史記 / 管蔡世家
武王既崩,成王少,周公旦專王室。管叔、蔡叔疑周公之為不利於成王,乃挾武庚以作亂。周公旦承成王命伐誅武庚,殺管叔,而放蔡叔,遷之,與車十乘,徒七十人從。而分殷餘民為二:其一封微子啟於宋,以續殷祀;其一封康叔為衛君,是為衛康叔。封季載於冉。冉季、康叔皆有馴行,於是周公舉康叔為周司寇,冉季為周司空,以佐成王治,皆有令名於天下。
新字:武王既崩,成王少,周公旦専王室。管叔、蔡叔疑周公之為不利於成王,乃挟武庚以作乱。周公旦承成王命伐誅武庚,殺管叔,而放蔡叔,遷之,与車十乗,徒七十人従。而分殷余民為二:其一封微子啓於宋,以続殷祀;其一封康叔為衛君,是為衛康叔。封季載於冉。冉季、康叔皆有馴行,於是周公舉康叔為周司寇,冉季為周司空,以佐成王治,皆有令名於天下。
書き下し
武王既に崩じ、成王少し、周公旦王室を専らにす。管叔・蔡叔周公の成王に利あらざらんとするを疑ひ、乃ち武庚を挟みて以て乱を作す。周公旦成王の命を承けて武庚を伐ち誅し、管叔を殺し、而して蔡叔を放つ。康叔封・冉季載皆馴行有り、是に於て周公康叔を挙げて周の司寇と為し、冉季を司空と為し、以て成王を佐けて治めしむ、皆天下に令名有り。
現代語訳
武王が崩御すると、成王は幼く、周公旦が王室の実権を握った。管叔と蔡叔は、周公が成王のためにならぬことをするのではないかと疑い、武庚を担いで乱を起こした。周公旦は成王の命を受けて武庚を討って誅殺し、管叔を殺し、蔡叔を追放した。康叔封と冉季載はどちらも行いが善良であった。そこで周公は康叔を抜擢して周の司寇とし、冉季を司空として、成王を輔けて治めさせた。二人とも天下に良い名を残した。
解説

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史記 衛康叔世家衛の康叔、名は封、周の武王の同母の少弟なり。其の次に尚ほ冉季有り、冉季最も少し。武王已に殷の紂に克ち、復た殷の余民を以て紂の子武庚禄父を封じ、諸侯に比し、以て其の先祀を奉じて絶ゆること勿からしむ。武庚未だ集まらざるが為に、其の賊心有らんことを恐れ、武王乃ち其の弟管叔・蔡叔をして武庚禄父に傅相として、以て其の民を和せしむ。武王既に崩じ、成王少し。周公旦成王に代はりて治め、国に当たる。管叔・蔡叔周公を疑ひ、乃ち武庚禄父と乱を作し、成周を攻めんと欲す。周公旦成王の命を以て師を興して殷を伐ち、武庚禄父・管叔を殺し、蔡叔を放ち、武庚の殷の余民を以て康叔を封じて衛君と為し、河・淇の間の故の商墟に居らしむ。
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史記 管蔡世家管叔鮮・蔡叔度は、周の文王の子にして武王の弟なり。
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史記 管蔡世家文王崩じて発立つに及ぶ。是を武王と為す。伯邑考既已に前に卒す。武王已に殷の紂に克ち、天下を平らげ、功臣昆弟を封ず。是に於て叔鮮を管に封じ、叔度を蔡に封ず。二人、紂の子武庚禄父に相として、殷の遺民を治む。叔旦を魯に封じて周に相たらしめ、周公と為す。叔振鐸を曹に封じ、叔武を成に封じ、叔処を霍に封ず。康叔封・冉季載は皆少くして、未だ封を得ず。
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史記 管蔡世家伯邑考は、其の後封ぜらるる所を知らず。武王発は、其の後周と為り、本紀有りて言ふ。管叔鮮は乱を作して誅死し、後無し。周公旦は、其の後魯と為り、世家有りて言ふ。蔡叔度は、其の後蔡と為り、世家有りて言ふ。曹叔振鐸は、後有りて曹と為り、世家有りて言ふ。成叔武は、其の後世見ゆる所無し。霍叔処は、其の後晋の献公の時霍を滅ぼす。康叔封は、其の後衛と為り、世家有りて言ふ。冉季載は、其の後世見ゆる所無し。太史公曰く、管蔡乱を作し、載するに足る者無し。然れども周の武王崩じ、成王少く、天下既に疑ふ。同母の弟成叔・冉季の属十人の輔拂(ほひつ)と為るに頼り、是を以て諸侯卒に周を宗とす。故に之を世家に附して言ふ。曹叔振鐸は、周の武王の弟なり。武王已に殷の紂に克ち、叔振鐸を曹に封ず。叔振鐸卒し、子の太伯脾立つ。太伯卒し、子の仲君平立つ。仲君平卒し、子の宮伯侯立つ。宮伯侯卒し、子の孝伯云立つ。孝伯云卒し、子の夷伯喜立つ。夷伯の二十三年、周の厲王彘に奔る。三十年にして卒し、弟の幽伯彊立つ。幽伯の九年、弟の蘇幽伯を殺して代はり立つ。是を戴伯と為す。戴伯の元年、周の宣王已に立ちて三歳なり。三十年、戴伯卒し、子の恵伯兕立つ。恵伯の二十五年、周の幽王犬戎の殺す所と為る。因りて東に徙り、益々卑く、諸侯之に畔く。秦始めて列して諸侯と為る。三十六、恵伯卒し、子の石甫立つ。其の弟武之を殺して代はり立つ。是を繆公と為す。繆公三年にして卒し、子の桓公終生立つ。桓公の三十五年、魯の隠公立つ。四十五年、魯其の君隠公を弑す。四十六年、宋の華父督其の君殤公及び孔父を弑す。五十五年、桓公卒し、子の荘公夕姑立つ。
