史記 / 斉太公世家
將與大夫盟而立之,鮑牧醉,乞誣大夫曰:「吾與鮑牧謀共立陽生。」鮑牧怒曰:「子忘景公之命乎?」諸大夫相視欲悔,陽生前,頓首曰:「可則立之,否則已。」鮑牧恐禍起,乃復曰:「皆景公子也,何為不可!」乃與盟,立陽生,是為悼公。悼公入宮,使人遷晏孺子於駘,殺之幕下,而逐孺子母芮子。芮子故賤而孺子少,故無權,國人輕之。悼公元年,齊伐魯,取讙、闡。初,陽生亡在魯,季康子以其妹妻之。及歸即位,使迎之。季姬與季魴侯通,言其情,魯弗敢與,故齊伐魯,竟迎季姬。季姬嬖,齊復歸魯侵地。鮑子與悼公有郤,不善。四年,吳、魯伐齊南方。鮑子弒悼公,赴于吳。吳王夫差哭於軍門外三日,將從海入討齊。齊人敗之,吳師乃去。晉趙鞅伐齊,至賴而去。齊人共立悼公子壬,是為簡公。簡公四年春,初,簡公與父陽生俱在魯也,監止有寵焉。及即位,使為政。田成子憚之,驟顧於朝。御鞅言簡公曰:「田、監不可并也,君其擇焉。」弗聽。子我夕,田逆殺人,逢之,遂捕以入。田氏方睦,使囚病而遺守囚者酒,醉而殺守者,得亡。子我盟諸田於陳宗。初,田豹欲為子我臣,使公孫言豹,豹有喪而止。後卒以為臣,幸於子我。子我謂曰:「吾盡逐田氏而立女,可乎?」對曰:「我遠田氏矣。
新字:将与大夫盟而立之,鮑牧酔,乞誣大夫曰:「吾与鮑牧謀共立陽生。」鮑牧怒曰:「子忘景公之命乎?」諸大夫相視欲悔,陽生前,頓首曰:「可則立之,否則已。」鮑牧恐禍起,乃復曰:「皆景公子也,何為不可!」乃与盟,立陽生,是為悼公。悼公入宮,使人遷晏孺子於駘,殺之幕下,而逐孺子母芮子。芮子故賤而孺子少,故無権,国人軽之。悼公元年,斉伐魯,取讙、闡。初,陽生亡在魯,季康子以其妹妻之。及帰即位,使迎之。季姫与季魴侯通,言其情,魯弗敢与,故斉伐魯,竟迎季姫。季姫嬖,斉復帰魯侵地。鮑子与悼公有郤,不善。四年,呉、魯伐斉南方。鮑子弒悼公,赴于呉。呉王夫差哭於軍門外三日,将従海入討斉。斉人敗之,呉師乃去。晋趙鞅伐斉,至頼而去。斉人共立悼公子壬,是為簡公。簡公四年春,初,簡公与父陽生倶在魯也,監止有寵焉。及即位,使為政。田成子憚之,驟顧於朝。御鞅言簡公曰:「田、監不可并也,君其択焉。」弗聴。子我夕,田逆殺人,逢之,遂捕以入。田氏方睦,使囚病而遺守囚者酒,酔而殺守者,得亡。子我盟諸田於陳宗。初,田豹欲為子我臣,使公孫言豹,豹有喪而止。後卒以為臣,幸於子我。子我謂曰:「吾尽逐田氏而立女,可乎?」対曰:「我遠田氏矣。
書き下し
将に大夫と盟ひて之を立てんとするに、鮑牧酔ふ。乞、大夫を誣ひて曰く、「吾、鮑牧と謀りて共に陽生を立てんとす」と。鮑牧怒りて曰く、「子、景公の命を忘れたるか」と。諸大夫相視て悔いんと欲す。陽生前み、頓首して曰く、「可なれば則ち之を立てよ。否なれば則ち已めよ」と。鮑牧、禍の起らんことを恐れ、乃ち復た曰く、「皆景公の子なり。何為れぞ不可ならん」と。乃ち与に盟ひ、陽生を立つ。是れを悼公と為す。悼公宮に入り、人をして晏孺子を駘に遷さしめ、之を幕下に殺し、而して孺子の母芮子を逐ふ。芮子は故賤しくして孺子少し、故に権無く、国人之を軽んず。悼公の元年、斉、魯を伐ち、讙・闡を取る。初め、陽生亡げて魯に在るや、季康子其の妹を以て之に妻はす。帰りて即位するに及び、之を迎へしむ。季姫、季魴侯と通じ、其の情を言ふ。