史記 / 燕召公世家
湣公三十一年卒,釐公立。是歳,三晉列爲諸侯。釐公三十年,伐敗齊于林營。釐公卒,桓公立。桓公十一年卒,文公立。是歳,秦獻公卒。秦益彊。文公十九年,齊威王卒。二十八年,蘇秦始來見,説文公。文公予車馬金帛以至趙,趙肅侯用之。因約六國,爲從長。秦惠王以其女爲燕太子婦。二十九年,文公卒,太子立,是爲易王。易王初立,齊宣王因燕喪伐我,取十城;蘇秦説齊,使復歸燕十城。十年,燕君爲王。蘇秦與燕文公夫人私通,懼誅,乃説王使齊爲反閒,欲以亂齊。易王立十二年卒,子燕噲立。燕噲旣立,齊人殺蘇秦。蘇秦之在燕,與其相子之爲婚,而蘇代與子之交。及蘇秦死,而齊宣王復用蘇代。燕噲三年,與楚、三晉攻秦,不勝而還。子之相燕,貴重,主斷。蘇代爲齊使於燕,燕王問曰:「齊王奚如?」對曰:「必不霸。」燕王曰:「何也?」對曰:「不信其臣。」蘇代欲以激燕王以尊子之也。於是燕王大信子之。子之因遺蘇代百金,而聽其所使。鹿毛壽謂燕王:「不如以國讓相子之。人之謂堯賢者,以其讓天下於許由,許由不受,有讓天下之名而實不失天下。今王以國讓於子之,子之必不敢受,是王與堯同行也。」燕王因屬國於子之,子之大重。
新字:湣公三十一年卒,釐公立。是歳,三晋列為諸侯。釐公三十年,伐敗斉于林営。釐公卒,桓公立。桓公十一年卒,文公立。是歳,秦献公卒。秦益彊。文公十九年,斉威王卒。二十八年,蘇秦始来見,説文公。文公予車馬金帛以至趙,趙粛侯用之。因約六国,為従長。秦恵王以其女為燕太子婦。二十九年,文公卒,太子立,是為易王。易王初立,斉宣王因燕喪伐我,取十城;蘇秦説斉,使復帰燕十城。十年,燕君為王。蘇秦与燕文公夫人私通,懼誅,乃説王使斉為反閒,欲以乱斉。易王立十二年卒,子燕噲立。燕噲既立,斉人殺蘇秦。蘇秦之在燕,与其相子之為婚,而蘇代与子之交。及蘇秦死,而斉宣王復用蘇代。燕噲三年,与楚、三晋攻秦,不勝而還。子之相燕,貴重,主断。蘇代為斉使於燕,燕王問曰:「斉王奚如?」対曰:「必不覇。」燕王曰:「何也?」対曰:「不信其臣。」蘇代欲以激燕王以尊子之也。於是燕王大信子之。子之因遺蘇代百金,而聴其所使。鹿毛寿謂燕王:「不如以国譲相子之。人之謂堯賢者,以其譲天下於許由,許由不受,有譲天下之名而実不失天下。今王以国譲於子之,子之必不敢受,是王与堯同行也。」燕王因属国於子之,子之大重。
書き下し
湣公三十一年にして卒し、釐公立つ。是の歳、三晋列して諸侯と為る。釐公の三十年、伐ちて斉を林営に敗る。釐公卒し、桓公立つ。桓公十一年にして卒し、文公立つ。是の歳、秦の献公卒す。秦益々彊し。文公の十九年、斉の威王卒す。二十八年、蘇秦始めて来たり見え、文公に説く。文公車馬金帛を予へて以て趙に至らしむ。趙の粛侯之を用ふ。因りて六国を約し、従長と為る。秦の恵王其の女を以て燕の太子の婦と為す。二十九年、文公卒し、太子立つ。是を易王と為す。易王初めて立つや、斉の宣王燕の喪に因りて我を伐ち、十城を取る。蘇秦斉に説き、復た燕に十城を帰さしむ。十年、燕君王と為る。蘇秦燕の文公の夫人と私通し、誅せられんことを懼れ、乃ち王に説きて斉に使ひして反間を為し、以て斉を乱さんと欲す。易王立ちて十二年にして卒し、子の燕噲(かい)立つ。燕噲既に立ち、斉人蘇秦を殺す。蘇秦の燕に在るや、其の相子之と婚を為し、而して蘇代子之と交はる。蘇秦死するに及びて、斉の宣王復た蘇代を用ふ。燕噲の三年、楚・三晋と秦を攻め、勝たずして還る。子之燕に相として、貴重にして断を主る。蘇代斉の為に燕に使ひす。燕王問ひて曰く、「斉王は奚如(いかん)」と。対へて曰く、「必ず覇たらず」と。燕王曰く、「何ぞや」と。対へて曰く、「其の臣を信ぜず」と。蘇代以て燕王を激して以て子之を尊ばしめんと欲するなり。是に於て燕王大いに子之を信ず。子之因りて蘇代に百金を遺り、而して其の使ふ所を聴く。鹿毛寿燕王に謂ふ、「国を以て相の子之に譲るに如かず。人の堯を賢と謂ふ者は、其の天下を許由に譲るを以てなり。許由受けず。天下を譲るの名有りて、実は天下を失はず。今王国を以て子之に譲らば、子之必ず敢て受けず。是れ王堯と行を同じくするなり」と。燕王因りて国を子之に属す。子之大いに重し。
