史記 / 魯周公世家
伯禽即位之後,有管、蔡等反也,淮夷、徐戎亦并興反。於是伯禽率師伐之於肸,作肸誓,曰:『陳爾甲胄,無敢不善。無敢傷牿。馬牛其風,臣妾逋逃,勿敢越逐,敬復之。無敢寇攘,踰墻垣。魯人三郊三隧,峙爾芻茭、糗糧、楨榦,無敢不逮。我甲戌筑而征徐戎,無敢不及,有大刑。』作此肸誓,遂平徐戎,定魯。魯公伯禽卒,子考公酋立。考公四年卒,立弟熙,是謂煬公。煬公筑茅闕門。六年卒,子幽公宰立。幽公十四年,幽公弟沸殺幽公而自立,是爲魏公。魏公五十年卒,子厲公擢立。厲公三十七年卒,魯人立其弟具,是爲獻公。獻公三十二年卒,子真公濞立。真公十四年,周厲王無道,出奔彘,共和行政。二十九年,周宣王即位。武公九年春,武公與長子括,少子戲,西朝周宣王。宣王愛戲,欲立戲爲魯太子。周之樊仲山父諫宣王曰:『廢長立少,不順;不順,必犯王命;犯王命,必誅之:故出令不可不順也。令之不行,政之不立;行而不順,民將棄上。夫下事上,少事長,所以爲順。今天子建諸矦,立其少,是教民逆也。若魯從之,諸矦效之,王命將有所壅;若弗從而誅之,是自誅王命也。誅之亦失,不誅亦失,王其圖之。』宣王弗聽,卒立戲爲魯太子。夏,武公歸而卒,戲立,是爲懿公。
新字:伯禽即位之後,有管、蔡等反也,淮夷、徐戎亦并興反。於是伯禽率師伐之於肸,作肸誓,曰:『陳爾甲胄,無敢不善。無敢傷牿。馬牛其風,臣妾逋逃,勿敢越逐,敬復之。無敢寇攘,踰墻垣。魯人三郊三隧,峙爾芻茭、糗糧、楨榦,無敢不逮。我甲戌筑而征徐戎,無敢不及,有大刑。』作此肸誓,遂平徐戎,定魯。魯公伯禽卒,子考公酋立。考公四年卒,立弟熙,是謂煬公。煬公筑茅闕門。六年卒,子幽公宰立。幽公十四年,幽公弟沸殺幽公而自立,是為魏公。魏公五十年卒,子厲公擢立。厲公三十七年卒,魯人立其弟具,是為献公。献公三十二年卒,子真公濞立。真公十四年,周厲王無道,出奔彘,共和行政。二十九年,周宣王即位。武公九年春,武公与長子括,少子戯,西朝周宣王。宣王愛戯,欲立戯為魯太子。周之樊仲山父諫宣王曰:『廃長立少,不順;不順,必犯王命;犯王命,必誅之:故出令不可不順也。令之不行,政之不立;行而不順,民将棄上。夫下事上,少事長,所以為順。今天子建諸矦,立其少,是教民逆也。若魯従之,諸矦効之,王命将有所壅;若弗従而誅之,是自誅王命也。誅之亦失,不誅亦失,王其図之。』宣王弗聴,卒立戯為魯太子。夏,武公帰而卒,戯立,是為懿公。
書き下し
伯禽即位の後、管・蔡等の反する有り。淮夷・徐戎も亦并せ興りて反す。是に於て伯禽、師を率ゐて之を肸に伐ち、肸誓を作りて、曰く、「爾の甲冑を陳ね、敢て善からざる無かれ。敢て牿を傷つくる無かれ。馬牛其れ風し、臣妾逋逃するも、敢て越えて逐ふ勿かれ、敬みて之を復せ。敢て寇攘して、墻垣を踰ゆる無かれ。魯人の三郊三隧、爾の芻茭・糗糧・楨榦を峙へよ、敢て逮ばざる無かれ。我、甲戌に築きて徐戎を征す。敢て及ばざる無かれ。大刑有らん」と。此の肸誓を作り、遂に徐戎を平げ、魯を定む。魯公伯禽卒し、子の考公酋立つ。考公四年にして卒し、弟熙を立つ。是れを煬公と謂ふ。煬公、茅闕門を築く。六年にして卒し、子の幽公宰立つ。幽公の十四年、幽公の弟沸、幽公を殺して自立す。是れを魏公と為す。魏公五十年にして卒し、子の厲公擢立つ。厲公三十七年にして卒し、魯人其の弟具を立つ。是れを献公と為す。献公三十二年にして卒し、子の真公濞立つ。真公の十四年、周の厲王無道にして、出でて彘に奔り、共和して政を行ふ。二十九年、周の宣王即位す。武公の九年春、武公、長子括・少子戯と、西のかた周の宣王に朝す。宣王、戯を愛し、戯を立てて魯の太子と為さんと欲す。周の樊仲山父、宣王を諫めて曰く、「長を廃して少を立つるは、順ならず。順ならざれば、必ず王命を犯す。王命を犯せば、必ず之を誅す。故に令を出すは順ならざる可からざるなり。令の行はれざるは、政の立たざるなり。行はれて順ならざれば、民将に上を棄てんとす。夫れ下の上に事へ、少の長に事ふるは、順を為す所以なり。今、天子諸侯を建て、其の少を立つるは、是れ民に逆を教ふるなり。若し魯之に従ひ、諸侯之に効はば、王命将に壅がる所有らんとす。若し従はずして之を誅すれば、是れ自ら王命を誅するなり。之を誅するも亦失ひ、誅せざるも亦失ふ。王其れ之を図れ」と。宣王聴かず、卒に戯を立てて魯の太子と為す。夏、武公帰りて卒し、戯立つ。是れを懿公と為す。
