師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 管蔡世家

伯邑考,其後不知所封。武王發,其後為周,有本紀言。管叔鮮作亂誅死,無後。周公旦,其後為魯,有世家言。蔡叔度,其後為蔡,有世家言。曹叔振鐸,有後為曹,有世家言。成叔武,其後世無所見。霍叔處,其後晉獻公時滅霍。康叔封,其後為衛,有世家言。冉季載,其後世無所見。太史公曰:管蔡作亂,無足載者。然周武王崩,成王少,天下既疑,賴同母之弟成叔、冉季之屬十人為輔拂,是以諸侯卒宗周,故附之世家言。曹叔振鐸者,周武王弟也。武王已克殷紂,封叔振鐸於曹。叔振鐸卒,子太伯脾立。太伯卒,子仲君平立。仲君平卒,子宮伯侯立。宮伯侯卒,子孝伯云立。孝伯云卒,子夷伯喜立。夷伯二十三年,周厲王奔于彘。三十年卒,弟幽伯彊立。幽伯九年,弟蘇殺幽伯代立,是為戴伯。戴伯元年,周宣王已立三歲。三十年,戴伯卒,子惠伯兕立。惠伯二十五年,周幽王為犬戎所殺,因東徙,益卑,諸侯畔之。秦始列為諸侯。三十六,惠伯卒,子石甫立,其弟武殺之代立,是為繆公。繆公三年卒,子桓公終生立。桓公三十五年,魯隱公立。四十五年,魯弒其君隱公。四十六年,宋華父督弒其君殤公,及孔父。五十五年,桓公卒,子莊公夕姑立。

新字:伯邑考,其後不知所封。武王発,其後為周,有本紀言。管叔鮮作乱誅死,無後。周公旦,其後為魯,有世家言。蔡叔度,其後為蔡,有世家言。曹叔振鐸,有後為曹,有世家言。成叔武,其後世無所見。霍叔処,其後晋献公時滅霍。康叔封,其後為衛,有世家言。冉季載,其後世無所見。太史公曰:管蔡作乱,無足載者。然周武王崩,成王少,天下既疑,頼同母之弟成叔、冉季之属十人為輔払,是以諸侯卒宗周,故附之世家言。曹叔振鐸者,周武王弟也。武王已克殷紂,封叔振鐸於曹。叔振鐸卒,子太伯脾立。太伯卒,子仲君平立。仲君平卒,子宮伯侯立。宮伯侯卒,子孝伯云立。孝伯云卒,子夷伯喜立。夷伯二十三年,周厲王奔于彘。三十年卒,弟幽伯彊立。幽伯九年,弟蘇殺幽伯代立,是為戴伯。戴伯元年,周宣王已立三歳。三十年,戴伯卒,子恵伯兕立。恵伯二十五年,周幽王為犬戎所殺,因東徙,益卑,諸侯畔之。秦始列為諸侯。三十六,恵伯卒,子石甫立,其弟武殺之代立,是為繆公。繆公三年卒,子桓公終生立。桓公三十五年,魯隠公立。四十五年,魯弒其君隠公。四十六年,宋華父督弒其君殤公,及孔父。五十五年,桓公卒,子荘公夕姑立。

書き下し

伯邑考は、其の後封ぜらるる所を知らず。武王発は、其の後周と為り、本紀有りて言ふ。管叔鮮は乱を作して誅死し、後無し。周公旦は、其の後魯と為り、世家有りて言ふ。蔡叔度は、其の後蔡と為り、世家有りて言ふ。曹叔振鐸は、後有りて曹と為り、世家有りて言ふ。成叔武は、其の後世見ゆる所無し。霍叔処は、其の後晋の献公の時霍を滅ぼす。康叔封は、其の後衛と為り、世家有りて言ふ。冉季載は、其の後世見ゆる所無し。太史公曰く、管蔡乱を作し、載するに足る者無し。然れども周の武王崩じ、成王少く、天下既に疑ふ。同母の弟成叔・冉季の属十人の輔拂(ほひつ)と為るに頼り、是を以て諸侯卒に周を宗とす。故に之を世家に附して言ふ。曹叔振鐸は、周の武王の弟なり。武王已に殷の紂に克ち、叔振鐸を曹に封ず。叔振鐸卒し、子の太伯脾立つ。太伯卒し、子の仲君平立つ。仲君平卒し、子の宮伯侯立つ。宮伯侯卒し、子の孝伯云立つ。孝伯云卒し、子の夷伯喜立つ。夷伯の二十三年、周の厲王彘に奔る。三十年にして卒し、弟の幽伯彊立つ。幽伯の九年、弟の蘇幽伯を殺して代はり立つ。是を戴伯と為す。戴伯の元年、周の宣王已に立ちて三歳なり。三十年、戴伯卒し、子の恵伯兕立つ。恵伯の二十五年、周の幽王犬戎の殺す所と為る。因りて東に徙り、益々卑く、諸侯之に畔く。秦始めて列して諸侯と為る。三十六、恵伯卒し、子の石甫立つ。其の弟武之を殺して代はり立つ。是を繆公と為す。繆公三年にして卒し、子の桓公終生立つ。桓公の三十五年、魯の隠公立つ。四十五年、魯其の君隠公を弑す。四十六年、宋の華父督其の君殤公及び孔父を弑す。五十五年、桓公卒し、子の荘公夕姑立つ。