現代語訳
湣公は在位三十一年で亡くなり、釐公が立った。この年、三晋(韓・魏・趙)が正式に諸侯に列せられた。釐公の三十年、燕は斉を攻めて林営で破った。釐公が亡くなり、桓公が立った。桓公は在位十一年で亡くなり、文公が立った。この年、秦の献公が亡くなり、秦はいよいよ強くなった。文公の十九年、斉の威王が亡くなった。二十八年、蘇秦が初めて燕に来て文公に会い、進言した。文公は蘇秦に車馬と金や絹を与えて趙へ向かわせ、趙の粛侯は蘇秦を用いた。蘇秦はそれを足がかりに六国の同盟(合従)を結び、その盟主となった。秦の恵王は自分の娘を燕の太子の妻にした。二十九年、文公が亡くなり、太子が立った。これが易王である。易王が即位したばかりのとき、斉の宣王は燕の喪中につけこんで攻め込み、十の城を奪った。蘇秦が斉を説得して、十城を燕に返させた。十年、燕の君主は王を名乗った。蘇秦は燕の文公の夫人と密通しており、処罰を恐れて、易王に説いて自分を斉に送り込ませ、内側から斉をかき乱す工作をしようとした。易王は在位十二年で亡くなり、子の燕噲(かい)が立った。燕噲が即位したのち、斉の人が蘇秦を殺した。蘇秦は燕にいたころ、宰相の子之と縁戚関係を結んでおり、蘇代(蘇秦の弟)も子之と親しかった。蘇秦が死ぬと、斉の宣王はあらためて蘇代を用いた。燕噲の三年、燕は楚・三晋とともに秦を攻めたが、勝てずに引き返した。子之は燕の宰相として重んじられ、政治の決定を一手に握っていた。蘇代が斉の使者として燕に来ると、燕王は尋ねた。「斉王はどうか」。蘇代は答えた。「決して覇者にはなれません」。燕王が「なぜか」と聞くと、答えた。「臣下を信じないからです」。蘇代はこう言って燕王を奮い立たせ、子之をいっそう重んじさせようとしたのである。こうして燕王は子之を深く信任した。子之はその礼に蘇代へ百金を贈り、その指図に従った。鹿毛寿は燕王に言った。「国を宰相の子之に譲るのがよいでしょう。人が堯を賢君と称えるのは、天下を許由に譲ろうとしたからだ。許由は受けませんでした。堯は天下を譲ったという名声を得ながら、実際には天下を失わなかったのだ。いま王が国を子之に譲っても、子之はきっと受けようとはしないでしょう。そうすれば王は堯と同じ行いをしたことになります」。燕王はそこで国政を子之に委ね、子之の権勢は非常に大きくなった。
解説
関連する章句
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戦国策・燕王噲既立燕王噲既に立ち、蘇秦齊に死す。蘇秦の燕に在るや、其の相子之と婚を為し、蘇代子之と交わる。蘇秦死するに及び、齊の宣王復た蘇代を用う。燕噲三年、楚・三晉と秦を攻め、勝たずして還る。子之燕に相たり、貴重にして主斷す。蘇代齊の爲に燕に使いし、燕王之に問いて曰く、「齊の宣王は何如ぞ」と。對えて曰く、「必ず霸たらず」と。燕王曰く、「何ぞや」と。對えて曰く、「其の臣を信ぜず」と。蘇代激するを以て燕王をして厚く子之に任ぜしめんと欲するなり。是に於て燕王大いに子之を信ず。子之因りて蘇代に百金を遺り、其の使う所を聽く。鹿毛壽燕王に謂いて曰く、「國を以て子之に讓るに如くは莫し。