史記 / 斉太公世家
田氏雖無大德,以公權私,有德於民,民愛之。」十二年,景公如晉,見平公,欲與伐燕。十八年,公復如晉,見昭公。二十六年,獵魯郊,因入魯,與晏嬰俱問魯禮。三十一年,魯昭公辟季氏難,奔齊。齊欲以千社封之,子家止昭公,昭公乃請齊伐魯,取鄆以居昭公。三十二年,彗星見。景公坐柏寢,嘆曰:「堂堂!誰有此乎?」群臣皆泣,晏子笑,公怒。晏子曰:「臣笑群臣諛甚。」景公曰:「彗星出東北,當齊分野,寡人以為憂。」晏子曰:「君高臺深池,賦斂如弗得,刑罰恐弗勝,茀星將出,彗星何懼乎?」公曰:「可禳否?」晏子曰:「使神可祝而來,亦可禳而去也。百姓苦怨以萬數,而君令一人禳之,安能勝眾口乎?」是時景公好治宮室,聚狗馬,奢侈,厚賦重刑,故晏子以此諫之。四十二年,吳王闔閭伐楚,入郢。四十七年,魯陽虎攻其君,不勝,奔齊,請齊伐魯。鮑子諫景公,乃囚陽虎。陽虎得亡,奔晉。四十八年,與魯定公好會夾谷。犁鉏曰:「孔丘知禮而怯,請令萊人為樂,因執魯君,可得志。」景公害孔丘相魯,懼其霸,故從犁鉏之計。方會,進萊樂,孔子歷階上,使有司執萊人斬之,以禮讓景公。景公慚,乃歸魯侵地以謝,而罷去。是歲,晏嬰卒。五十五年,范、中行反其君於晉,晉攻之急,來請粟。
新字:田氏雖無大徳,以公権私,有徳於民,民愛之。」十二年,景公如晋,見平公,欲与伐燕。十八年,公復如晋,見昭公。二十六年,猟魯郊,因入魯,与晏嬰倶問魯礼。三十一年,魯昭公辟季氏難,奔斉。斉欲以千社封之,子家止昭公,昭公乃請斉伐魯,取鄆以居昭公。三十二年,彗星見。景公坐柏寝,嘆曰:「堂堂!誰有此乎?」群臣皆泣,晏子笑,公怒。晏子曰:「臣笑群臣諛甚。」景公曰:「彗星出東北,当斉分野,寡人以為憂。」晏子曰:「君高台深池,賦斂如弗得,刑罰恐弗勝,茀星将出,彗星何懼乎?」公曰:「可禳否?」晏子曰:「使神可祝而来,亦可禳而去也。百姓苦怨以万数,而君令一人禳之,安能勝衆口乎?」是時景公好治宮室,聚狗馬,奢侈,厚賦重刑,故晏子以此諫之。四十二年,呉王闔閭伐楚,入郢。四十七年,魯陽虎攻其君,不勝,奔斉,請斉伐魯。鮑子諫景公,乃囚陽虎。陽虎得亡,奔晋。四十八年,与魯定公好会夾谷。犁鉏曰:「孔丘知礼而怯,請令萊人為楽,因執魯君,可得志。」景公害孔丘相魯,懼其覇,故従犁鉏之計。方会,進萊楽,孔子歴階上,使有司執萊人斬之,以礼譲景公。景公慚,乃帰魯侵地以謝,而罷去。是歳,晏嬰卒。五十五年,范、中行反其君於晋,晋攻之急,来請粟。
書き下し
田氏は大徳無しと雖も、公権を以て私し、民に徳有り、民之を愛す」と。十二年、景公晋に如き、平公に見え、与に燕を伐たんと欲す。十八年、公復た晋に如き、昭公に見ゆ。二十六年、魯の郊に猟し、因りて魯に入り、晏嬰と倶に魯の礼を問ふ。三十一年、魯の昭公、季氏の難を辟け、斉に奔る。斉、千社を以て之を封ぜんと欲す。子家、昭公を止む。昭公乃ち斉に請ひて魯を伐ち、鄆を取りて以て昭公を居らしむ。三十二年、彗星見はる。景公、柏寝に坐し、嘆じて曰く、「堂堂たり。誰か此を有たんや」と。群臣皆泣く。晏子笑ふ。公怒る。晏子曰く、「臣は群臣の諛ふこと甚だしきを笑ふ」と。景公曰く、「彗星東北に出で、斉の分野に当る。寡人以て憂と為す」と。