史記 / 管蔡世家
武王同母兄弟十人。母曰太姒,文王正妃也。其長子曰伯邑考,次曰武王發,次曰管叔鮮,次曰周公旦,次曰蔡叔度,次曰曹叔振鐸,次曰成叔武,次曰霍叔處,次曰康叔封,次曰冉季載。冉季載最少。同母昆弟十人,唯發、旦賢,左右輔文王,故文王舍伯邑考而以發為太子。
新字:武王同母兄弟十人。母曰太姒,文王正妃也。其長子曰伯邑考,次曰武王発,次曰管叔鮮,次曰周公旦,次曰蔡叔度,次曰曹叔振鐸,次曰成叔武,次曰霍叔処,次曰康叔封,次曰冉季載。冉季載最少。同母昆弟十人,唯発、旦賢,左右輔文王,故文王舎伯邑考而以発為太子。
書き下し
武王の同母兄弟十人。其の長子を伯邑考と曰ひ、次を武王発と曰ひ、次を管叔鮮と曰ひ、次を周公旦と曰ふ。同母の昆弟十人、唯だ発・旦のみ賢にして、文王を左右輔く。故に文王伯邑考を舍きて発を以て太子と為す。
現代語訳
武王の同母兄弟は十人であった。その長子を伯邑考といい、次を武王発、次を管叔鮮、次を周公旦という。同母の兄弟十人のうち、ただ発と旦だけが有能で、文王を左右から補佐した。それゆえ文王は伯邑考を差し置いて、発を太子とした。
解説
「跡継ぎは、生まれの順ではなく、その資質によって選ぶ」——周の文王が、長子を退け、次子を後継に立てた、その決断を描いた一段です。周の文王には、(正妃・太姒との間に、)十人もの、同母の息子たちが、いました。その長子は、伯邑考。次男が、発(後の武王)。三男が、管叔鮮。四男が、旦(後の周公)——と、続きます。当時の常識では、家督は、長子が、継ぐのが、当然でした。しかし——史記は、この十人の兄弟の、資質を、こう、冷静に、記します。「同母の兄弟、十人のうち——ただ、(次男の)発と、(四男の)旦の、二人だけが、賢明であり、(父である)文王を、左右から、よく、輔佐していた(唯發、旦賢、左右輔文王)」と。十人もいて、真に、賢明であったのは、たった、二人。他の兄弟たちは、(長子・伯邑考を含めて、)その器では、なかったのです。そこで、文王は——当時の慣習を、破る、重大な決断を、下します。「だから、文王は、(当然、跡を継ぐべき)長子の伯邑考を、退けて(舍伯邑考)——(次男の)発を、太子(後継者)と、したのだ(以發為太子)」と。生まれの順(長幼の序)ではなく、その、資質と、実際の働きによって、後継者を、選んだのです。(そして、この決断が、正しかったことは——後継となった発が、武王として、殷を滅ぼし、周王朝を、開いたこと、そして、旦が、周公として、その王朝の礎を、固めたことによって、歴史が、証明しました。)ここに、後継者選びについての教訓があります。第一に、跡継ぎや、後継者は——「生まれの順」「年功」「(なんとなくの)当然の流れ」といった、慣習によってではなく、その人の、「資質」と「実際の働き」によって、選ぶべきだということ(舍伯邑考而以發為太子)。文王は、慣習を破る、勇気を、持っていた。第二に、そして——「(本来、当然、継ぐべきである、)長子」を、あえて、退ける、という判断は、(周囲の反発や、本人の失望を招く、)極めて、難しく、勇気の要ることであるが——組織の、将来を、真に考えるなら、その決断から、逃げてはならない、ということ。第三に、実際に、十人の子のうち、真に器のある者は、二人しか、いなかった——という、この、冷徹な、見極めの、目。情に流されず、我が子であっても、その資質を、正確に、評価する。組織や事業承継で、後継者を生まれの順や年功でなくその資質と実際の働きによって選ぶこと、当然継ぐべき者をあえて退ける難しい決断から逃げないこと、そして情に流されず身内であってもその資質を正確に評価すること——文王の決断は、後継者選びの本質を教えます。
この章句が説くこと
周文王伯邑考を舎き発を太子とす後継者は生まれの順でなく資質で選ぶ唯発旦賢慣習を破る勇気当然の後継者を退ける難しい決断
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