人堯を賢なりと謂うは、其の天下を許由に讓るを以てなり、由必ず受けず、天下を讓るの名有りて、實は天下を失わず。今王國を以て相子之に讓らば、子之必ず敢えて受けず、是れ王堯と行を同じくするなり」と。燕王因りて國を舉げて子之に屬す、子之大いに重し。或ひと曰く、「禹益に授けて啟を以て吏と為し、老いるに及び、啟を以て天下を任ずるに足らずと為し、之を益に傳う。啟支黨と益を攻めて之が天下を奪う、是れ禹名は天下を益に傳うれども、其の實は啟をして自ら之を取らしむ。今王國を子之に屬すと言うも、吏太子の人に非ざる無し、是れ名は子之に屬すれども、太子事を用うるなり」と。王因りて印を收め三百石の吏より自り之を子之に效す。子之南面して王事を行い、噲老いて政を聽かず、顧って臣と爲り、國事皆子之に決す。子之三年、燕國大いに亂れ、百姓恫怨す。將軍市被、太子平謀り、將に子之を攻めんとす。儲子齊の宣王に謂う、「因りて之を仆せば、燕を破ること必ず矣」と。王因りて人をして太子平に謂わしめて曰く、「寡人聞く太子の義、將に私を廢して公を立て、君臣の義を飭め、父子の位を正さんとすと。寡人の國小さく、先後するに足らず。然りと雖も、則ち唯だ太子の之を令する所ならん」と。太子因りて黨を數えて眾を聚め、將軍市被公宮を圍み、子之を攻むるも、克たず。將軍市被及び百姓乃ち反りて太子平を攻む。將軍市被死して已に殉ず、國難を構うること數月、死する者數萬の眾、燕人恫怨し、百姓意を離る。孟軻齊の宣王に謂いて曰く、「今燕を伐たば、此れ文・武の時なり、失うべからず」と。王因りて章子をして五都の兵を將いしめ、北地の眾に因るを以て燕を伐たしむ。士卒戰わず、城門閉ざさず、燕王噲死す。齊大いに燕に勝ち、子之亡ぶ。二年、燕人公子平を立つ、是を燕の昭王と為す。
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史記 蘇秦列伝対へて曰く、「天の時与せずんば、清済・濁河有りと雖も、悪くんぞ以て固めと為すに足らん。民力罷敝せば、長城・鉅防有りと雖も、悪くんぞ以て塞と為すに足らん。且つ異日済西に師せざるは、趙に備ふる所以なり。河北に師せざるは、燕に備ふる所以なり。今済西河北尽く已に役せり、封内敝れたり。夫れ驕君は必ず利を好み、而して亡国の臣は必ず財を貪る。王誠に能く子母弟を以て質と為すを羞づる無く、珠玉帛を宝として以て左右に事へば、彼将に燕を徳として宋を亡ぼすを軽んぜんとす、則ち斉亡ぼすべきのみ」と。燕王曰く、「吾終に子を以て命を天に受けたり」と。燕乃ち一子をして斉に質たらしむ。而して蘇厲燕の質子に因りて斉王に見えんことを求む。斉王蘇秦を怨み、蘇厲を囚へんと欲す。燕の質子為に謝し、已にして遂に質を委ねて斉の臣と為る。燕の相子之蘇代と婚し、而して燕の権を得んと欲し、乃ち蘇代をして質子に斉に侍せしむ。斉代をして燕に報ぜしむ、燕王噲問ひて曰く、「斉王其れ霸たらんか」と。曰く、「能はず」と。曰く、「何ぞや」と。曰く、「其の臣を信ぜず」と。是に於いて燕王専ら子之に任じ、已にして位を譲り、燕大いに乱る。斉燕を伐ち、王噲・子之を殺す。燕昭王を立て、而して蘇代・蘇厲遂に敢へて燕に入らず、皆終に斉に帰す、斉善く之を待す。蘇代魏を過る、魏燕の為に代を執ふ。斉人をして魏王に謂はしめて曰く、「斉宋の地を以て涇陽君を封ぜんことを請ふも、秦必ず受けず。秦斉を有ちて宋の地を得るを利とせざるに非ざるなり、斉王と蘇子とを信ぜざるなり。今斉魏の和せざること此くの如く其れ甚だしくば、則ち斉秦を欺かず。秦斉を信じ、斉秦合し、涇陽君宋の地を有するは、魏の利に非ざるなり。故に王蘇子を東するに如かず、秦必ず斉を疑ひて蘇子を信ぜざらん。斉秦合せずんば、天下変無く、斉を伐つの形成らん」と。是に於いて蘇代を出だす。代宋に之く、宋善く之を待す。
