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史記 / 管蔡世家

莊公二十三年,齊桓公始霸。三十一年,莊公卒,子釐公夷立。釐公九年卒,子昭公班立。昭公六年,齊桓公敗蔡,遂至楚召陵。九年,昭公卒,子共公襄立。共公十六年,初,晉公子重耳其亡過曹,曹君無禮,欲觀其駢脅。釐負羈諫,不聽,私善於重耳。二十一年,晉文公重耳伐曹,虜共公以歸,令軍毋入釐負羈之宗族閭。或說晉文公曰:「昔齊桓公會諸侯,復異姓;今君囚曹君,滅同姓,何以令於諸侯?」晉乃復歸共公。二十五年,晉文公卒。三十五年,共公卒,子文公壽立。文公二十三年卒,子宣公彊立。宣公十七年卒,弟成公負芻立。成公三年,晉厲公伐曹,虜成公以歸,已復釋之。五年,晉欒書、中行偃使程滑弒其君厲公。二十三年,成公卒,子武公勝立。武公二十六年,楚公子棄疾弒其君靈王代立。二十七年,武公卒,子平公須立。平公四年卒,子悼公午立。是歲,宋、衛、陳、鄭皆火。悼公八年,宋景公立。九年,悼公朝于宋,宋囚之;曹立其弟野,是為聲公。悼公死於宋,歸葬。聲公五年,平公弟通弒聲公代立,是為隱公。隱公四年,聲公弟露弒隱公代立,是為靖公。靖公四年卒,子伯陽立。

新字:荘公二十三年,斉桓公始覇。三十一年,荘公卒,子釐公夷立。釐公九年卒,子昭公班立。昭公六年,斉桓公敗蔡,遂至楚召陵。九年,昭公卒,子共公襄立。共公十六年,初,晋公子重耳其亡過曹,曹君無礼,欲観其駢脅。釐負羈諫,不聴,私善於重耳。二十一年,晋文公重耳伐曹,虜共公以帰,令軍毋入釐負羈之宗族閭。或説晋文公曰:「昔斉桓公会諸侯,復異姓;今君囚曹君,滅同姓,何以令於諸侯?」晋乃復帰共公。二十五年,晋文公卒。三十五年,共公卒,子文公寿立。文公二十三年卒,子宣公彊立。宣公十七年卒,弟成公負芻立。成公三年,晋厲公伐曹,虜成公以帰,已復釈之。五年,晋欒書、中行偃使程滑弒其君厲公。二十三年,成公卒,子武公勝立。武公二十六年,楚公子棄疾弒其君霊王代立。二十七年,武公卒,子平公須立。平公四年卒,子悼公午立。是歳,宋、衛、陳、鄭皆火。悼公八年,宋景公立。九年,悼公朝于宋,宋囚之;曹立其弟野,是為声公。悼公死於宋,帰葬。声公五年,平公弟通弒声公代立,是為隠公。隠公四年,声公弟露弒隠公代立,是為靖公。靖公四年卒,子伯陽立。

書き下し

荘公の二十三年、斉の桓公始めて覇たり。三十一年、荘公卒し、子の釐公夷立つ。釐公九年にして卒し、子の昭公班立つ。昭公の六年、斉の桓公蔡を敗り、遂に楚の召陵に至る。九年、昭公卒し、子の共公襄立つ。共公の十六年、初め、晋の公子重耳其の亡げて曹を過ぐるや、曹君礼無く、其の駢脅を観んと欲す。釐負羈諫むるも、聴かず。私かに重耳に善くす。二十一年、晋の文公重耳曹を伐ち、共公を虜にして以て帰り、軍をして釐負羈の宗族の閭に入ること毋からしむ。或ひと晋の文公に説きて曰く、「昔斉の桓公諸侯を会し、異姓を復す。今君曹君を囚へ、同姓を滅ぼさば、何を以て諸侯に令せん」と。晋乃ち復た共公を帰す。二十五年、晋の文公卒す。三十五年、共公卒し、子の文公寿立つ。文公二十三年にして卒し、子の宣公彊立つ。宣公十七年にして卒し、弟の成公負芻立つ。成公の三年、晋の厲公曹を伐ち、成公を虜にして以て帰り、已にして復た之を釈す。五年、晋の欒書・中行偃、程滑をして其の君厲公を弑せしむ。二十三年、成公卒し、子の武公勝立つ。武公の二十六年、楚の公子棄疾其の君霊王を弑して代はり立つ。二十七年、武公卒し、子の平公須立つ。平公四年にして卒し、子の悼公午立つ。是の歳、宋・衛・陳・鄭皆火あり。悼公の八年、宋の景公立つ。九年、悼公宋に朝す。宋之を囚ふ。曹其の弟野を立つ。是を声公と為す。悼公宋に死し、帰葬す。声公の五年、平公の弟通声公を弑して代はり立つ。是を隠公と為す。隠公の四年、声公の弟露隠公を弑して代はり立つ。是を靖公と為す。靖公四年にして卒し、子の伯陽立つ。