現代語訳
伯禽が即位した後、管叔・蔡叔らの反乱があった。淮夷と徐戎もあわせて起こって反乱した。そこで伯禽は軍を率いて肸(きつ)の地でこれを討ち、「肸誓」を作って言った。「お前たちの鎧と兜を並べて整え、手入れを怠るな。囲いの中の牛馬を傷つけるな。牛馬が逃げ出したり、召使いの男女が逃げたりしても、勝手に持ち場を越えて追いかけてはならない。つつしんで元の持ち主に返せ。略奪したり、垣根を乗り越えたりしてはならない。魯の人々のうち三郊三隧(都の外の地域)の者は、まぐさ・干し飯・築城用の板や柱を用意しておけ。不足があってはならない。私は甲戌の日に砦を築いて徐戎を征伐する。遅れる者がいてはならない。遅れれば重い刑罰を科す」。この「肸誓」を作って、ついに徐戎を平定し、魯を安定させた。魯公伯禽が亡くなり、子の考公酋が立った。考公は四年で亡くなり、弟の熙を立てた。これを煬公という。煬公は茅闕門を築いた。六年で亡くなり、子の幽公宰が立った。幽公の十四年、幽公の弟の沸が幽公を殺して自ら立った。これが魏公である。魏公は五十年で亡くなり、子の厲公擢が立った。厲公は三十七年で亡くなり、魯の人々はその弟の具を立てた。これが献公である。献公は三十二年で亡くなり、子の真公濞が立った。真公の十四年、周の厲王は無道であったため国外に出て彘に逃げ、共和の政治が行われた。二十九年、周の宣王が即位した。武公の九年の春、武公は長男の括と末子の戯とともに、西の周に行って宣王に朝見した。宣王は戯をかわいがり、戯を魯の太子に立てようとした。周の樊仲山父(はんちゅうざんぽ)が宣王を諫めて言った。「長男を廃して末子を立てるのは、道理に従わないことだ。道理に従わなければ、必ず王命に背く者が出る。王命に背けば、必ず誅罰しなければならない。だから命令を出すときは道理に従わなければならないのだ。命令が行われなければ政治は成り立たない。行われても道理に従わなければ、民は上を見捨てるだろう。そもそも下の者が上の者に仕え、年少者が年長者に仕えることが、道理に従うということである。今、天子が諸侯を立てるにあたって年少者を立てるのは、民に逆らうことを教えることになる。もし魯がこれに従い、諸侯がそれをまねれば、王命は行き詰まるだろう。もし魯が従わずにこれを誅罰すれば、王が自ら王命を誅することになる。誅罰しても失い、誅罰しなくても失う。王はよくお考えいただきたい」。宣王は聞き入れず、ついに戯を魯の太子に立てた。夏、武公は帰国して亡くなり、戯が立った。これが懿公である。
解説
関連する章句
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史記 魯周公世家懿公の九年、懿公の兄括の子伯御、魯人と懿公を攻め弑して、伯御を立てて君と為す。伯御即位して十一年、周の宣王、魯を伐ち、其の君伯御を殺し、而して魯の公子の能く諸侯を道順する者を問ひ、以て魯の後と為さんとす。樊穆仲曰く、「魯の懿公の弟称は、明神を粛恭し、耆老を敬事す。事を賦し刑を行ふには、必ず遺訓に問ひて固実に咨り、問ふ所を干さず、咨る所を犯さず」と。宣王曰く、「然り、能く其の民を訓治せん」と。乃ち称を夷宮に立つ。是れを孝公と為す。