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史記 燕召公世家或ひと曰く、「禹、益を薦め、已にして啓の人を以て吏と為す。老ゆるに及びて、啓の人を以て天下を任ずるに足らずと為し、之を益に伝ふ。已にして啓交党と益を攻めて之を奪ふ。天下謂ふ、禹名は天下を益に伝へ、已にして実は啓をして自ら之を取らしむと。今王国を子之に属すと言ふも、吏は太子の人に非ざる者無し。是れ名は子之に属して、実は太子事を用ふるなり」と。王因りて印を三百石の吏より已上収めて之を子之に效(いた)す。子之南面して王事を行ひ、噲は老いて政を聴かず、顧って臣と為り、国事皆子之に決す。三年、国大いに乱れ、百姓恫恐す。将軍市被、太子平と謀り、将に子之を攻めんとす。諸将斉の湣王に謂ひて曰く、「因りて之に赴かば、燕を破ること必せり」と。斉王因りて人をして燕の太子平に謂はしめて曰く、「寡人聞く、太子の義、将に私を廃して公を立て、君臣の義を飭(ととの)へ、父子の位を明らかにせんとすと。寡人の国小にして、以て先後を為すに足らず。然りと雖も、則ち唯だ太子の之に令する所のままならん」と。太子因りて党を要し衆を聚め、将軍市被公宮を囲み、子之を攻むるも克たず。将軍市被及び百姓反って太子平を攻め、将軍市被死して、以て徇ふ。因りて難を搆ふること数月、死する者数万、衆人恫恐し、百姓志を離る。孟軻斉王に謂ひて曰く、「今燕を伐つは、此れ文・武の時なり、失ふべからず」と。王因りて章子をして五都の兵を将ゐ、以て北地の衆に因りて以て燕を伐たしむ。士卒戦はず、城門閉ぢず、燕君噲死し、斉大いに勝つ。燕の子之亡びて二年、燕人共に太子平を立つ。是を燕の昭王と為す。燕の昭王燕を破らるるの後に於て即位し、身を卑くし幣を厚くして以て賢者を招く。
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戦国策・初蘇秦弟厲因燕質子而求見齊王初め、蘇秦の弟厲、燕の質子に因りて齊王に見えんことを求む。齊王蘇秦を怨み、厲を囚えんと欲するも、燕の質子謝を為して乃ち已む、遂に質を委ねて臣と為る。燕の相子之、蘇代と婚し、燕の權を得んと欲し、乃ち蘇代をして質子を齊に持せしむ。齊代をして燕に報ぜしむ、燕王噲問いて曰く、「齊王は其れ伯たるか」と。曰く、「能わず」と。曰く、「何ぞや」と。曰く、「其の臣を信ぜず」と。是に於て燕王專ら子之に任じ、已にして位を讓り、燕大いに亂る。齊燕を伐ち、王噲・子之を殺す。燕昭王を立つ。而して蘇代・厲遂に敢えて燕に入らず、皆終に齊に歸し、齊善く之を待す。蘇代魏を過ぐるに、魏燕の爲に代を執う。齊人をして魏王に謂わしめて曰く、「齊宋を以て涇陽君に封ぜんことを請うも、秦受けず。秦齊有りて宋埊を得るを利とせざるに非ざるなり、齊王と蘇子とを信ぜざるなり。今齊・魏和せざること、此くの如く其れ甚だし、則ち齊秦を欺かず。秦齊を信じ、齊・秦合せば、涇陽君宋地を有たん、魏の利に非ざるなり。故に王蘇子を東するに如くは莫く、秦必ず疑いて蘇子を信ぜざらん。齊・秦合せずんば、天下變無く、齊を伐つの形成らん」と。是に於て蘇代を出だして之を宋に伐り、宋善く之を待す。
