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史記 / 管蔡世家

蔡叔度既遷而死。其子曰胡,胡乃改行,率德馴善。周公聞之,而舉胡以為魯卿士,魯國治。於是周公言於成王,復封胡於蔡,以奉蔡叔之祀,是為蔡仲。餘五叔皆就國,無為天子吏者。蔡仲卒,子蔡伯荒立。蔡伯荒卒,子宮侯立。宮侯卒,子厲侯立。厲侯卒,子武侯立。武侯之時,周厲王失國,奔彘,共和行政,諸侯多叛周。武侯卒,子夷侯立。夷侯十一年,周宣王即位。二十八年,夷侯卒,子釐侯所事立。釐侯三十九年,周幽王為犬戎所殺,周室卑而東徙。秦始得列為諸侯。四十八年,釐侯卒,子共侯興立。共侯二年卒,子戴侯立。戴侯十年卒,子宣侯措父立。宣侯二十八年,魯隱公初立。三十五年,宣侯卒,子桓侯封人立。桓侯三年,魯弒其君隱公。二十年,桓侯卒,弟哀侯獻舞立。哀侯十一年,初,哀侯娶陳,息侯亦娶陳。息夫人將歸,過蔡,蔡侯不敬。息侯怒,請楚文王:「來伐我,我求救於蔡,蔡必來,楚因擊之,可以有功。」楚文王從之,虜蔡哀侯以歸。哀侯留九歲,死於楚。凡立二十年卒。蔡人立其子肸,是為繆侯。繆侯以其女弟爲齊桓公夫人。十八年,齊桓公與蔡女戲船中,夫人蕩舟,桓公止之,不止,公怒,歸蔡女,而不絶也。蔡侯怒,嫁其弟。

新字:蔡叔度既遷而死。其子曰胡,胡乃改行,率徳馴善。周公聞之,而舉胡以為魯卿士,魯国治。於是周公言於成王,復封胡於蔡,以奉蔡叔之祀,是為蔡仲。余五叔皆就国,無為天子吏者。蔡仲卒,子蔡伯荒立。蔡伯荒卒,子宮侯立。宮侯卒,子厲侯立。厲侯卒,子武侯立。武侯之時,周厲王失国,奔彘,共和行政,諸侯多叛周。武侯卒,子夷侯立。夷侯十一年,周宣王即位。二十八年,夷侯卒,子釐侯所事立。釐侯三十九年,周幽王為犬戎所殺,周室卑而東徙。秦始得列為諸侯。四十八年,釐侯卒,子共侯興立。共侯二年卒,子戴侯立。戴侯十年卒,子宣侯措父立。宣侯二十八年,魯隠公初立。三十五年,宣侯卒,子桓侯封人立。桓侯三年,魯弒其君隠公。二十年,桓侯卒,弟哀侯献舞立。哀侯十一年,初,哀侯娶陳,息侯亦娶陳。息夫人将帰,過蔡,蔡侯不敬。息侯怒,請楚文王:「来伐我,我求救於蔡,蔡必来,楚因撃之,可以有功。」楚文王従之,虜蔡哀侯以帰。哀侯留九歳,死於楚。凡立二十年卒。蔡人立其子肸,是為繆侯。繆侯以其女弟為斉桓公夫人。十八年,斉桓公与蔡女戯船中,夫人蕩舟,桓公止之,不止,公怒,帰蔡女,而不絶也。蔡侯怒,嫁其弟。

書き下し

蔡叔度既に遷されて死す。其の子を胡と曰ふ。胡乃ち行ひを改め、徳に率ひ善に馴る。周公之を聞きて、胡を挙げて以て魯の卿士と為す。魯国治まる。是に於て周公成王に言ひ、復た胡を蔡に封じ、以て蔡叔の祀を奉ぜしむ。是を蔡仲と為す。余の五叔は皆国に就き、天子の吏と為る者無し。蔡仲卒し、子の蔡伯荒立つ。蔡伯荒卒し、子の宮侯立つ。宮侯卒し、子の厲侯立つ。厲侯卒し、子の武侯立つ。武侯の時、周の厲王国を失ひ、彘に奔り、共和政を行ひ、諸侯多く周に叛く。武侯卒し、子の夷侯立つ。夷侯の十一年、周の宣王即位す。二十八年、夷侯卒し、子の釐侯所事立つ。釐侯の三十九年、周の幽王犬戎の殺す所と為り、周室卑くして東に徙る。秦始めて列して諸侯と為るを得。四十八年、釐侯卒し、子の共侯興立つ。共侯二年にして卒し、子の戴侯立つ。戴侯十年にして卒し、子の宣侯措父立つ。宣侯の二十八年、魯の隠公初めて立つ。三十五年、宣侯卒し、子の桓侯封人立つ。桓侯の三年、魯其の君隠公を弑す。二十年、桓侯卒し、弟の哀侯献舞立つ。哀侯の十一年、初め、哀侯陳に娶り、息侯も亦た陳に娶る。息夫人将に帰(とつ)がんとして、蔡を過ぐ。蔡侯敬せず。息侯怒り、楚の文王に請ふ、「来たりて我を伐て。我救ひを蔡に求めん。蔡必ず来たらん。楚因りて之を撃たば、以て功有るべし」と。楚の文王之に従ひ、蔡の哀侯を虜にして以て帰る。哀侯留まること九歳、楚に死す。凡そ立ちて二十年にして卒す。蔡人其の子肸(きつ)を立つ。是を繆侯と為す。繆侯其の女弟を以て斉の桓公の夫人と為す。十八年、斉の桓公蔡女と船中に戯る。夫人舟を蕩(うご)かす。桓公之を止むるも止まず。公怒り、蔡女を帰すも、絶たざるなり。蔡侯怒り、其の弟を嫁がしむ。