是より後、諸侯多く王命に畔く。孝公の二十五年、諸侯周に畔き、犬戎、幽王を殺す。秦始めて列して諸侯と為る。二十七年、孝公卒し、子の弗湟立つ。是れを恵公と為す。恵公の三十年、晋人、其の君昭侯を弑す。四十五年、晋人又其の君孝侯を弑す。四十六年、恵公卒し、長庶子息、摂して国に当り、君の事を行ふ。是れを隠公と為す。初め、恵公の適夫人子無く、公の賤妾声子、子息を生む。息長じ、為に宋に娶る。宋女至りて好し。恵公奪ひて自ら之を妻とす。子允を生む。宋女を登せて夫人と為し、允を以て太子と為す。恵公の卒するに及び、允の少きが為の故に、魯人共に息をして政を摂せしめ、即位を言はず。隠公の五年、漁を棠に観る。八年、鄭と天子の太山の邑祊及び許田とを易ふ。君子之を譏る。十一年冬、公子揮諂ひて隠公に謂ひて曰く、「百姓君を便とす。君其れ遂に立て。吾請ふ君の為に子允を殺さん。君、我を以て相と為せ」と。隠公曰く、「先君の命有り。吾、允の少きが為の故に、摂して代る。今、允長ぜり。吾方に菟裘の地を営みて老い、以て政を子允に授けんとす」と。揮、子允の聞きて反りて之を誅せんことを懼れ、乃ち反りて隠公を子允に譖して曰く、「隠公遂に立ちて、子を去らんと欲す。子其れ之を図れ。
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史記 魯周公世家康公九年にして卒し、子の匽立つ。是れを景公と為す。景公二十九年にして卒し、子の叔立つ。是れを平公と為す。是の時、六国皆王と称す。平公の十二年、秦の恵王卒す。二十二年、平公卒し、子の賈立つ。是れを文公と為す。文公の七年、楚の懐王、秦に死す。二十三年、文公卒し、子の讎立つ。是れを頃公と為す。頃公の二年、秦、楚の郢を抜き、楚の頃王、東のかた陳に徙る。十九年、楚、我を伐ち、徐州を取る。二十四年、楚の考烈王、伐ちて魯を滅す。頃公亡げ、下邑に遷り、家人と為る。魯、祀を絶つ。頃公、柯に卒す。魯は周公より起りて頃公に至るまで、凡そ三十四世。太史公曰く、余聞く、孔子称して曰く「甚だしいかな、魯の道の衰へたるや。洙泗の間、齗齗如たり」と。慶父及び叔牙・閔公の際を観るに、何ぞ其れ乱れたるや。隠・桓の事、襄仲の適を殺して庶を立つること、三家北面して臣たるも、親ら昭公を攻め、昭公以て奔る。其の揖譲の礼に至りては則ち従へり。而るに事を行ふこと何ぞ其れ戻れるや。
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史記 魯周公世家斉の恵公の二年、鄋瞞、斉を伐つ。斉の王子城父、其の弟栄如を獲て、其の首を北門に埋む。衛人、其の季弟簡如を獲たり。鄋瞞是に由りて遂に亡ぶ。十五年、季文子、晋に使す。十八年二月、文公卒す。文公に二妃有り。長妃は斉の女にして哀姜と為し、子悪及び視を生む。次妃は敬嬴、嬖愛せられ、子俀を生む。俀私かに襄仲に事ふ。襄仲之を立てんと欲す。叔仲、不可なりと曰ふ。襄仲、斉の恵公に請ふ。恵公新たに立ち、魯に親しまんと欲し、之を許す。冬十月、襄仲、子悪及び視を殺して俀を立つ。是れを宣公と為す。哀姜斉に帰り、哭して市を過ぎて、曰く、「天か。襄仲、不道を為し、適を殺して庶を立つ」と。市人皆哭す。魯人之を『哀姜』と謂ふ。魯是に由りて公室卑しく、三桓彊し。宣公俀の十二年、楚の荘王彊く、鄭を囲む。鄭伯降り、復た之を国せしむ。十八年、宣公卒し、子の成公黒肱立つ。是れを成公と為す。季文子曰く、「我をして適を殺して庶を立て大援を失はしめし者は、襄仲なり」と。襄仲、宣公を立て、公孫帰父寵有り。宣公、三桓を去らんと欲し、晋と謀りて三桓を伐たんとす。会々宣公卒す。季文子之を怨み、帰父、斉に奔る。成公の二年春、斉、伐ちて我が隆を取る。夏、公、晋の郤克と斉の頃公を鞍に敗り、斉復た我が侵地を帰す。四年、成公、晋に如く。晋の景公、魯を敬せず。魯、晋に背きて楚に合はんと欲す。或ひと諫め、乃ち不す。十年、成公、晋に如く。晋の景公卒す。因りて成公を留めて葬を送らしむ。魯之を諱む。十五年、始めて呉王寿夢と鐘離に会す。十六年、宣伯、晋に告げて、季文子を誅せんと欲す。文子に義有り、晋人許さず。十八年、成公卒し、子の午立つ。是れを襄公と為す。是の時、襄公三歳なり。襄公の元年、晋、悼公を立つ。往年冬、晋の欒書、其の君厲公を弑す。
