹は勝を産んだ。留は哀公に寵愛されており、哀公は留のことを弟の司徒招に託していた。哀公が病に倒れた。三月、招は悼太子を殺し、留を太子に立てた。哀公は怒って招を誅殺しようとしたが、招は兵を出して哀公を包囲し監禁した。哀公は首をくくって自殺した。招はついに留を立てて陳の君とした。四月、陳は使者を楚に送って哀公の死を告げた。楚の霊王は陳が乱れたと聞くと、陳の使者を殺し、公子棄疾に兵を率いさせて陳を攻めさせた。陳の君の留は鄭に逃げた。九月、楚は陳を包囲した。十一月、陳を滅ぼし、棄疾を陳公とした。招が悼太子を殺したとき、太子の子の呉は国を出て晋に逃れていた。晋の平公は太史の趙に尋ねた。「陳はこのまま滅びてしまうのか」。太史趙は答えた。「陳は顓頊(せんぎょく)の一族だ。陳氏が斉で政権を握ったとき、陳はついに滅びるだろう。祖先の幕から瞽瞍(舜の父)に至るまで、天命に背くことはなかった。舜はそれに明らかな徳を重ねた。遂に至るまで、代々その徳を守ってきた。胡公の代になって周は姓を賜り、虞帝(舜)を祀らせた。しかも盛んな徳を持つ者の子孫は、必ず百代にわたって祀られるものだ。虞の家の命運はまだ尽きていない。それはおそらく斉で続くのだろう」。楚の霊王が陳を滅ぼして五年後、楚の公子棄疾が霊王を殺して代わりに立った。これが平王である。平王は即位したばかりで諸侯と和を結びたいと考え、もとの陳の悼太子師の子の呉を探し出して陳侯に立てた。これが恵公である。恵公は即位すると、さかのぼって哀公が亡くなった年に続けて元年を数えたので、帳簿の上では空白の五年が生じた。十年、陳で火災があった。十五年、呉王僚が公子光に陳を攻めさせ、胡と沈を取って去った。二十八年、呉王闔閭が伍子胥とともに楚を破り、郢に入った。
解説
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史記 陳杞世家此に在らずして、其れ異国に在らんか。此の其の身に非ずして、其の子孫に在らん。若し異国に在らば、必ず姜姓ならん。姜姓は太嶽の後なり。物は能く両ながら大なること莫し。陳衰へなば、此れ其れ昌えんか」と。厲公蔡の女を取る。蔡の女蔡人と乱す。厲公数々蔡に如きて淫す。七年、厲公の殺す所の桓公の太子免の三弟、長を躍と曰ひ、中を林と曰ひ、少を杵臼と曰ふ。共に蔡人をして厲公を誘ふに好女を以てせしめ、蔡人と共に厲公を殺して躍を立つ。是を利公と為す。利公は、桓公の子なり。利公立ちて五月にして卒し、中弟の林を立つ。是を荘公と為す。荘公七年にして卒し、少弟の杵臼立つ。是を宣公と為す。宣公の三年、楚の武王卒し、楚始めて彊し。十七年、周の恵王陳の女を娶りて后と為す。二十一年、宣公後に嬖姫有りて子款を生む。之を立てんと欲し、乃ち其の太子御寇を殺す。御寇素より厲公の子完を愛す。完禍の己に及ばんことを懼れ、乃ち斉に奔る。斉の桓公陳完をして卿為らしめんと欲す。完曰く、「羈旅の臣、幸ひに負檐(ふたん)を免るるを得たるは、君の恵みなり。敢て高位に当たらず」と。桓公工正と為さしむ。斉の懿仲陳の敬仲に妻せんと欲し、之を卜す。占に曰く、「是れ鳳皇于に飛び、和鳴鏘鏘たりと謂ふ。有媯の後、将に姜に育たんとす。五世にして其れ昌え、正卿に并ぶ。八世の後、之と京(おほい)なるもの莫し」と。三十七年、斉の桓公蔡を伐ち、蔡敗る。南のかた楚を侵し、召陵に至り、還りて陳を過ぐ。陳の大夫轅濤塗其の陳を過ぐるを悪み、斉を詐りて東道に出でしむ。東道悪しく、桓公怒り、陳の轅濤塗を執ふ。是の歳、晋の献公其の太子申生を殺す。四十五年、宣公卒し、子の款立つ。是を穆公と為す。穆公の五年、斉の桓公卒す。十六年、晋の文公楚の師を城濮に敗る。是の歳、穆公卒し、子の共公朔立つ。共公の六年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。是を穆王と為す。十一年、秦の穆公卒す。十八年、共公卒し、子の霊公平国立つ。霊公の元年、楚の荘王即位す。六年、楚陳を伐つ。十年、陳楚と平らぐ。