魯敢て与へず。故に斉、魯を伐ち、竟に季姫を迎ふ。季姫嬖せられ、斉復た魯の侵地を帰す。鮑子、悼公と郤有り、善からず。四年、呉・魯、斉の南方を伐つ。鮑子、悼公を弑し、呉に赴ぐ。呉王夫差、軍門の外に哭すること三日、将に海より入りて斉を討たんとす。斉人之を敗り、呉の師乃ち去る。晋の趙鞅、斉を伐ち、頼に至りて去る。斉人共に悼公の子壬を立つ。是れを簡公と為す。簡公の四年春、初め、簡公、父陽生と倶に魯に在るや、監止寵有り。即位するに及び、政を為さしむ。田成子之を憚り、驟々朝に顧みる。御鞅、簡公に言ひて曰く、「田・監は并す可からず。君其れ択べ」と。聴かず。子我夕す。田逆人を殺す。之に逢ひ、遂に捕へて以て入る。田氏方に睦まじ。囚をして病ましめて守囚者に酒を遺り、酔はしめて守者を殺し、亡ぐるを得たり。子我、諸田と陳宗に盟ふ。初め、田豹、子我の臣たらんと欲し、公孫をして豹を言はしむ。豹喪有りて止む。後卒に以て臣と為し、子我に幸せらる。子我謂ひて曰く、「吾尽く田氏を逐ひて女を立てん、可ならんか」と。対へて曰く、「我は田氏に遠し。
現代語訳
大夫たちと盟約を結んで陽生を立てようとしたとき、鮑牧は酔っていた。田乞は大夫たちを欺いて言った。「私は鮑牧と相談して、ともに陽生を立てることにしたのだ」。鮑牧は怒って言った。「あなたは景公の遺命を忘れたのか」。大夫たちは顔を見合わせ、考え直そうとした。陽生は進み出て、頭を地につけて言った。「よいと思うなら私を立ててほしい。よくないと思うならやめてほしい」。鮑牧は災いが起こることを恐れ、言い直した。「みな景公の子である。どうしていけないことがあろうか」。そこで皆で盟約を結び、陽生を立てた。これが悼公である。悼公は宮殿に入ると、人に命じて晏孺子を駘(たい)に移させ、陣幕の中で殺し、孺子の母の芮子を追放した。芮子はもともと身分が低く、孺子は幼かったので、権力がなく、国の人々は彼らを軽んじていた。悼公の元年、斉は魯を討ち、讙(かん)と闡(せん)を奪った。これより先、陽生が魯に亡命していたとき、季康子は自分の妹を陽生の妻にしていた。陽生は帰国して即位すると、彼女を迎えようとした。ところが季姫は季魴侯と密通しており、その事情を打ち明けたので、魯は彼女を送り出そうとしなかった。そのため斉は魯を討ち、結局季姫を迎えた。季姫は寵愛され、斉は再び魯から奪った土地を返した。鮑子(鮑牧)は悼公と不和で、関係がよくなかった。四年、呉と魯が斉の南方を討った。鮑子は悼公を殺し、呉にそれを知らせた。呉王夫差は軍門の外で三日間声を上げて泣き、海から斉に攻め入って討とうとした。斉の人々は呉を破り、呉軍は去った。晋の趙鞅が斉を討ち、頼まで来て去った。斉の人々はともに悼公の子の壬を立てた。これが簡公である。簡公の四年の春のこと。これより先、簡公が父の陽生とともに魯にいたとき、監止(かんし)が寵愛されていた。簡公が即位すると、監止に政治を任せた。田成子(田常)は監止を恐れ、朝廷でたびたび監止の方を振り返って様子をうかがった。御者の鞅(おう)が簡公に言った。「田氏と監氏を並び立たせることはできない。君はどちらかを選ぶべきだ」。簡公は聞き入れなかった。