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史記 / 斉太公世家

且其違者不過數人,何盡逐焉!」遂告田氏。子行曰:「彼得君,弗先,必禍子。」子行舍於公宮。夏五月壬申,成子兄弟四乘如公。子我在幄,出迎之,遂入,閉門。宦者御之,子行殺宦者。公與婦人飲酒於檀臺,成子遷諸寢。公執戈將擊之,太史子餘曰:「非不利也,將除害也。」成子出舍于庫,聞公猶怒,將出,曰:「何所無君!」子行拔劍曰:「需,事之賊也。誰非田宗?所不殺子者有如田宗。」乃止。子我歸,屬徒攻闈與大門,皆弗勝,乃出。田氏追之。豐丘人執子我以告,殺之郭關。成子將殺大陸子方,田逆請而免之。以公命取車於道,出雍門。田豹與之車,弗受,曰:「逆為余請,豹與余車,余有私焉。事子我而有私於其讎,何以見魯、衛之士?」庚辰,田常執簡公于俆州。公曰:「余蚤從御鞅言,不及此。」甲午,田常弒簡公于俆州。田常乃立簡公弟驁,是為平公。平公即位,田常相之,專齊之政,割齊安平以東為田氏封邑。平公八年,越滅吳。二十五年卒,子宣公積立。宣公五十一年卒,子康公貸立。田會反廩丘。康公二年,韓、魏、趙始列為諸侯。十九年,田常曾孫田和始為諸侯,遷康公海濱。二十六年,康公卒,呂氏遂絕其祀。田氏卒有齊國,為齊威王,彊於天下。

新字:且其違者不過数人,何尽逐焉!」遂告田氏。子行曰:「彼得君,弗先,必禍子。」子行舎於公宮。夏五月壬申,成子兄弟四乗如公。子我在幄,出迎之,遂入,閉門。宦者御之,子行殺宦者。公与婦人飲酒於檀台,成子遷諸寝。公執戈将撃之,太史子余曰:「非不利也,将除害也。」成子出舎于庫,聞公猶怒,将出,曰:「何所無君!」子行抜剣曰:「需,事之賊也。誰非田宗?所不殺子者有如田宗。」乃止。子我帰,属徒攻闈与大門,皆弗勝,乃出。田氏追之。豊丘人執子我以告,殺之郭関。成子将殺大陸子方,田逆請而免之。以公命取車於道,出雍門。田豹与之車,弗受,曰:「逆為余請,豹与余車,余有私焉。事子我而有私於其讎,何以見魯、衛之士?」庚辰,田常執簡公于俆州。公曰:「余蚤従御鞅言,不及此。」甲午,田常弒簡公于俆州。田常乃立簡公弟驁,是為平公。平公即位,田常相之,専斉之政,割斉安平以東為田氏封邑。平公八年,越滅呉。二十五年卒,子宣公積立。宣公五十一年卒,子康公貸立。田会反廩丘。康公二年,韓、魏、趙始列為諸侯。十九年,田常曽孫田和始為諸侯,遷康公海浜。二十六年,康公卒,呂氏遂絶其祀。田氏卒有斉国,為斉威王,彊於天下。

書き下し

且つ其の違ふ者は数人に過ぎず。何ぞ尽く逐はん」と。遂に田氏に告ぐ。子行曰く、「彼君を得たり。先んぜずんば、必ず子に禍せん」と。子行、公宮に舎る。夏五月壬申、成子兄弟四乗にて公に如く。子我、幄に在り、出でて之を迎ふ。遂に入りて、門を閉づ。宦者之を御ぐ。子行、宦者を殺す。公、婦人と檀台に酒を飲む。成子、諸を寝に遷す。公、戈を執りて将に之を撃たんとす。太史子余曰く、「不利を為すに非ざるなり、将に害を除かんとするなり」と。成子出でて庫に舎る。公の猶ほ怒れるを聞き、将に出でんとして、曰く、「何れの所か君無からん」と。子行、剣を抜きて曰く、「需は事の賊なり。誰か田宗に非ざらん。子を殺さざる所の者は田宗有るが如し」と。乃ち止む。子我帰り、徒を属めて闈と大門とを攻むるも、皆勝たず、乃ち出づ。田氏之を追ふ。豊丘の人、子我を執へて以て告ぐ。之を郭関に殺す。成子将に大陸子方を殺さんとす。田逆請ひて之を免る。公の命を以て車を道に取り、雍門を出づ。田豹之に車を与ふるも、受けずして、曰く、「逆は余の為に請ひ、豹は余に車を与ふ。余に私有るなり。子我に事へて其の讎に私有らば、何を以てか魯・衛の士に見えん」と。庚辰、田常、簡公を徐州に執ふ。公曰く、「余蚤く御鞅の言に従はば、此に及ばざりしに」と。甲午、田常、簡公を徐州に弑す。田常乃ち簡公の弟驁を立つ。是れを平公と為す。平公即位し、田常之に相たり、斉の政を専らにし、斉の安平以東を割きて田氏の封邑と為す。平公の八年、越、呉を滅す。二十五年卒し、子の宣公積立つ。宣公五十一年にして卒し、子の康公貸立つ。田会、廩丘に反す。康公の二年、韓・魏・趙始めて列して諸侯と為る。十九年、田常の曾孫田和、始めて諸侯と為り、康公を海浜に遷す。二十六年、康公卒し、呂氏遂に其の祀を絶つ。田氏卒に斉国を有ち、斉の威王と為りて、天下に彊し。

