史記 / 魯周公世家
請爲子殺隱公。」子允許諾。十一月,隱公祭鐘巫,齊于社圃,館于蒍氏。揮使人殺隱公于蒍氏,而立子允爲君,是爲桓公。桓公元年,鄭以璧易天子之許田。二年,以宋之賂鼎入於太廟,君子譏之。三年,使揮迎婦于齊爲夫人。六年,夫人生子,與桓公同日,故名曰同。同長,爲太子。十六年,會于曹,伐鄭,入厲公。十八年春,公將有行,遂與夫人如齊。申繻諫止,公不聽,遂如齊。齊襄公通桓公夫人。公怒夫人,夫人以告齊矦。夏四月丙子,齊襄公饗公,公醉,使公子彭生抱魯桓公,因命彭生摺其脅,公死于車。魯人告于齊曰:『寡君畏君之威,不敢寧居,來修好禮。禮成而不反,無所歸咎,請得彭生除丑於諸矦。』齊人殺彭生以說魯。立太子同,是爲莊公。莊公母夫人因留齊,不敢歸魯。莊公五年冬,伐衛,內衛惠公。八年,齊公子糾來奔。九年,魯欲內子糾於齊,後桓公,桓公發兵擊魯,魯急,殺子糾。召忽死。齊告魯生致管仲。魯人施伯曰:『齊欲得管仲,非殺之也,將用之,用之則爲魯患。不如殺,以其尸與之。』莊公不聽,遂囚管仲與齊。齊人相管仲。十三年,魯莊公與曹沬會齊桓公於柯,曹沬劫齊桓公,求魯侵地,已盟而釋桓公。桓公欲背約,管仲諫,卒歸魯侵地。
新字:請為子殺隠公。」子允許諾。十一月,隠公祭鐘巫,斉于社圃,館于蒍氏。揮使人殺隠公于蒍氏,而立子允為君,是為桓公。桓公元年,鄭以璧易天子之許田。二年,以宋之賂鼎入於太廟,君子譏之。三年,使揮迎婦于斉為夫人。六年,夫人生子,与桓公同日,故名曰同。同長,為太子。十六年,会于曹,伐鄭,入厲公。十八年春,公将有行,遂与夫人如斉。申繻諫止,公不聴,遂如斉。斉襄公通桓公夫人。公怒夫人,夫人以告斉矦。夏四月丙子,斉襄公饗公,公酔,使公子彭生抱魯桓公,因命彭生摺其脅,公死于車。魯人告于斉曰:『寡君畏君之威,不敢寧居,来修好礼。礼成而不反,無所帰咎,請得彭生除丑於諸矦。』斉人殺彭生以説魯。立太子同,是為荘公。荘公母夫人因留斉,不敢帰魯。荘公五年冬,伐衛,内衛恵公。八年,斉公子糾来奔。九年,魯欲内子糾於斉,後桓公,桓公発兵撃魯,魯急,殺子糾。召忽死。斉告魯生致管仲。魯人施伯曰:『斉欲得管仲,非殺之也,将用之,用之則為魯患。不如殺,以其尸与之。』荘公不聴,遂囚管仲与斉。斉人相管仲。十三年,魯荘公与曹沬会斉桓公於柯,曹沬劫斉桓公,求魯侵地,已盟而釈桓公。桓公欲背約,管仲諫,卒帰魯侵地。
書き下し
請ふ子の為に隠公を殺さん」と。子允許諾す。十一月、隠公、鍾巫を祭り、社圃に斉し、蒍氏に館す。揮、人をして隠公を蒍氏に殺さしめ、而して子允を立てて君と為す。是れを桓公と為す。桓公の元年、鄭、璧を以て天子の許田に易ふ。二年、宋の賂鼎を以て太廟に入る。君子之を譏る。三年、揮をして婦を斉に迎へて夫人と為さしむ。六年、夫人子を生む。桓公と日を同じくす。故に名づけて同と曰ふ。同長じ、太子と為る。十六年、曹に会し、鄭を伐ち、厲公を入る。十八年春、公将に行くこと有らんとし、遂に夫人と斉に如く。申繻諫めて止むるも、公聴かず、遂に斉に如く。斉の襄公、桓公の夫人に通ず。公、夫人を怒る。夫人以て斉侯に告ぐ。夏四月丙子、斉の襄公、公を饗す。公酔ふ。公子彭生をして魯の桓公を抱かしめ、因りて彭生に命じて其の脅を摺かしむ。公、車に死す。魯人、斉に告げて曰く、「寡君、君の威を畏れ、敢て寧居せず、来りて好礼を修む。礼成りて反らず。咎を帰する所無し。請ふ彭生を得て丑を諸侯に除かん」と。斉人、彭生を殺して以て魯に説く。太子同を立つ。是れを荘公と為す。荘公の母夫人、因りて斉に留まり、敢て魯に帰らず。荘公の五年冬、衛を伐ち、衛の恵公を内る。八年、斉の公子糾来奔す。