師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 魯周公世家

管、蔡、武庚等果率淮夷而反。周公乃奉成王命,興師東伐,作大誥。遂誅管叔,殺武庚,放蔡叔。收殷餘民,以封康叔於衛,封微子於宋,以奉殷祀。寧淮夷東土,二年而畢定。諸矦咸服宗周。天降祉福,唐叔得禾,異母同穎,獻之成王,成王命唐叔以餽周公於東土,作餽禾。周公既受命禾,嘉天子命,作嘉禾。東土以集,周公歸報成王,乃爲詩貽王,命之曰鴟鴞。王亦未敢訓周公。成王七年二月乙未,王朝步自周,至豐,使太保召公先之雒相土。其三月,周公往營成周雒邑,卜居焉,曰吉,遂國之。成王長,能聽政。於是周公乃還政於成王,成王臨朝。周公之代成王治,南面倍依以朝諸矦。及七年後,還政成王,北面就臣位,匔匔如畏然。初,成王少時,病,周公乃自揃其蚤沈之河,以祝於神曰:『王少未有識,奸神命者乃旦也。』亦藏其策於府。成王病有瘳。及成王用事,人或譖周公,周公奔楚。成王發府,見周公禱書,乃泣,反周公。周公歸,恐成王壯,治有所淫佚,乃作多士,作毋逸。毋逸稱:『爲人父母,爲業至長久,子孫驕奢忘之,以亡其家,爲人子可不慎乎!筆昔在殷王中宗,嚴恭敬畏天命,自度治民,震懼不敢荒寧,故中宗饗國七十五年。

新字:管、蔡、武庚等果率淮夷而反。周公乃奉成王命,興師東伐,作大誥。遂誅管叔,殺武庚,放蔡叔。収殷余民,以封康叔於衛,封微子於宋,以奉殷祀。寧淮夷東土,二年而畢定。諸矦咸服宗周。天降祉福,唐叔得禾,異母同穎,献之成王,成王命唐叔以餽周公於東土,作餽禾。周公既受命禾,嘉天子命,作嘉禾。東土以集,周公帰報成王,乃為詩貽王,命之曰鴟鴞。王亦未敢訓周公。成王七年二月乙未,王朝歩自周,至豊,使太保召公先之雒相土。其三月,周公往営成周雒邑,卜居焉,曰吉,遂国之。成王長,能聴政。於是周公乃還政於成王,成王臨朝。周公之代成王治,南面倍依以朝諸矦。及七年後,還政成王,北面就臣位,匔匔如畏然。初,成王少時,病,周公乃自揃其蚤沈之河,以祝於神曰:『王少未有識,奸神命者乃旦也。』亦蔵其策於府。成王病有瘳。及成王用事,人或譖周公,周公奔楚。成王発府,見周公祷書,乃泣,反周公。周公帰,恐成王壮,治有所淫佚,乃作多士,作毋逸。毋逸称:『為人父母,為業至長久,子孫驕奢忘之,以亡其家,為人子可不慎乎!筆昔在殷王中宗,厳恭敬畏天命,自度治民,震懼不敢荒寧,故中宗饗国七十五年。

書き下し

管・蔡・武庚等、果して淮夷を率ゐて反す。周公乃ち成王の命を奉じ、師を興して東伐し、大誥を作る。遂に管叔を誅し、武庚を殺し、蔡叔を放つ。殷の余民を収め、以て康叔を衛に封じ、微子を宋に封じて、以て殷の祀を奉ぜしむ。淮夷・東土を寧んじ、二年にして畢く定まる。諸侯咸な宗周に服す。天、祉福を降し、唐叔、禾を得たり。畝を異にして穎を同じくす。之を成王に献ず。成王、唐叔に命じて以て周公に東土に餽らしめ、餽禾を作る。周公既に命禾を受け、天子の命を嘉して、嘉禾を作る。東土以て集まり、周公帰りて成王に報じ、乃ち詩を為りて王に貽り、之を命じて鴟鴞と曰ふ。王も亦未だ敢て周公を訓めず。成王の七年二月乙未、王、朝に周より歩みて豊に至り、太保召公をして先づ雒に之きて土を相せしむ。其の三月、周公往きて成周の雒邑を営み、居を卜するに、吉と曰ふ。遂に之に国す。成王長じ、能く政を聴く。是に於て周公乃ち政を成王に還し、成王朝に臨む。周公の成王に代りて治むるや、南面して依を倍にして以て諸侯を朝せしむ。七年の後に及び、政を成王に還し、北面して臣の位に就き、匔匔として畏るるが如く然り。初め、成王少き時、病む。周公乃ち自ら其の蚤を揃りて之を河に沈め、以て神に祝して曰く、「王少くして未だ識有らず。神の命を奸す者は乃ち旦なり」と。亦其の策を府に蔵す。成王の病瘳ゆる有り。成王の事を用ふるに及び、人或いは周公を譖す。周公、楚に奔る。成王、府を発きて、周公の禱書を見、乃ち泣き、周公を反す。周公帰り、成王の壮にして、治むるに淫佚する所有らんことを恐れ、乃ち多士を作り、毋逸を作る。毋逸に称す、「人の父母と為りては、業を為すこと長久に至る。子孫驕奢にして之を忘れ、以て其の家を亡ぼす。人の子と為りて慎まざる可けんや。故に昔、殷の王中宗に在りては、厳恭にして天命を敬畏し、自ら度りて民を治め、震懼して敢て荒寧せず。故に中宗、国を饗くること七十五年。