子我(監止)が夕方に朝廷に出たとき、田逆が人を殺したところに出くわし、そのまま捕らえて朝廷に連れて入った。田氏の一族はちょうど結束していたので、囚われた田逆に病気のふりをさせ、牢番に酒を差し入れ、酔わせて牢番を殺し、田逆は逃げることができた。子我は田氏一族と陳氏の宗廟で盟約を結んだ。これより先、田豹は子我の家臣になりたいと思い、公孫を通じて自分を推薦させたが、田豹に喪があったので沙汰やみになった。後に結局家臣となり、子我にかわいがられた。子我は田豹に言った。「私は田氏を一人残らず追放して、お前を田氏の跡継ぎに立てようと思う。どうだろうか」。田豹は答えた。「私は田氏の中では遠い分家にすぎない。
解説
関連する章句
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史記 田敬仲完世家晏圉魯に奔る。田乞人をして魯に之かしめ、陽生を迎ふ。陽生斉に至り、田乞の家に匿る。諸大夫に請ひて曰く、「常の母に魚菽の祭有り。幸ひにして来りて会飲せよ」と。田氏に会飲す。田乞陽生を橐中に盛り、坐の中央に置く。橐を発き、陽生を出だして曰く、「此れ乃ち斉君なり」と。大夫皆伏して謁す。将に盟ひて之を立てんとす。田乞誣ひて曰く、「吾鮑牧と謀りて共に陽生を立つるなり」と。鮑牧怒りて曰く、「大夫景公の命を忘れたるか」と。諸大夫悔いんと欲す。陽生乃ち頓首して曰く、「可なれば則ち之を立てよ。不可なれば則ち已めよ」と。鮑牧禍の己に及ばんことを恐れ、乃ち復た曰く、「皆景公の子なり。何為れぞ不可ならん」と。遂に陽生を田乞の家に立つ、是を悼公と為す。乃ち人をして晏孺子を駘に遷さしめ、而して孺子荼を殺す。悼公既に立ち、田乞相と為り、斉の政を専らにす。四年、田乞卒し、子常代はりて立つ、是を田成子と為す。鮑牧、斉の悼公と郄有り。悼公を弑す。斉人共に其の子壬を立つ、是を簡公と為す。田常成子と監止と倶に左右の相と為り、簡公に相たり。田常心に監止を害む。監止簡公に幸せらる。権去ること能はず。是に於て田常復た釐子の政を修め、大斗を以て出だし貸し、小斗を以て収む。斉人之を歌ひて曰く、「嫗や芑を采る、田成子に帰せよ」と。斉の大夫朝す。御鞅簡公を諫めて曰く、「田・監は并ぶべからざるなり。君其れ焉を択べ」と。君聴かず。子我は、監止の宗人なり。常に田氏と卻有り。田氏の疎族田豹、子我に事へて寵有り。子我曰く、「吾尽く田氏の適を滅ぼし、豹を以て田氏の宗に代へんと欲す」と。豹曰く、「臣は田氏に於て疎なり」と。聴かず。已にして豹田氏に謂ひて曰く、「子我将に田氏を誅せんとす。田氏先んぜずんば、禍及ばん」と。子我公宮に舎る。田常兄弟四人乗りて公宮に如き、子我を殺さんと欲す。子我門を閉づ。
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史記 斉太公世家且つ其の違ふ者は数人に過ぎず。何ぞ尽く逐はん」と。遂に田氏に告ぐ。子行曰く、「彼君を得たり。先んぜずんば、必ず子に禍せん」と。子行、公宮に舎る。夏五月壬申、成子兄弟四乗にて公に如く。子我、幄に在り、出でて之を迎ふ。遂に入りて、門を閉づ。宦者之を御ぐ。子行、宦者を殺す。公、婦人と檀台に酒を飲む。成子、諸を寝に遷す。公、戈を執りて将に之を撃たんとす。