九年、魯、子糾を斉に内れんと欲するも、桓公に後る。桓公、兵を発して魯を撃つ。魯急にして、子糾を殺す。召忽死す。斉、魯に告げて生きながら管仲を致さしむ。魯人施伯曰く、「斉の管仲を得んと欲するは、之を殺すに非ず、将に之を用ひんとするなり。之を用ひば則ち魯の患と為らん。殺して其の尸を以て之に与ふるに如かず」と。荘公聴かず、遂に管仲を囚にして斉に与ふ。斉人、管仲を相とす。十三年、魯の荘公、曹沬と斉の桓公に柯に会す。曹沬、斉の桓公を劫かし、魯の侵地を求め、已に盟ひて桓公を釈く。桓公約に背かんと欲す。管仲諫め、卒に魯の侵地を帰す。
現代語訳
どうか私にあなたのために隠公を殺させてほしい」。子允は承諾した。十一月、隠公は鍾巫を祭るため、社の庭で斎戒し、蒍(い)氏の家に泊まった。揮は人に命じて蒍氏の家で隠公を殺させ、子允を君主に立てた。これが桓公である。桓公の元年、鄭は璧を添えて天子から賜った許田と交換した。二年、宋から賄賂として贈られた鼎を太廟に納めた。君子はこれを非難した。三年、揮に斉から花嫁を迎えさせて夫人とした。六年、夫人が子を生んだ。桓公と同じ誕生日だったので、同と名づけた。同は成長して太子となった。十六年、曹で会盟し、鄭を討って鄭の厲公を国に戻した。十八年の春、桓公は出かけることになり、夫人とともに斉に行った。申繻(しんじゅ)が諫めて止めたが、桓公は聞き入れず、そのまま斉に行った。斉の襄公は桓公の夫人と密通した。桓公は夫人に怒った。夫人はそのことを斉侯に告げた。夏四月丙子の日、斉の襄公は桓公をもてなした。桓公が酔うと、公子彭生に魯の桓公を抱きかかえさせ、そのとき彭生に命じて肋骨を砕かせた。桓公は車の中で死んだ。魯の人々は斉に告げて言った。「我が君はあなたの威光を畏れ、安閑としてはいられず、友好の礼を修めに参上した。礼が終わったのに帰ってこない。責任を帰すところがない。どうか彭生を差し出して、諸侯の間での恥を除いてほしい」。斉の人々は彭生を殺して魯の怒りをなだめた。魯は太子の同を立てた。これが荘公である。荘公の母の夫人はそのまま斉にとどまり、魯に帰ろうとしなかった。荘公の五年の冬、衛を討ち、衛の恵公を国に戻した。八年、斉の公子糾が魯に逃げてきた。九年、魯は子糾を斉に送り込んで君主にしようとしたが、斉の桓公に後れをとった。斉の桓公は兵を出して魯を攻めた。魯は追い詰められ、子糾を殺した。召忽は死んだ。斉は魯に、管仲を生きたまま引き渡すよう求めた。魯の施伯は言った。「斉が管仲を欲しがっているのは殺すためではなく、用いるためだ。管仲が用いられれば魯の災いとなる。殺してその遺体を渡すにこしたことはない」。荘公は聞き入れず、管仲を捕らえたまま斉に引き渡した。斉の人々は管仲を宰相とした。十三年、魯の荘公は曹沬とともに斉の桓公と柯で会見した。曹沬は斉の桓公を脅して魯から奪った土地の返還を求め、盟約を結ぶと桓公を解放した。桓公は約束に背こうとしたが、管仲が諫めて、結局魯から奪った土地を返した。
解説
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史記 斉太公世家良久しくして、無知等恐れ、遂に宮に入る。茀反りて宮中及び公の幸臣と無知等を攻むるも、勝たず、皆死す。無知宮に入り、公を求むるも得ず。或ひと人の足を戸の間に見る。発きて視れば、乃ち襄公なり。遂に之を弑して、無知自ら立ちて斉の君と為る。桓公の元年春、斉の君無知、雍林に游ぶ。雍林の人嘗て無知に怨有り。其の往きて游ぶに及び、雍林の人、無知を襲殺し、斉の大夫に告げて曰く、「無知、襄公を弑して自立す。臣謹みて誅を行へり。