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史記 周本紀武王已に殷に克ち、後二年、箕子に殷の亡びし所以を問ふ。箕子殷の悪を言ふに忍びず、存亡の国の宜しきを以て告ぐ。武王も亦醜ぢ、故に問ふに天道を以てす。武王病む。天下未だ集まらず、群公懼れ、穆卜す。周公乃ち祓斎し、自ら質と為り、武王に代はらんと欲す。武王瘳ゆる有り。後にして崩じ、太子誦代はりて立つ。是を成王と為す。成王少く、周初めて天下を定む。周公諸侯の周に畔かんことを恐れ、公乃ち摂行して政し国に当たる。管叔・蔡叔の群弟周公を疑ひ、武庚と乱を作し、周に畔く。周公成王の命を奉じ、武庚・管叔を伐ちて誅し、蔡叔を放つ。微子開を以て殷の後に代へ、宋に国せしむ。頗る殷の余民を収め、以て武王の少弟封を封じて衛の康叔と為す。晋の唐叔嘉穀を得、之を成王に献ず。成王以て周公に兵所に帰る。周公禾を東土に受け、天子の命を魯ぶ。初め、管・蔡周に畔き、周公之を討ち、三年にして畢く定む。故に初めに大誥を作り、次に微子之命を作り、次に帰禾、次に嘉禾、次に康誥・酒誥・梓材を作る。其の事は周公の篇に在り。周公政を行ふこと七年、成王長じ、周公政を成王に反し、北面して群臣の位に就く。成王豊に在り、召公をして復た洛邑を営ましむ、武王の意の如し。周公復た卜して申ねて視、卒に営築し、九鼎を居く。曰く、「此れ天下の中にして、四方の入貢の道里均し」と。召誥・洛誥を作る。成王既に殷の遺民を遷し、周公王命を以て告げ、多士・無佚を作る。召公保と為り、周公師と為り、東のかた淮夷を伐ち、奄を残し、其の君を薄泵に遷す。成王奄より帰り、宗周に在りて、多方を作る。既に殷の命を絀け、淮夷を襲ひ、帰りて豊に在り、周官を作る。礼楽を興正し、度制是に於て改まり、而して民和睦し、頌声興る。成王既に東夷を伐ち、息慎来たりて賀す。王栄伯に賜ひて賄息慎之命を作らしむ。
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史記 魯周公世家管・蔡・武庚等、果して淮夷を率ゐて反す。周公乃ち成王の命を奉じ、師を興して東伐し、大誥を作る。遂に管叔を誅し、武庚を殺し、蔡叔を放つ。殷の余民を収め、以て康叔を衛に封じ、微子を宋に封じて、以て殷の祀を奉ぜしむ。淮夷・東土を寧んじ、二年にして畢く定まる。諸侯咸な宗周に服す。天、祉福を降し、唐叔、禾を得たり。畝を異にして穎を同じくす。之を成王に献ず。成王、唐叔に命じて以て周公に東土に餽らしめ、餽禾を作る。周公既に命禾を受け、天子の命を嘉して、嘉禾を作る。東土以て集まり、周公帰りて成王に報じ、乃ち詩を為りて王に貽り、之を命じて鴟鴞と曰ふ。王も亦未だ敢て周公を訓めず。成王の七年二月乙未、王、朝に周より歩みて豊に至り、太保召公をして先づ雒に之きて土を相せしむ。其の三月、周公往きて成周の雒邑を営み、居を卜するに、吉と曰ふ。遂に之に国す。成王長じ、能く政を聴く。是に於て周公乃ち政を成王に還し、成王朝に臨む。周公の成王に代りて治むるや、南面して依を倍にして以て諸侯を朝せしむ。七年の後に及び、政を成王に還し、北面して臣の位に就き、匔匔として畏るるが如く然り。初め、成王少き時、病む。周公乃ち自ら其の蚤を揃りて之を河に沈め、以て神に祝して曰く、「王少くして未だ識有らず。神の命を奸す者は乃ち旦なり」と。亦其の策を府に蔵す。成王の病瘳ゆる有り。成王の事を用ふるに及び、人或いは周公を譖す。周公、楚に奔る。成王、府を発きて、周公の禱書を見、乃ち泣き、周公を反す。周公帰り、成王の壮にして、治むるに淫佚する所有らんことを恐れ、乃ち多士を作り、毋逸を作る。毋逸に称す、「人の父母と為りては、業を為すこと長久に至る。子孫驕奢にして之を忘れ、以て其の家を亡ぼす。人の子と為りて慎まざる可けんや。故に昔、殷の王中宗に在りては、厳恭にして天命を敬畏し、自ら度りて民を治め、震懼して敢て荒寧せず。故に中宗、国を饗くること七十五年。