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尚書・費誓公曰く、「嗟(ああ)!人嘩しくすること無く、命を聴け。徂に茲の淮夷・徐戎并び興る。善く乃の甲冑を敹(つづ)り、乃の干を敿(つな)ぎ、敢へて弔からざること無かれ。乃の弓矢を備へ、乃の戈矛を鍛へ、乃の鋒刃を礪ぎ、敢へて善からざること無かれ。今惟れ淫いに牿の牛馬を舎つ、乃の擭を杜ぎ、乃の穽を敜(うづ)め、敢へて牿を傷つくること無かれ。牿の傷つかば、汝則ち常刑有らん。馬牛其れ風(はし)り、臣妾逋逃するも、敢へて越えて逐ふこと無かれ、祗みて之を復せば、我商りて汝に賚はん。乃ち越えて逐ひて復さずんば、汝則ち常刑有らん。敢へて寇攘し、垣墻を逾え、馬牛を窃み、臣妾を誘ふこと無かれ、汝則ち常刑有らん。甲戌、我惟れ徐戎を征せん。乃の糗糧を峙へ、敢へて逮ばざること無かれ、汝則ち大刑有らん。魯人の三郊三遂、乃の楨榦を峙へよ。甲戌、我惟れ築かん、敢へて供へざること無かれ、汝則ち余刑無きこと有らん、殺すに非ず。魯人の三郊三遂、乃の芻茭を峙へよ、敢へて多からざること無かれ、汝則ち大刑有らん。」
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史記 斉太公世家周の成王少き時に及びて、管・蔡乱を作し、淮夷周に畔く。乃ち召康公をして太公に命ぜしめて曰く、「東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至るまで、五侯九伯、実に得て之を征せよ」と。斉は此に由りて征伐するを得て、大国と為る。営丘に都す。蓋し太公の卒するや百有余年、子の丁公呂伋立つ。丁公卒し、子の乙公得立つ。乙公卒し、子の癸公慈母立つ。癸公卒し、子の哀公不辰立つ。哀公の時、紀侯之を周に譖し、周、哀公を烹て其の弟静を立つ。是れを胡公と為す。胡公、都を薄姑に徙す。而して周の夷王の時に当る。哀公の同母の少弟山、胡公を怨み、乃ち其の党と営丘の人を率ゐて胡公を襲攻して殺して自立す。是れを献公と為す。献公の元年、尽く胡公の子を逐ひ、因りて薄姑の都を徙して、臨菑に治す。九年、献公卒し、子の武公寿立つ。武公の九年、周の厲王出奔して彘に居る。十年、王室乱れ、大臣政を行ひ、号して「共和」と曰ふ。二十四年、周の宣王初めて立つ。二十六年、武公卒し、子の厲公無忌立つ。厲公暴虐なり、故に胡公の子復た斉に入る。斉人之を立てんと欲し、乃ち与に厲公を攻め殺す。胡公の子も亦戦死す。斉人乃ち厲公の子赤を立てて君と為す。是れを文公と為す。而して厲公を殺しし者七十人を誅殺す。文公十二年にして卒し、子の成公脱立つ。成公九年にして卒し、子の荘公購立つ。荘公の二十四年、犬戎幽王を殺し、周東して雒に徙る。秦始めて列して諸侯と為る。五十六年、晋、其の君昭侯を弑す。六十四年、荘公卒し、子の釐公禄甫立つ。釐公の九年、魯の隠公初めて立つ。十九年、魯の桓公、其の兄隠公を弑して自立して君と為る。二十五年、北戎斉を伐つ。鄭、太子忽をして来りて斉を救はしむ。斉、之に妻はせんと欲す。
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