唯大夫更めて公子の当に立つべき者を立てよ。唯命を是れ聴かん」と。初め、襄公の酔ひて魯の桓公を殺し、其の夫人に通じ、殺誅数々当らず、婦人に淫し、数々大臣を欺く。群弟禍の及ばんことを恐る。故に次弟糾は魯に奔る。其の母は魯の女なり。管仲・召忽之に傅たり。次弟小白は莒に奔る。鮑叔之に傅たり。小白の母は衛の女にして、釐公に寵有り。小白は少きより大夫高傒に善し。雍林の人の無知を殺すに及び、君を立てんことを議す。高・国先づ陰かに小白を莒より召す。魯も無知の死せるを聞き、亦兵を発して公子糾を送り、而して管仲をして別に兵を将ゐて莒の道を遮らしむ。小白の帯鉤を射中つ。小白詳りて死す。管仲、人をして馳せて魯に報ぜしむ。魯の糾を送る者、行くこと益々遅く、六日にして斉に至れば、則ち小白已に入り、高傒之を立つ。是れを桓公と為す。桓公の鉤に中るや、詳りて死して以て管仲を誤り、已にして温車の中に載せて馳せ行き、亦高・国の内応有り、故に先づ入りて立つを得て、兵を発して魯を距ぐ。秋、魯と乾時に戦ふ。魯の兵敗走す。斉の兵、魯の帰道を掩ひ絶つ。斉、魯に書を遺りて曰く、「子糾は兄弟なり、誅するに忍びず。請ふ魯自ら之を殺せ。召忽・管仲は讎なり。請ふ得て心を甘んじて之を醢にせん。然らずんば、将に魯を囲まんとす」と。魯人之を患ひ、遂に子糾を笙瀆に殺す。召忽自殺し、管仲囚と為らんことを請ふ。
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史記 斉太公世家忽曰く、「鄭は小にして斉は大なり、我が敵に非ず」と。遂に之を辞す。三十二年、釐公の同母弟夷仲年死す。其の子を公孫無知と曰ふ。釐公之を愛し、其の秩服奉養をして太子に比せしむ。三十三年、釐公卒し、太子諸児立つ。是れを襄公と為す。襄公の元年、始め太子為りし時、嘗て無知と闘ふ。立つに及び、無知の秩服を絀く。無知怨む。四年、魯の桓公、夫人と斉に如く。斉の襄公は故嘗て魯の夫人と私通す。魯の夫人とは、襄公の女弟なり。釐公の時より嫁して魯の桓公の婦と為る。桓公の来るに及びて襄公復た通ず。魯の桓公之を知り、夫人を怒る。夫人以て斉の襄公に告ぐ。斉の襄公、魯君と飲み、之を酔はしめ、力士彭生をして抱きて魯君の車に上らしめ、因りて魯の桓公を拉殺す。桓公車を下れば則ち死せり。魯人以て譲を為す。而して斉の襄公、彭生を殺して以て魯に謝す。八年、紀を伐つ。紀、遷りて其の邑を去る。十二年、初め、襄公、連称・管至父をして葵丘を戍らしむ。瓜の時にして往き、瓜に及びて代らしめんとす。往きて戍ること一歳、瓜の時を卒ふるも公は為に代を発せず。或ひと為に代を請ふも、公許さず。故に此の二人怒り、公孫無知に因りて乱を作さんと謀る。連称に従妹有りて公宮に在り、寵無し。之をして襄公を間はしめて、曰く「事成らば女を以て無知の夫人と為さん」と。冬十二月、襄公、姑棼に游び、遂に沛丘に猟す。彘を見る。従者曰く「彭生なり」と。公怒りて之を射る。彘、人のごとく立ちて啼く。公懼れ、車より墜ちて足を傷つけ、屨を失ふ。反りて屨を主る者茀を鞭うつこと三百。茀、宮を出づ。而して無知・連称・管至父等、公の傷つけるを聞き、乃ち遂に其の衆を率ゐて宮を襲ふ。屨を主る茀に逢ふ。茀曰く、「且く入りて宮を驚かすこと無かれ。宮を驚かさば未だ入り易からざるなり」と。無知信ぜず。茀、之に創を示す。乃ち之を信ず。宮外に待ち、茀をして先づ入らしむ。茀先づ入り、即ち襄公を戸の間に匿す。