晏子曰く、「君は台を高くし池を深くし、賦斂は得ざるが如くし、刑罰は勝へざるを恐る。茀星将に出でんとす。彗星何ぞ懼れんや」と。公曰く、「禳ふ可きや否や」と。晏子曰く、「神をして祝して来らしむ可くんば、亦禳ひて去らしむ可きなり。百姓の苦怨するもの万を以て数ふ。而るに君一人をして之を禳はしむ。安んぞ能く衆口に勝たんや」と。是の時、景公好んで宮室を治め、狗馬を聚め、奢侈にして、賦を厚くし刑を重くす。故に晏子此を以て之を諫む。四十二年、呉王闔閭、楚を伐ちて郢に入る。四十七年、魯の陽虎、其の君を攻むるも、勝たず、斉に奔り、斉に魯を伐たんことを請ふ。鮑子、景公を諫め、乃ち陽虎を囚ふ。陽虎亡ぐるを得て、晋に奔る。四十八年、魯の定公と夾谷に好会す。犁鉏曰く、「孔丘は礼を知れども怯なり。請ふ萊人をして楽を為さしめ、因りて魯君を執へば、志を得可し」と。景公、孔丘の魯に相たるを害とし、其の覇たらんことを懼る。故に犁鉏の計に従ふ。方に会するや、萊の楽を進む。孔子階を歴て上り、有司をして萊人を執へて之を斬らしめ、礼を以て景公を譲む。景公慚ぢ、乃ち魯の侵地を帰して以て謝し、罷め去る。是の歳、晏嬰卒す。五十五年、范・中行、其の君に晋に反す。晋之を攻むること急なり。来りて粟を請ふ。
現代語訳
田氏には大きな徳はないが、公の権限を使って私的に恩恵を施し、民に恩徳を与えているので、民は田氏を慕っている」。十二年、景公は晋に行って平公に会い、ともに燕を討とうとした。十八年、景公は再び晋に行き、昭公に会った。二十六年、魯の郊外で狩りをし、そのまま魯に入り、晏嬰とともに魯の礼について尋ねた。三十一年、魯の昭公が季氏の難を避けて斉に逃げてきた。斉は二万五千戸(千社)の土地を与えて昭公を封じようとしたが、子家(子家駒)が昭公を止めた。昭公はそこで斉に魯を討ってほしいと頼み、斉は鄆(うん)を奪って昭公を住まわせた。三十二年、彗星が現れた。景公は柏寝台に座って嘆いて言った。「なんと堂々とした宮殿だろう。この先、誰がこれを持つことになるのか」。群臣はみな泣いた。ところが晏子は笑った。景公は怒った。晏子は言った。「私は群臣のへつらいがひどいのを笑ったのだ」。景公は言った。「彗星が東北に現れた。これは斉の分野(星空の区分で斉に当たる領域)に当たる。私はそれを憂えているのだ」。晏子は言った。「君は高殿を高くし、池を深くし、税を取り立てるのにまだ足りないかのようにし、刑罰を加えるのにまだ足りないと恐れるかのようにしている。このままでは、もっと凶悪な茀星(はいせい)が現れるだろう。彗星など恐れるに足りようか」。景公は言った。「お祓いで払い除けることはできるか」。晏子は言った。「神が祈りによって来るものなら、お祓いによって去らせることもできよう。しかし苦しんで恨んでいる民は万を数える。それなのに君は一人にお祓いをさせようとしている。どうしてその一人の声が大勢の民の声に勝てようか」。このころ景公は宮殿を造るのを好み、犬や馬を集め、贅沢で、税を重くし刑罰を厳しくしていた。だから晏子はこう言って諫めたのである。四十二年、呉王闔閭が楚を討って郢に入った。四十七年、魯の陽虎が主君を攻めたが勝てず、斉に逃げてきて、斉に魯を討つよう願い出た。