現代語訳

それに、あなたに逆らう田氏の者は数人にすぎない。どうして一人残らず追放する必要があろうか」。そしてこのことを田氏に知らせた。子行(田逆)は(田常に)言った。「あの男(子我)は君主を手中にしている。先手を打たなければ、必ずあなたに災いが及ぶ」。子行は公宮に泊まり込んだ。夏五月壬申の日、田成子(田常)の兄弟四人が四台の車で公宮に向かった。子我は幕舎にいたが、出てきて迎えた。田氏の兄弟はそのまま中に入り、門を閉ざした。宦官たちが防ごうとしたが、子行が宦官を殺した。簡公は婦人たちと檀台で酒を飲んでいたが、田成子は簡公を寝殿に移した。簡公は戈(ほこ)を手に取って田成子を撃とうとした。太史の子余が言った。「(田氏は)君に不利なことをしようとしているのではなく、害(子我)を除こうとしているのだ」。田成子は外に出て武器庫に泊まった。簡公がまだ怒っていると聞くと、国外に出ようとして言った。「どこへ行っても仕える君主はいるものだ」。子行は剣を抜いて言った。「ぐずぐずためらうのは事を損なうもとだ。田氏の一族でない者などいない(皆がついている)。あなたが逃げるというなら、田氏の祖霊に誓ってあなたを殺す」。そこで田成子は思いとどまった。子我は帰ると、手勢を集めて宮中の小門と大門を攻めたが、どちらも勝てず、都から逃げ出した。田氏がこれを追った。豊丘の人が子我を捕らえて知らせたので、郭関で子我を殺した。田成子は大陸子方(子我の一派)を殺そうとしたが、田逆が助命を願い出たので赦された。子方は簡公の命令だと偽って道で車を手に入れ、雍門から出た。田豹が車を与えようとしたが、子方は受け取らずに言った。「田逆は私のために助命を願い、田豹は私に車を与えようとする。これでは私が田氏と私的なつながりを持つことになる。子我に仕えながらその仇と私的なつながりを持ったら、魯や衛の士に合わせる顔がない」。庚辰の日、田常は簡公を徐州(舒州)で捕らえた。簡公は言った。「私が早く御者の鞅の言葉に従っていれば、こんなことにはならなかったのに」。甲午の日、田常は徐州で簡公を殺した。田常はそこで簡公の弟の驁(ごう)を立てた。これが平公である。平公が即位すると、田常は宰相となり、斉の政治を独占し、斉の安平より東を割いて田氏の領地とした。平公の八年、越が呉を滅ぼした。平公は二十五年で亡くなり、子の宣公積が立った。宣公は五十一年で亡くなり、子の康公貸が立った。田会が廩丘で反乱を起こした。康公の二年、韓・魏・趙が初めて諸侯の列に加わった。十九年、田常の曾孫の田和が初めて諸侯となり、康公を海辺に移した。二十六年、康公が亡くなり、呂氏はついにその祖先の祭りが絶えた。田氏はついに斉の国を手に入れ、斉の威王の代になって天下に強大となった。

解説

「斉太公世家」の結末、つまり太公望の子孫である呂氏の斉が田氏に乗っ取られる過程です。子我(監止)は田氏の傍流の田豹に「田氏を追放してお前を当主に」と持ちかけますが、田豹はそれを田氏に知らせ、田氏は先手を打って子我を討ちました。途中、田常が国外に逃げようとして、子行に「ためらいは事を損なう」と剣で止められる場面もあり、決断の揺れがよく描かれています。捕らえられた簡公は「早く御者の鞅の言葉に従っていれば」と悔やみながら殺されました。その後、田常は宰相として実権を握り、曾孫の田和がついに諸侯となって、呂氏の祭祀は途絶えます。太公望から続いた家が、民心をつかんだ臣下に国を奪われたのです。晏嬰が予言した「田氏への政権移行」は、こうして百年余りをかけて完成しました。

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