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史記 魯周公世家斉の恵公の二年、鄋瞞、斉を伐つ。斉の王子城父、其の弟栄如を獲て、其の首を北門に埋む。衛人、其の季弟簡如を獲たり。鄋瞞是に由りて遂に亡ぶ。十五年、季文子、晋に使す。十八年二月、文公卒す。文公に二妃有り。長妃は斉の女にして哀姜と為し、子悪及び視を生む。次妃は敬嬴、嬖愛せられ、子俀を生む。俀私かに襄仲に事ふ。襄仲之を立てんと欲す。叔仲、不可なりと曰ふ。襄仲、斉の恵公に請ふ。恵公新たに立ち、魯に親しまんと欲し、之を許す。冬十月、襄仲、子悪及び視を殺して俀を立つ。是れを宣公と為す。哀姜斉に帰り、哭して市を過ぎて、曰く、「天か。襄仲、不道を為し、適を殺して庶を立つ」と。市人皆哭す。魯人之を『哀姜』と謂ふ。魯是に由りて公室卑しく、三桓彊し。宣公俀の十二年、楚の荘王彊く、鄭を囲む。鄭伯降り、復た之を国せしむ。十八年、宣公卒し、子の成公黒肱立つ。是れを成公と為す。季文子曰く、「我をして適を殺して庶を立て大援を失はしめし者は、襄仲なり」と。襄仲、宣公を立て、公孫帰父寵有り。宣公、三桓を去らんと欲し、晋と謀りて三桓を伐たんとす。会々宣公卒す。季文子之を怨み、帰父、斉に奔る。成公の二年春、斉、伐ちて我が隆を取る。夏、公、晋の郤克と斉の頃公を鞍に敗り、斉復た我が侵地を帰す。四年、成公、晋に如く。晋の景公、魯を敬せず。魯、晋に背きて楚に合はんと欲す。或ひと諫め、乃ち不す。十年、成公、晋に如く。晋の景公卒す。因りて成公を留めて葬を送らしむ。魯之を諱む。十五年、始めて呉王寿夢と鐘離に会す。十六年、宣伯、晋に告げて、季文子を誅せんと欲す。文子に義有り、晋人許さず。十八年、成公卒し、子の午立つ。是れを襄公と為す。是の時、襄公三歳なり。襄公の元年、晋、悼公を立つ。往年冬、晋の欒書、其の君厲公を弑す。
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史記 斉太公世家五月壬辰、霊公卒す。荘公即位し、太子牙を句竇の丘に執へて、之を殺す。八月、崔杼、高厚を殺す。晋、斉の乱を聞き、斉を伐ちて高唐に至る。荘公の三年、晋の大夫欒盈、斉に奔る。荘公厚く客として之を待す。晏嬰・田文子諫むるも、公聴かず。四年、斉の荘公、欒盈をして間かに晋の曲沃に入りて内応と為らしめ、兵を以て之に随ひ、太行に上り、孟門に入る。欒盈敗れ、斉の兵還りて、朝歌を取る。六年、初め、棠公の妻好し。棠公死し、崔杼之を取る。荘公之に通じ、数々崔氏に如き、崔杼の冠を以て人に賜ふ。待者曰く、「不可なり」と。崔杼怒り、其の晋を伐つに因りて、晋と合謀して斉を襲はんと欲するも間を得ず。荘公嘗て宦者賈挙を笞うつ。賈挙復た侍し、崔杼の為に公を間ひて以て怨に報ゆ。五月、莒子斉に朝す。斉、甲戌を以て之を饗す。崔杼病と称して事を視ず。乙亥、公、崔杼の病を問ひ、遂に崔杼の妻に従ふ。崔杼の妻室に入り、崔杼と自ら戸を閉ぢて出でず。公、柱を擁して歌ふ。宦者賈挙、公の従官を遮りて入り、門を閉づ。崔杼の徒、兵を持ちて中より起る。公、台に登りて解かんことを請ふも、許さず。盟はんことを請ふも、許さず。自ら廟に殺さんことを請ふも、許さず。皆曰く、「君の臣杼、疾病にして、命を聴く能はず。公宮に近し。陪臣、淫する者有るを争ひ趣へ、二命を知らず」と。公、墻を踰ゆ。公の股を射中つ。公反りて墜つ。遂に之を弑す。晏嬰、崔杼の門外に立ちて、曰く、「君、社稷の為に死すれば則ち之に死し、社稷の為に亡ぐれば則ち之に亡ぐ。若し己の為に死し己の為に亡ぐれば、其の私暱に非ずんば、誰か敢て之に任ぜん」と。門開きて入り、公の尸を枕にして哭し、三たび踴りて出づ。人、崔杼に謂ふ、「必ず之を殺せ」と。崔杼曰く、「民の望なり。之を舎けば民を得ん」と。丁丑、崔杼、荘公の異母弟杵臼を立つ。是れを景公と為す。景公の母は、魯の叔孫宣伯の女なり。