太史子余曰く、「不利を為すに非ざるなり、将に害を除かんとするなり」と。成子出でて庫に舎る。公の猶ほ怒れるを聞き、将に出でんとして、曰く、「何れの所か君無からん」と。子行、剣を抜きて曰く、「需は事の賊なり。誰か田宗に非ざらん。子を殺さざる所の者は田宗有るが如し」と。乃ち止む。子我帰り、徒を属めて闈と大門とを攻むるも、皆勝たず、乃ち出づ。田氏之を追ふ。豊丘の人、子我を執へて以て告ぐ。之を郭関に殺す。成子将に大陸子方を殺さんとす。田逆請ひて之を免る。公の命を以て車を道に取り、雍門を出づ。田豹之に車を与ふるも、受けずして、曰く、「逆は余の為に請ひ、豹は余に車を与ふ。余に私有るなり。子我に事へて其の讎に私有らば、何を以てか魯・衛の士に見えん」と。庚辰、田常、簡公を徐州に執ふ。公曰く、「余蚤く御鞅の言に従はば、此に及ばざりしに」と。甲午、田常、簡公を徐州に弑す。田常乃ち簡公の弟驁を立つ。是れを平公と為す。平公即位し、田常之に相たり、斉の政を専らにし、斉の安平以東を割きて田氏の封邑と為す。平公の八年、越、呉を滅す。二十五年卒し、子の宣公積立つ。宣公五十一年にして卒し、子の康公貸立つ。田会、廩丘に反す。康公の二年、韓・魏・趙始めて列して諸侯と為る。十九年、田常の曾孫田和、始めて諸侯と為り、康公を海浜に遷す。二十六年、康公卒し、呂氏遂に其の祀を絶つ。田氏卒に斉国を有ち、斉の威王と為りて、天下に彊し。
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史記 斉太公世家田乞、乱を為さんと欲し、党を逆臣に樹て、景公に説きて曰く、「范・中行は数々斉に徳有り、救はざる可からず」と。乞をして救ひて之に粟を輸らしむるに及ぶ。五十八年夏、景公の夫人燕姫の適子死す。景公の寵妾芮姫、子荼を生む。荼少く、其の母賤しく、行無し。諸大夫其の嗣と為らんことを恐れ、乃ち諸子の長にして賢なる者を択びて太子と為さんことを願ふと言ふ。景公老い、嗣の事を言ふを悪み、又荼の母を愛し、之を立てんと欲するも、之を口に発するを憚り、乃ち諸大夫に謂ひて曰く、「楽しみを為さんのみ。国何ぞ君無きを患へんや」と。秋、景公病み、国恵子・高昭子に命じて少子荼を立てて太子と為し、群公子を逐ひて、之を萊に遷さしむ。景公卒し、太子荼立つ。是れを晏孺子と為す。冬、未だ葬らずして、群公子誅せらるるを畏れ、皆出で亡ぐ。荼の諸々の異母兄公子寿・駒・黔は衛に奔り、公子駔・陽生は魯に奔る。萊人之を歌ひて曰く、「景公死せるも与に埋めず、三軍の事にも与に謀らず。師や師や、胡ぞ之に党せんや」と。晏孺子の元年春、田乞、偽りて高・国に事ふる者のごとくし、朝する毎に、乞驂乗して、言ひて曰く、「子君を得たり。大夫皆自ら危ぶみ、乱を作さんと謀らんと欲す」と。又諸大夫に謂ひて曰く、「高昭子は畏る可し。未だ発せざるに及びて、之に先んぜよ」と。大夫之に従ふ。六月、田乞・鮑牧乃ち大夫と兵を以て公宮に入り、高昭子を攻む。昭子之を聞き、国恵子と公を救ふ。公の師敗る。田乞の徒之を追ふ。国恵子莒に奔る。遂に反りて高昭子を殺す。晏圉、魯に奔る。八月、斉の秉意茲。田乞、二相を敗り、乃ち人をして魯に之きて公子陽生を召さしむ。陽生斉に至り、私かに田乞の家に匿る。十月戊子、田乞、諸大夫に請ひて曰く、「常の母、魚菽の祭有り。幸ひに来りて会飲せよ」と。会飲す。田乞、陽生を橐の中に盛り、坐の中央に置き、橐を発きて陽生を出して、曰く、「此れ乃ち斉の君なり」と。大夫皆伏して謁す。