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史記 陳杞世家是の年、恵公卒し、子の懐公柳立つ。懐公の元年、呉楚を破り、郢に在りて、陳侯を召す。陳侯往かんと欲す。大夫曰く、「呉新たに意を得たり。楚王亡ぐと雖も、陳と故有り、倍くべからず」と。懐公乃ち疾を以て呉に謝す。四年、呉復た懐公を召す。懐公恐れて呉に如く。呉其の前に往かざるを怒り、之を留む。因りて呉に卒す。陳乃ち懐公の子越を立つ。是を湣公と為す。湣公の六年、孔子陳に適く。呉王夫差陳を伐ち、三邑を取りて去る。十三年、呉復た来たりて陳を伐つ。陳急を楚に告ぐ。楚の昭王来たり救ひ、城父に軍す。呉の師去る。是の年、楚の昭王城父に卒す。時に孔子陳に在り。十五年、宋曹を滅ぼす。十六年、呉王夫差斉を伐ち、之を艾陵に敗り、人をして陳侯を召さしむ。陳侯恐れて呉に如く。楚陳を伐つ。二十一年、斉の田常其の君簡公を弑す。二十三年、楚の白公勝令尹子西・子綦を殺し、恵王を襲ふ。葉公攻めて白公を敗る。白公自殺す。二十四年、楚の恵王国を復し、兵を以て北のかた伐ち、陳の湣公を殺し、遂に陳を滅ぼして之を有つ。是の歳、孔子卒す。杞の東楼公は、夏后禹の後の苗裔なり。殷の時或いは封ぜられ或いは絶ゆ。周の武王殷の紂に克ち、禹の後を求め、東楼公を得て、之を杞に封じ、以て夏后氏の祀を奉ぜしむ。東楼公西楼公を生み、西楼公題公を生み、題公謀娶公を生む。謀娶公は周の厲王の時に当たる。謀娶公武公を生む。武公立ちて四十七年にして卒し、子の靖公立つ。靖公二十三年にして卒し、子の共公立つ。共公八年にして卒し、子の徳公立つ。徳公十八年にして卒し、弟の桓公姑容立つ。桓公十七年にして卒し、子の孝公丐立つ。孝公十七年にして卒し、弟の文公益姑立つ。文公十四年にして卒し、弟の平公郁立つ。
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史記 管蔡世家斉の桓公怒りて、蔡を伐つ。蔡潰(つひ)え、遂に繆侯を虜にし、南のかた楚の邵陵に至る。已にして諸侯蔡の為に斉に謝し、斉侯蔡侯を帰す。二十九年、繆侯卒し、子の荘侯果立つ。荘侯の三年、斉の桓公卒す。十四年、晋の文公楚を城濮に敗る。二十年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。二十五年、秦の穆公卒す。三十三年、楚の荘王即位す。三十四年、荘侯卒し、子の文侯申立つ。文侯の十四年、楚の荘王陳を伐ち、夏徴舒を殺す。十五年、楚鄭を囲み、鄭楚に降る。楚復た之を醳(ゆる)す。二十年、文侯卒し、子の景侯固立つ。景侯の元年、楚の荘王卒す。四十九年、景侯太子般の為に婦を楚に娶り、而して景侯焉に通ず。太子景侯を弑して自立す。是を霊侯と為す。霊侯の二年、楚の公子囲其の王郟敖を弑して自立し、霊王と為る。九年、陳の司徒招其の君哀公を弑す。楚公子棄疾をして陳を滅ぼして之を有たしむ。十二年、楚の霊王、霊侯の其の父を弑せしを以て、蔡の霊侯を申に誘ひ、甲を伏せて之に飲ましめ、酔はしめて之を殺し、其の士卒七十人を刑す。公子棄疾をして蔡を囲ましむ。十一月、蔡を滅ぼし、棄疾をして蔡公と為らしむ。楚蔡を滅ぼして三歳、楚の公子棄疾其の君霊王を弑して代はり立ち、平王と為る。平王乃ち蔡の景侯の少子廬を求めて之を立つ。是を平侯と為す。是の年、楚も亦た陳を復立す。楚の平王初めて立ち、諸侯に親しまんと欲す。故に復た陳・蔡の後を立つ。平侯九年にして卒し、霊侯般の孫東国、平侯の子を攻めて自立す。是を悼侯と為す。悼侯の父を隠太子友と曰ふ。
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