現代語訳

管叔・蔡叔・武庚らは、はたして淮夷を率いて反乱を起こした。周公は成王の命令を奉じ、兵を起こして東へ討伐に向かい、「大誥」を作った。そしてついに管叔を誅殺し、武庚を殺し、蔡叔を追放した。殷の遺民を集め、康叔を衛に封じ、微子を宋に封じて殷の祖先の祭りを継がせた。淮夷と東方の地を平定し、二年ですべて落ち着いた。諸侯はみな宗周に服従した。天はめでたい恵みを下し、唐叔が稲を得た。別々の畝から生えた茎が一つの穂にまとまっていた。唐叔はこれを成王に献上した。成王は唐叔に命じて東方にいる周公にこれを贈らせ、そのことを記して「餽禾(きか)」を作った。周公は天子から賜った稲を受け、天子の命をたたえて「嘉禾」を作った。東方の地がまとまると、周公は帰って成王に報告し、詩を作って王に贈り、これを「鴟鴞(しきょう)」と名づけた。王もまたあえて周公をとがめはしなかった。成王の七年二月乙未の日、王は朝、周(鎬京)から歩いて豊に至り、太保の召公に先に雒に行って土地を見定めさせた。その三月、周公は赴いて成周の雒邑を造営し、住む地を占うと吉と出たので、そこに都を置いた。成王が成長し、政治を執れるようになった。そこで周公は政権を成王に返し、成王が朝廷に臨んだ。周公が成王に代わって政治を執っていたときは、南を向き、屏風を背にして諸侯を朝見させた。七年後に政権を成王に返すと、北を向いて臣下の位置につき、つつしみ深く恐れはばかるようであった。これより先、成王が幼いころ病気になったことがあった。周公は自分の爪を切って黄河に沈め、神に祈って言った。「王は幼くてまだ分別がない。神の命に背いたのは私、旦である」。この祝詞もまた府庫に納められた。成王の病は快方に向かった。成王が政治を執るようになると、ある者が周公を讒言した。周公は楚に逃げた。成王が府庫を開けて周公の祈りの書を見つけると、泣いて周公を呼び戻した。周公は帰ると、成王が壮年になって政治に怠りや乱れが生じることを恐れ、「多士」を作り、「毋逸(ぶいつ)」を作った。「毋逸」には次のようにある。「人の父母となった者は、長い年月をかけて家業を築く。子孫が驕り贅沢をしてその苦労を忘れ、家を滅ぼしてしまう。人の子である者は、慎まずにいられようか。だから昔、殷の王中宗は、厳かにつつしんで天命を敬い畏れ、自らを律して民を治め、恐れおののいて怠け安んじることがなかった。だから中宗は七十五年も国を保ったのである。

解説

周公の政治の総決算とも言える段です。管叔・蔡叔・武庚の反乱を二年で鎮め、殷の遺民を衛と宋に分けて治めさせ、東方を安定させました。成王に代わって政治を執った七年間、周公は南を向いて諸侯を朝見させましたが、成王が成長すると政権を返し、北を向いて臣下の位置に戻り、つつしみ深く振る舞いました。権力を手放す潔さは、歴史上まれに見るものです。それでも讒言を受けて楚に逃れますが、成王は府庫で周公の祈りの書を見つけ、幼い自分の病の身代わりを願っていたと知って泣き、呼び戻しました。周公は帰ると、成王が驕らないよう「毋逸」を作り、父祖が長い苦労で築いた家業を子孫が驕りで失うと戒めます。事業承継の心得として、今もそのまま通用する言葉です。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る