現代語訳

蔡叔度は流罪となって配所で死んだ。その子を胡という。胡は行いを改め、徳に従い善をよく守った。周公はこれを聞いて、胡を取り立てて魯の卿士とし、魯の国はよく治まった。そこで周公は成王に進言し、あらためて胡を蔡に封じて蔡叔の祭祀を継がせた。これが蔡仲である。残る五人の叔父たちはみな自分の封国に赴き、天子の役人となった者はいなかった。蔡仲が亡くなり、子の蔡伯荒が立った。蔡伯荒が亡くなり、子の宮侯が立った。宮侯が亡くなり、子の厲侯が立った。厲侯が亡くなり、子の武侯が立った。武侯の時代、周の厲王が国を追われて彘に逃れ、共和の政治が行われ、多くの諸侯が周に背いた。武侯が亡くなり、子の夷侯が立った。夷侯の十一年、周の宣王が即位した。二十八年、夷侯が亡くなり、子の釐侯所事が立った。釐侯の三十九年、周の幽王が犬戎に殺され、周の王室は衰えて東へ都を移した。秦はこのとき初めて諸侯に列せられた。四十八年、釐侯が亡くなり、子の共侯興が立った。共侯は在位二年で亡くなり、子の戴侯が立った。戴侯は在位十年で亡くなり、子の宣侯措父が立った。宣侯の二十八年、魯の隠公が即位した。三十五年、宣侯が亡くなり、子の桓侯封人が立った。桓侯の三年、魯でその君の隠公が殺された。二十年、桓侯が亡くなり、弟の哀侯献舞が立った。哀侯の十一年のこと。これより前、哀侯は陳から妻を迎え、息侯もまた陳から妻を迎えていた。息夫人が嫁いでいく途中で蔡を通ったとき、蔡侯は礼を欠いた振る舞いをした。息侯は怒り、楚の文王に頼んだ。「わが国を攻めてください。私は蔡に救援を求める。蔡は必ず来るでしょう。そこを楚が討てば手柄になります」。楚の文王はこれに従い、蔡の哀侯を捕虜にして連れ帰った。哀侯は楚に九年留め置かれ、楚で死んだ。在位は通算二十年であった。蔡の人々はその子の肸(きつ)を立てた。これが繆侯である。繆侯は妹を斉の桓公の夫人に嫁がせた。十八年、斉の桓公は蔡から来た夫人と船遊びをした。夫人が船を揺らしたので、桓公はやめさせようとしたが、夫人はやめなかった。桓公は怒って夫人を蔡に帰したが、離縁はしていなかった。ところが蔡侯は怒って、妹を別の者に嫁がせてしまった。

解説

反乱の罪で流された蔡叔の子・胡が、行いを改めて周公に認められ、蔡の君主として家を再興する段です。父の罪を子に負わせず、本人の行いで評価して取り立てた周公の人事は、儒家が理想とする「罪は子孫に及ぼさない」考え方の好例とされます。その後は蔡の君主の系譜が続き、厲王の出奔や周の東遷と年代が対応づけられます。後半は二つの事件で、蔡侯が息夫人に無礼を働いたために息侯の策略で楚に捕らえられた話と、繆侯の妹が斉の桓公との船遊びで舟を揺らして追い返され、蔡侯が怒って彼女を他家に嫁がせた話です。どちらも、ちょっとした無礼や感情的な対応が国を危うくすることを示しています。小さな非礼への恨みがどれほど長く根に持たれるか、そして怒りにまかせた仕返しが自分に返ってくることは、今の人間関係にもそのまま当てはまります。

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