現代語訳

伯邑考は、その後どこに封じられたのかわからない。武王発は、その子孫が周の王家となり、本紀に記してある。管叔鮮は反乱を起こして処刑され、子孫はない。周公旦は、その子孫が魯となり、世家に記してある。蔡叔度は、その子孫が蔡となり、世家に記してある。曹叔振鐸は、子孫が曹となり、世家に記してある。成叔武は、その後の子孫の記録が見当たらない。霍叔処は、その子孫の霍が晋の献公の時に滅ぼされた。康叔封は、その子孫が衛となり、世家に記してある。冉季載は、その後の子孫の記録が見当たらない。太史公(司馬遷)は言う。管叔と蔡叔は反乱を起こしたのであって、本来は取り上げるに足りない。しかし周の武王が亡くなり、成王が幼く、天下が周を疑っていたとき、同じ母から生まれた弟の成叔や冉季ら十人が補佐役となって支えたからこそ、諸侯は最後には周を宗主として仰いだのである。それで、この一族を世家に加えて記したのだ。曹叔振鐸は、周の武王の弟である。武王は殷の紂王に勝つと、叔振鐸を曹に封じた。叔振鐸が亡くなり、子の太伯脾が立った。太伯が亡くなり、子の仲君平が立った。仲君平が亡くなり、子の宮伯侯が立った。宮伯侯が亡くなり、子の孝伯云が立った。孝伯云が亡くなり、子の夷伯喜が立った。夷伯の二十三年、周の厲王が彘に逃れた。夷伯は在位三十年で亡くなり、弟の幽伯彊が立った。幽伯の九年、弟の蘇が幽伯を殺して代わりに立った。これが戴伯である。戴伯の元年は、周の宣王が即位してすでに三年目であった。三十年、戴伯が亡くなり、子の恵伯兕が立った。恵伯の二十五年、周の幽王が犬戎に殺された。それで周は東へ都を移し、ますます衰え、諸侯は周に背いた。秦が初めて諸侯に列せられた。三十六年、恵伯が亡くなり、子の石甫が立ったが、その弟の武が石甫を殺して代わりに立った。これが繆公である。繆公は在位三年で亡くなり、子の桓公終生が立った。桓公の三十五年、魯の隠公が即位した。四十五年、魯でその君の隠公が殺された。四十六年、宋の華父督がその君の殤公と孔父を殺した。五十五年、桓公が亡くなり、子の荘公夕姑が立った。

解説

文王の十人の子のその後をまとめ、司馬遷自身の評である「太史公曰」を置き、続けて曹の歴史に入る段です。十人のうち周・魯・蔡・曹・衛は子孫が国を保ち、管叔は反乱で絶え、成叔や冉季は記録が残りませんでした。司馬遷は、管叔・蔡叔の反乱そのものは書くに値しないとしながらも、武王の死後に天下が動揺したとき、兄弟たちが力を合わせて幼い成王を支えたことこそが周の存続を支えたのだと述べ、それが一族をまとめて世家に立てた理由だと説明しています。反乱した者を記録するのは、裏切りを語るためではなく、周りで支えた者たちの働きを浮かび上がらせるためだったのです。曹の系譜では、兄弟殺しによる継承が繰り返されます。創業者が去った後に組織を支えるのは、表に立つ一人ではなく、支え合う多くの身内や仲間たちであることを考えさせられます。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る