鮑子(鮑国)が景公を諫め、陽虎を捕らえた。陽虎は逃げて晋に行った。四十八年、魯の定公と夾谷で友好の会見をした。犁鉏(りしょ)が言った。「孔丘(孔子)は礼をよく知っているが臆病だ。どうか萊の人々に音楽を奏でさせ、そのすきに魯の君主を捕らえれば、思いどおりにできるだろう」。景公は、孔丘が魯の宰相になっているのを脅威に感じ、魯が覇者となることを恐れていたので、犁鉏の計略に従った。会見が始まると、萊の音楽を演奏させた。孔子は階段を一段ずつ上って進み出て、役人に萊の人々を捕らえて斬らせ、礼をもって景公を責めた。景公は恥じ入り、魯から奪った土地を返して謝罪し、会見をやめて引き揚げた。この年、晏嬰が亡くなった。五十五年、晋で范氏と中行氏が主君に背いた。晋はこれを厳しく攻めたので、范氏と中行氏は斉に来て穀物の援助を求めた。
解説
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史記 孔子世家斉の太師と楽を語り、韶の音を聞きて之を学ぶ、三月肉の味を知らず、斉人之を称す。景公政を孔子に問ふ、孔子曰く、「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」と。景公曰く、「善いかな。信に如し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟有りと雖も、吾豈に得て諸を食はんや」と。他日又復た政を孔子に問ふ、孔子曰く、「政は財を節するに在り」と。景公説び、将に尼谿の田を以て孔子を封ぜんと欲す。晏嬰進みて曰く、「夫れ儒者は滑稽にして軌法とすべからず。倨傲にして自ら順ひ、以て下と為すべからず。喪を崇び哀を遂げ、産を破りて葬を厚くす、以て俗と為すべからず。游説して乞貸す、以て国を為むべからず。大賢の息みしより、周室既に衰へ、礼楽缺くること間有り。今孔子は容飾を盛んにし、登降の礼、趨詳の節を繁くす、累世も其の学を殫くす能はず、当年も其の礼を究むる能はず。君之を用ひて以て斉の俗を移さんと欲するは、細民に先んずる所以に非ざるなり」と。後、景公敬して孔子に見ゆるも、其の礼を問はず。異日、景公孔子を止めて曰く、「子を奉ずるに季氏を以てするは、吾能はず」と。季・孟の間を以て之を待す。斉の大夫孔子を害せんと欲す、孔子之を聞く。景公曰く、「吾老いたり、用ふる能はざるなり」と。孔子遂に行き、魯に反る。孔子年四十二、魯の昭公乾侯に卒し、定公立つ。定公立ちて五年、夏、季平子卒し、桓子嗣ぎて立つ。季桓子井を穿ちて土缶を得たり、中に羊の若きもの有り、仲尼に問ひて「狗を得たり」と云ふ。仲尼曰く、「丘の聞く所を以てすれば、羊なり。丘之を聞く、木石の怪は夔・罔閬、水の怪は龍・罔象、土の怪は墳羊なりと」と。呉越を伐ち、会稽を墮ち、骨節の車を専らにするを得たり。呉、使をして仲尼に問はしむ、「骨は何者か最も大なる」と。仲尼曰く、「禹、羣神を会稽山に致す、防風氏後れて至る、禹殺して之を戮す、其の節車を専らにす、此を大と為す」と。呉の客曰く、「誰をか神と為す」と。
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