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史記 / 陳杞世家

不在此,其在異國?非此其身,在其子孫。若在異國,必姜姓。姜姓,太嶽之後。物莫能兩大,陳衰,此其昌乎?」厲公取蔡女,蔡女與蔡人亂,厲公數如蔡淫。七年,厲公所殺桓公太子免之三弟,長曰躍,中曰林,少曰杵臼,共令蔡人誘厲公以好女,與蔡人共殺厲公而立躍,是為利公。利公者,桓公子也。利公立五月卒,立中弟林,是為莊公。莊公七年卒,少弟杵臼立,是為宣公。宣公三年,楚武王卒,楚始彊。十七年,周惠王娶陳女為后。二十一年,宣公後有嬖姬生子款,欲立之,乃殺其太子御寇。御寇素愛厲公子完,完懼禍及己,乃奔齊。齊桓公欲使陳完為卿,完曰:「羈旅之臣,幸得免負檐,君之惠也,不敢當高位。」桓公使為工正。齊懿仲欲妻陳敬仲,卜之,占曰:「是謂鳳皇于飛,和鳴鏘鏘。有媯之後,將育于姜。五世其昌,并于正卿。八世之後,莫之與京。」三十七年,齊桓公伐蔡,蔡敗;南侵楚,至召陵,還過陳。陳大夫轅濤涂惡其過陳,詐齊令出東道。東道惡,桓公怒,執陳轅濤涂。是歲,晉獻公殺其太子申生。四十五年,宣公卒,子款立,是為穆公。穆公五年,齊桓公卒。十六年,晉文公敗楚師于城濮。是歲,穆公卒,子共公朔立。共公六年,楚太子商臣弒其父成王代立,是為穆王。十一年,秦穆公卒。十八年,共公卒,子靈公平國立。靈公元年,楚莊王即位。六年,楚伐陳。十年,陳及楚平。

新字:不在此,其在異国?非此其身,在其子孫。若在異国,必姜姓。姜姓,太嶽之後。物莫能両大,陳衰,此其昌乎?」厲公取蔡女,蔡女与蔡人乱,厲公数如蔡淫。七年,厲公所殺桓公太子免之三弟,長曰躍,中曰林,少曰杵臼,共令蔡人誘厲公以好女,与蔡人共殺厲公而立躍,是為利公。利公者,桓公子也。利公立五月卒,立中弟林,是為荘公。荘公七年卒,少弟杵臼立,是為宣公。宣公三年,楚武王卒,楚始彊。十七年,周恵王娶陳女為后。二十一年,宣公後有嬖姫生子款,欲立之,乃殺其太子御寇。御寇素愛厲公子完,完懼禍及己,乃奔斉。斉桓公欲使陳完為卿,完曰:「羈旅之臣,幸得免負檐,君之恵也,不敢当高位。」桓公使為工正。斉懿仲欲妻陳敬仲,卜之,占曰:「是謂鳳皇于飛,和鳴鏘鏘。有媯之後,将育于姜。五世其昌,并于正卿。八世之後,莫之与京。」三十七年,斉桓公伐蔡,蔡敗;南侵楚,至召陵,還過陳。陳大夫轅濤涂悪其過陳,詐斉令出東道。東道悪,桓公怒,執陳轅濤涂。是歳,晋献公殺其太子申生。四十五年,宣公卒,子款立,是為穆公。穆公五年,斉桓公卒。十六年,晋文公敗楚師于城濮。是歳,穆公卒,子共公朔立。共公六年,楚太子商臣弒其父成王代立,是為穆王。十一年,秦穆公卒。十八年,共公卒,子霊公平国立。霊公元年,楚荘王即位。六年,楚伐陳。十年,陳及楚平。

書き下し

此に在らずして、其れ異国に在らんか。此の其の身に非ずして、其の子孫に在らん。若し異国に在らば、必ず姜姓ならん。姜姓は太嶽の後なり。物は能く両ながら大なること莫し。陳衰へなば、此れ其れ昌えんか」と。厲公蔡の女を取る。蔡の女蔡人と乱す。厲公数々蔡に如きて淫す。七年、厲公の殺す所の桓公の太子免の三弟、長を躍と曰ひ、中を林と曰ひ、少を杵臼と曰ふ。共に蔡人をして厲公を誘ふに好女を以てせしめ、蔡人と共に厲公を殺して躍を立つ。是を利公と為す。利公は、桓公の子なり。利公立ちて五月にして卒し、中弟の林を立つ。是を荘公と為す。荘公七年にして卒し、少弟の杵臼立つ。是を宣公と為す。宣公の三年、楚の武王卒し、楚始めて彊し。十七年、周の恵王陳の女を娶りて后と為す。二十一年、宣公後に嬖姫有りて子款を生む。之を立てんと欲し、乃ち其の太子御寇を殺す。御寇素より厲公の子完を愛す。完禍の己に及ばんことを懼れ、乃ち斉に奔る。斉の桓公陳完をして卿為らしめんと欲す。完曰く、「羈旅の臣、幸ひに負檐(ふたん)を免るるを得たるは、君の恵みなり。敢て高位に当たらず」と。桓公工正と為さしむ。斉の懿仲陳の敬仲に妻せんと欲し、之を卜す。占に曰く、「是れ鳳皇于に飛び、和鳴鏘鏘たりと謂ふ。有媯の後、将に姜に育たんとす。五世にして其れ昌え、正卿に并ぶ。八世の後、之と京(おほい)なるもの莫し」と。三十七年、斉の桓公蔡を伐ち、蔡敗る。南のかた楚を侵し、召陵に至り、還りて陳を過ぐ。陳の大夫轅濤塗其の陳を過ぐるを悪み、斉を詐りて東道に出でしむ。東道悪しく、桓公怒り、陳の轅濤塗を執ふ。是の歳、晋の献公其の太子申生を殺す。四十五年、宣公卒し、子の款立つ。是を穆公と為す。穆公の五年、斉の桓公卒す。十六年、晋の文公楚の師を城濮に敗る。是の歳、穆公卒し、子の共公朔立つ。共公の六年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。是を穆王と為す。十一年、秦の穆公卒す。十八年、共公卒し、子の霊公平国立つ。霊公の元年、楚の荘王即位す。六年、楚陳を伐つ。十年、陳楚と平らぐ。