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史記 田敬仲完世家晋の大夫欒逞、乱を晋に作し、来りて斉に奔る。斉の荘公厚く之を客とす。晏嬰と田文子と諫むれども、荘公聴かず。文子卒し、桓子無宇を生む。田桓子無宇力有り。斉の荘公に事へ、甚だ寵有り。無宇卒し、武子開と釐子乞とを生む。田釐子乞、斉の景公に事へて大夫と為る。其の賦税を民に収むるには小斗を以て之を受け、其の稟を民に予ふるには大斗を以てし、陰徳を民に行ふ。而るに景公禁ぜず。此に由りて田氏斉の衆心を得、宗族益々彊く、民田氏を思ふ。晏子数々景公を諫むれども、景公聴かず。已にして晋に使ひし、叔向と私かに語りて曰く、「斉国の政は卒に田氏に帰せん」と。晏嬰卒して後、范・中行氏晋に反く。晋之を攻むること急なり。范・中行、粟を斉に請ふ。田乞乱を為さんと欲し、党を諸侯に樹つ。乃ち景公に説きて曰く、「范・中行数々斉に徳有り。斉救はざるべからず」と。斉田乞をして之を救ひて之に粟を輸らしむ。景公の太子死す。後に寵姫有り芮子と曰ふ。子荼を生む。景公病み、其の相国恵子と高昭子とに命じて子荼を以て太子と為さしむ。景公卒す。両相の高・国、荼を立つ、是を晏孺子と為す。而るに田乞説ばず、景公の他の子陽生を立てんと欲す。陽生素より乞と歓ぶ。晏孺子の立つや、陽生魯に奔る。田乞偽りて高昭子・国恵子に事ふる者、朝する毎に参乗に代はり、言ひて曰く、「始め諸大夫孺子を立つるを欲せず。孺子既に立ち、君之に相たり。大夫皆自ら危ぶみ、乱を作さんと謀る」と。又大夫を紿きて曰く、「高昭子畏るべきなり。未だ発せざるに及びて之に先んぜよ」と。諸大夫之に従ふ。田乞・鮑牧、大夫と兵を以て公室に入り、高昭子を攻む。昭子之を聞き、国恵子と公を救ふ。公の師敗る。田乞の衆国恵子を追ふ。恵子莒に奔る。遂に返りて高昭子を殺す。
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史記 田敬仲完世家宣公四十三年、晋を伐ち、黄城を毀ち、陽狐を囲む。明年、魯・葛及び安陵を伐つ。明年、魯の一城を取る。荘子卒し、子太公和立つ。田太公斉の宣公に相たり。宣公四十八年、魯の城を取る。明年、宣公鄭人と西城に会す。衛を伐ち、毋丘を取る。宣公五十一年に卒す。田会廩丘より反す。宣公卒し、子康公貸立つ。貸立ちて十四年、酒・婦人に淫し、政を聴かず。太公乃ち康公を海上に遷し、一城を食ましめ、以て其の先祀を奉ぜしむ。明年、魯斉を平陸に敗る。三年、太公魏の文侯と濁沢に会し、諸侯と為らんことを求む。魏の文侯乃ち使をして周の天子及び諸侯に言はしめ、斉の相田和を立てて諸侯と為さんことを請ふ。周の天子之を許す。康公の十九年、田和立ちて斉侯と為り、周室に列し、元年を紀す。斉侯太公和立ちて二年、和卒し、子桓公午立つ。桓公午五年、秦・魏韓を攻む。韓救ひを斉に求む。斉の桓公大臣を召して謀りて曰く、「蚤く之を救ふと晩く之を救ふと孰れぞ」と。