現代語訳

荘公の二十三年、斉の桓公が初めて覇者となった。三十一年、荘公が亡くなり、子の釐公夷が立った。釐公は在位九年で亡くなり、子の昭公班が立った。昭公の六年、斉の桓公が蔡を破り、そのまま楚の召陵まで進んだ。九年、昭公が亡くなり、子の共公襄が立った。共公の十六年のこと。これより前、晋の公子重耳が亡命の途中で曹を通ったとき、曹君は無礼にも、重耳のあばら骨がつながっている(駢脅)という噂を確かめようと、その裸を覗き見しようとした。釐負羈が諫めたが、曹君は聞き入れなかった。釐負羈はひそかに重耳を手厚くもてなした。二十一年、晋の文公となった重耳は曹を攻め、共公を捕虜にして連れ帰り、軍には釐負羈の一族の住む村に入ってはならないと命じた。ある人が晋の文公に説いた。「昔、斉の桓公は諸侯を集めた際、異姓の国でさえ再興させた。いまあなたが曹君を捕らえ、同姓の国を滅ぼしたら、どうして諸侯に号令できようか」。晋はそこで共公を曹に帰した。二十五年、晋の文公が亡くなった。三十五年、共公が亡くなり、子の文公寿が立った。文公は在位二十三年で亡くなり、子の宣公彊が立った。宣公は在位十七年で亡くなり、弟の成公負芻が立った。成公の三年、晋の厲公が曹を攻め、成公を捕虜にして連れ帰ったが、やがて釈放した。五年、晋の欒書と中行偃が程滑にその君の厲公を殺させた。二十三年、成公が亡くなり、子の武公勝が立った。武公の二十六年、楚の公子棄疾がその君の霊王を殺して代わりに立った。二十七年、武公が亡くなり、子の平公須が立った。平公は在位四年で亡くなり、子の悼公午が立った。この年、宋・衛・陳・鄭でいずれも火災があった。悼公の八年、宋の景公が立った。九年、悼公が宋に参朝すると、宋は悼公を監禁した。曹は悼公の弟の野を立てた。これが声公である。悼公は宋で死に、遺体は曹に帰されて葬られた。声公の五年、平公の弟の通が声公を殺して代わりに立った。これが隠公である。隠公の四年、声公の弟の露が隠公を殺して代わりに立った。これが靖公である。靖公は在位四年で亡くなり、子の伯陽が立った。

解説

曹の春秋時代の歩みを描く段で、中心は重耳(のちの晋の文公)への無礼の一件です。亡命中の重耳が曹に立ち寄ったとき、曹の共公は噂の「駢脅(あばら骨が一枚板のようにつながった体)」を見ようと覗き見をしました。家臣の釐負羈は諫めて聞き入れられず、ひそかに重耳をもてなします。のちに文公となった重耳は曹を攻めて共公を捕らえますが、釐負羈の一族には手を出させませんでした。落ちぶれた者への無礼と礼遇が、そのまま後の報いとなって返ってきたのです。一方で、同姓の国を滅ぼせば諸侯を率いる資格を失うという進言を受け、文公は共公を帰します。後半は、君主が次々に兄弟に殺されて代わる混乱ぶりが記されます。今は立場の弱い相手でも、将来どんな立場になるかはわからないという教えは、取引先や部下との関係にもそのまま当てはまります。

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