現代語訳

この国ではなく、他国で起こることなのだろうか。この子自身ではなく、その子孫のことだろう。もし他国であるなら、きっと姜姓の国だ。姜姓は太嶽(堯の時の四岳)の子孫である。物事は二つながら大きくなることはない。陳が衰えれば、この子の家が栄えるのだろうか」。厲公は蔡の女を妻にしていたが、その蔡の女が蔡の男と通じた。厲公もたびたび蔡へ出かけては淫行にふけった。七年、厲公に殺された桓公の太子免には三人の弟がいた。長兄を躍、次兄を林、末弟を杵臼という。三人は共謀して、蔡の人に美女を使って厲公を誘い出させ、蔡の人とともに厲公を殺し、躍を立てた。これが利公である。利公は桓公の子である。利公は即位して五か月で亡くなり、次兄の林が立った。これが荘公である。荘公は在位七年で亡くなり、末弟の杵臼が立った。これが宣公である。宣公の三年、楚の武王が亡くなり、楚が強くなり始めた。十七年、周の恵王が陳の女を娶って后とした。二十一年、宣公はのちに寵愛した側室に子の款を産ませ、款を後継ぎにしようとして太子の御寇を殺した。御寇はもともと厲公の子の完をかわいがっていたので、完は災いが自分に及ぶことを恐れて斉に逃れた。斉の桓公は陳完を卿にしようとしたが、完は言った。「旅の身の臣である私が、重荷を背負う苦役を免れているのは、君のおかげだ。とても高い位に就くことなどできない」。桓公は完を工正(職人を管理する官)に任じた。斉の懿仲は娘を陳の敬仲(完)に嫁がせようとして、占いを立てた。占いの言葉はこうであった。「これは鳳凰がつがいで飛び、鏘々と声を合わせて鳴くさまである。媯氏の子孫が、姜氏の国で育つ。五代の後には栄えて正卿と肩を並べ、八代の後には、これに並ぶほど大きな者はいなくなる」。三十七年、斉の桓公が蔡を攻め、蔡は敗れた。桓公はさらに南の楚に攻め入って召陵に至り、帰りに陳を通った。陳の大夫の轅濤塗は斉軍が陳を通るのを嫌い、斉をだまして東の道から出るように仕向けた。東の道は険しく、桓公は怒って陳の轅濤塗を捕らえた。この年、晋の献公がその太子申生を殺した。四十五年、宣公が亡くなり、子の款が立った。これが穆公である。穆公の五年、斉の桓公が亡くなった。十六年、晋の文公が城濮で楚の軍を破った。この年、穆公が亡くなり、子の共公朔が立った。共公の六年、楚の太子商臣がその父の成王を殺して代わりに立った。これが穆王である。十一年、秦の穆公が亡くなった。十八年、共公が亡くなり、子の霊公平国が立った。霊公の元年、楚の荘王が即位した。六年、楚が陳を攻めた。十年、陳は楚と和睦した。

解説

前段の占いの続きから、陳完が斉に亡命するまでを描く段です。周の太史は「この子の子孫が姜姓の国(斉)で栄え、陳が衰えるころに昌える」と読み解きました。その後、陳では厲公が淫行の果てに殺され、兄弟が次々に立ち、宣公が寵姫の子を立てるために太子を殺します。太子と親しかった陳完は身の危険を感じて斉へ逃れ、桓公から卿の位を勧められても「亡命者の身で重荷を免れているだけで十分だ」と辞退しました。そして懿仲の縁談の占いには「五世で栄え、八世で並ぶ者なし」と出ます。のちに陳完の子孫の田氏は、実際に斉を乗っ取ることになります。この辞退の謙虚さこそが、外様の身で新天地に根を張る知恵でした。転職や異動で新しい組織に入ったとき、いきなり高い地位を求めず、信頼を積み重ねることの大切さを、陳完の姿は教えてくれます。

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