騶忌曰く、「救ふこと勿きに若かず」と。段干朋曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。之を救ふに若かず」と。田臣思曰く、「過てり君の謀や。秦・魏韓・楚を攻めば、趙必ず之を救はん。是れ天燕を以て斉に予ふるなり」と。桓公曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓自ら以為へらく斉の救ひを得たりと。因りて秦・魏と戦ふ。楚・趙之を聞き、果たして兵を起こして之を救ふ。斉因りて兵を起こして燕国を襲ひ、桑丘を取る。六年、衛を救ふ。桓公卒し、子威王因斉立つ。是の歳、故の斉の康公卒し、絶えて後無し。奉邑皆田氏に入る。斉の威王元年、三晋斉の喪に因りて来りて我が霊丘を伐つ。三年、三晋晋の後を滅ぼして其の地を分つ。六年、魯我を伐ち、陽関に入る。晋我を伐ち、博陵に至る。七年、衛我を伐ち、薛陵を取る。九年、趙我を伐ち、甄を取る。威王初めて位に即きて以来、治めず、政を卿大夫に委ぬ。九年の閒、諸侯并びに伐ち、国人治まらず。
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史記 田敬仲完世家簡公、婦人と檀台に飲み、将に田常を撃たんと欲す。太史子余曰く、「田常敢へて乱を為すに非ず。将に害を除かんとするなり」と。簡公乃ち止む。田常出で、簡公の怒るを聞き、誅せられんことを恐れ、将に出でて亡げんとす。田子行曰く、「需つは、事の賊なり」と。田常是に於て子我を撃つ。子我其の徒を率ゐて田氏を攻むれども、勝たず、出でて亡ぐ。田氏の徒追ひて子我及び監止を殺す。簡公出でて奔る。田氏の徒追ひて簡公を徐州に執ふ。簡公曰く、「蚤く御鞅の言に従はば、此の難に及ばざりしに」と。田氏の徒、簡公の復た立ちて己を誅せんことを恐れ、遂に簡公を殺す。簡公立ちて四年にして殺さる。是に於て田常、簡公の弟驁を立つ、是を平公と為す。平公位に即き、田常相と為る。田常既に簡公を殺し、諸侯の共に己を誅せんことを懼れ、乃ち尽く魯・衛の侵地を帰し、西のかた晋の韓・魏・趙氏と約し、南のかた呉・越の使を通じ、功を修め賞を行ひ、百姓に親しむ。故を以て斉復た定まる。田常、斉の平公に言ひて曰く、「徳施は人の欲する所なり。君其れ之を行へ。刑罰は人の悪む所なり。臣請ふ之を行はん」と。之を行ふこと五年、斉国の政皆田常に帰す。田常是に於て尽く鮑・晏・監止及び公族の彊き者を誅し、而して斉の安平より以東瑯邪に至るまでを割きて、自ら封邑と為す。封邑は平公の食む所より大なり。田常乃ち斉国中の女子の長七尺以上なるを選びて後宮と為す。後宮百を以て数ふ。而して賓客舎人をして後宮に出入せしむる者禁ぜず。田常の卒するに及び、七十余男有り。田常卒し、子襄子盤代はりて立ち、斉に相たり。常諡して成子と為す。田襄子既に斉の宣公に相たり。三晋知伯を殺し、其の地を分つ。襄子其の兄弟宗人をして尽く斉の都邑の大夫と為らしめ、三晋と使を通じ、且に以て斉国を有たんとす。襄子卒し、子荘子白立つ。田荘子斉の宣公に相たり。
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