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『管子』大匡魯の桓公の夫人文姜は、齊の女なり。公將に齊に如かんとし、夫人と皆行かんとす。申俞諫めて曰く、「不可なり。女に家有り、男に室有り、相瀆す無き、之を禮有りと謂う」と。公聽かず、遂に文姜を以て齊侯と濼に會す。文姜齊侯に通ず、桓公聞きて、文姜を責む。文姜齊侯に告ぐ、齊侯怒り、公を饗し、公子彭生をして魯侯に乘らしめ、之を脅す、公車に薨ず。豎曼曰く、「賢者は忠に死して以て疑を振るう、百姓焉に寓す。智者は理を究めて長く慮る、身焉に免るるを得。今彭生は君に二にして、盡言無くして諛行し、以て我が君に戲れ、我が君をして親戚の禮命を失わしめ、又た力めて吾が君の禍を成し、以て二國の怨みを構う、彭生其れ免るるを得んや、禍の理焉に屬す。夫れ君は怒を以て禍を遂げ、惡親を畏れず、聞きて昬生を容る、醜づる無きなり、豈に彭生に及びて能く之を止めんや。魯若し誅有らば、必ず彭生を以て說と為さん」と。二月、魯人齊に告げて曰く、「寡君君の威を畏れ、敢えて寧居せず、來たりて舊好を修む、禮成りて反らず、死に歸する所無し、請う彭生を以て之を除かん」と。齊人為に彭生を殺し、以て魯に謝す。
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史記 斉太公世家燕の荘公遂に桓公を送りて斉の境に入る。桓公曰く、「天子に非ずんば、諸侯相送るに境を出でず。吾以て燕に無礼なる可からず」と。是に於て溝を分ちて燕君の至る所を割きて燕に与へ、燕君に命じて復た召公の政を修め、貢を周に納れしむること、成・康の時の如し。諸侯之を聞き、皆斉に従ふ。二十七年、魯の湣公の母を哀姜と曰ふ。桓公の女弟なり。哀姜、魯の公子慶父に淫す。慶父、湣公を弑す。哀姜、慶父を立てんと欲す。魯人更めて釐公を立つ。桓公、哀姜を召して之を殺す。二十八年、衛の文公に狄の乱有り、急を斉に告ぐ。斉、諸侯を率ゐて楚丘に城きて衛君を立つ。二十九年、桓公、夫人蔡姫と船中に戯る。蔡姫水に習ひ、公を蕩かす。公懼れて之を止むるも、止めず。船を出でて怒り、蔡姫を帰すも、絶たず。蔡も亦怒り、其の女を嫁す。桓公聞きて怒り、師を興して往きて伐つ。三十年春、斉の桓公、諸侯を率ゐて蔡を伐つ。蔡潰ゆ。遂に楚を伐つ。楚の成王、師を興して問ひて曰く、「何の故に吾が地に渉るや」と。管仲対へて曰く、「昔、召康公、我が先君太公に命じて曰く、『五侯九伯、若実に之を征し、以て周室を夾輔せよ』と。我が先君に履を賜ふ、東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。楚の貢の包茅入らず、王の祭具はらず。是を以て来り責む。昭王南征して復らず。是を以て来り問ふ」と。楚王曰く、「貢の入らざるは、之有り、寡人の罪なり。敢て共せざらんや。昭王の出でて復らざるは、君其れ之を水浜に問へ」と。斉の師進みて陘に次る。夏、楚王、屈完をして兵を将ゐて斉を捍がしむ。斉の師退きて召陵に次る。桓公、其の衆を以て屈完に矜る。屈完曰く、「君、道を以てせば則ち可なり。若し不ずんば、則ち楚は方城以て城と為し、江・漢以て溝と為す。君安んぞ能く進まんや」と。乃ち屈完と盟ひて去る。陳を過ぐ。陳の袁濤塗、斉を詐り、東方に出でしむ。覚る。秋、斉、陳を伐つ。
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