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史記 燕召公世家十七年、鄭、燕の仲父を執へて恵王を周に内(い)る。二十七年、山戎来たりて我を侵す。斉の桓公燕を救ひ、遂に北のかた山戎を伐ちて還る。燕君斉の桓公を送りて境を出づ。桓公因りて燕の至る所の地を割きて燕に予へ、燕をして共に天子に貢がしむること、成周の時の職の如くし、燕をして復た召公の法を修めしむ。三十三年卒し、子の襄公立つ。襄公の二十六年、晋の文公践土の会を為し、伯と称す。三十一年、秦の師殽に敗る。三十七年、秦の穆公卒す。四十年、襄公卒し、桓公立つ。桓公十六年にして卒し、宣公立つ。宣公十五年にして卒し、昭公立つ。昭公十三年にして卒し、武公立つ。是の歳、晋三郤大夫を滅ぼす。武公十九年にして卒し、文公立つ。文公六年にして卒し、懿公立つ。懿公の元年、斉の崔杼其の君荘公を弑す。四年にして卒し、子の恵公立つ。恵公の元年、斉の高止来奔す。六年、恵公寵姫多く、公諸大夫を去りて寵姫宋を立てんと欲す。大夫共に姫宋を誅す。恵公懼れて斉に奔る。四年、斉の高偃晋に如き、共に燕を伐ちて其の君を入れんことを請ふ。晋の平公許し、斉と燕を伐ちて恵公を入る。恵公燕に至りて死す。燕、悼公を立つ。悼公七年にして卒し、共公立つ。共公五年にして卒し、平公立つ。晋の公室卑く、六卿始めて彊大なり。平公の十八年、呉王闔閭楚を破りて郢に入る。十九年卒し、簡公立つ。簡公十二年にして卒し、献公立つ。晋の趙鞅范・中行を朝歌に囲む。献公の十二年、斉の田常其の君簡公を弑す。十四年、孔子卒す。二十八年、献公卒し、孝公立つ。孝公の十二年、韓・魏・趙知伯を滅ぼし、其の地を分かち、三晋彊し。十五年、孝公卒し、成公立つ。成公十六年にして卒し、湣公立つ。
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史記 蘇秦列伝初め、蘇秦の燕に之くや、人に百銭を貸りて資と為す、乃ち富貴を得て、百金を以て之を償ふ。遍く諸々の嘗て徳とせらるる所の者に報ゆ。其の従者に一人独り未だ報を得ざる者有り、乃ち前みて自ら言ふ。蘇秦曰く、「我子を忘るるに非ず。子の我と燕に至るや、再三我を易水の上に去らんと欲す、是の時に方りて、我困しむ、故に子を望むこと深し、是を以て子を後にす、子今亦之を得たり。蘇秦既に六国を約して従親せしめ、趙に帰る、趙の粛侯封じて武安君と為す、乃ち従約の書を秦に投ず。秦の兵敢へて函谷関を闚はざること十五年。其の後秦犀首をして斉・魏を欺かしめ、与に共に趙を伐ち、従約を敗らんと欲す。斉・魏趙を伐つ、趙王蘇秦を譲む。蘇秦恐れ、燕に使ひして、必ず斉に報いんことを請ふ。蘇秦趙を去りて従約皆解く。秦の恵王其の女を以て燕の太子の婦と為す。是の歳、文侯卒し、太子立つ、是れ燕の易王為り。易王初めて立つに、斉の宣王燕の喪に因りて燕を伐ち、十城を取る。易王蘇秦に謂ひて曰く、「往日先生燕に至り、而して先王先生に資して趙に見えしめ、遂に六国を約して従はしむ。今斉先づ趙を伐ち、次いで燕に至る、先生の故を以て天下の笑ひと為る、先生能く燕の為に侵地を得んか」と。蘇秦大いに慚ぢて、曰く、「請ふ王の為に之を取らん」と。蘇秦斉王に見え、再拝し、俯して慶し、仰ぎて弔す。斉王曰く、「是れ何ぞ慶弔の相随ふことの速やかなるや」と。蘇秦曰く、「臣聞く、飢人の飢うる所以にして烏喙を食らはざる者は、其の愈々腹を充たして餓死と患ひを同じくするが為なりと。今燕弱小なりと雖も、即ち秦王の少壻なり。大王其の十城を利として長く彊秦と仇を為す。今弱燕をして鴈行を為さしめ、彊秦其の後に敝ひ、以て天下の精兵を招く、是れ烏喙を食らふの類なり」と。斉王愀然として色を変じて曰く、「然らば則ち奈何せん」と。蘇秦曰く、「臣聞く、古の善く事を制する者は、禍を転じて福と為し、敗に因りて功と為すと。
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