史記 / 斉太公世家
丑父曰:「代君死而見僇,後人臣無忠其君者矣。」克捨之,丑父遂得亡歸齊。於是晉軍追齊至馬陵。齊侯請以寶器謝,不聽;必得笑克者蕭桐叔子,令齊東畝。對曰:「叔子,齊君母。齊君母亦猶晉君母,子安置之?且子以義伐而以暴為後,其可乎?」於是乃許,令反魯、衛之侵地。十一年,晉初置六卿,賞鞌之功。齊頃公朝晉,欲尊王晉景公,晉景公不敢受,乃歸。歸而頃公弛苑囿,薄賦斂,振孤問疾,虛積聚以救民,民亦大說。厚禮諸侯。竟頃公卒,百姓附,諸侯不犯。十七年,頃公卒,子靈公環立。靈公九年,晉欒書弒其君厲公。十年,晉悼公伐齊,齊令公子光質晉。十九年,立子光為太子,高厚傅之,令會諸侯盟於鐘離。二十七年,晉使中行獻子伐齊。齊師敗,靈公走入臨菑。晏嬰止靈公,靈公弗從。曰:「君亦無勇矣!」晉兵遂圍臨菑,臨菑城守不敢出,晉焚郭中而去。二十八年,初,靈公取魯女,生子光,以為太子。仲姬,戎姬。戎姬嬖,仲姬生子牙,屬之戎姬。戎姬請以為太子,公許之。仲姬曰:「不可。光之立,列於諸侯矣,今無故廢之,君必悔之。」公曰:「在我耳。」遂東太子光,使高厚傅牙為太子。靈公疾,崔杼迎故太子光而立之,是為莊公。莊公殺戎姬。
新字:丑父曰:「代君死而見僇,後人臣無忠其君者矣。」克捨之,丑父遂得亡帰斉。於是晋軍追斉至馬陵。斉侯請以宝器謝,不聴;必得笑克者蕭桐叔子,令斉東畝。対曰:「叔子,斉君母。斉君母亦猶晋君母,子安置之?且子以義伐而以暴為後,其可乎?」於是乃許,令反魯、衛之侵地。十一年,晋初置六卿,賞鞌之功。斉頃公朝晋,欲尊王晋景公,晋景公不敢受,乃帰。帰而頃公弛苑囿,薄賦斂,振孤問疾,虚積聚以救民,民亦大説。厚礼諸侯。竟頃公卒,百姓附,諸侯不犯。十七年,頃公卒,子霊公環立。霊公九年,晋欒書弒其君厲公。十年,晋悼公伐斉,斉令公子光質晋。十九年,立子光為太子,高厚傅之,令会諸侯盟於鐘離。二十七年,晋使中行献子伐斉。斉師敗,霊公走入臨菑。晏嬰止霊公,霊公弗従。曰:「君亦無勇矣!」晋兵遂囲臨菑,臨菑城守不敢出,晋焚郭中而去。二十八年,初,霊公取魯女,生子光,以為太子。仲姫,戎姫。戎姫嬖,仲姫生子牙,属之戎姫。戎姫請以為太子,公許之。仲姫曰:「不可。光之立,列於諸侯矣,今無故廃之,君必悔之。」公曰:「在我耳。」遂東太子光,使高厚傅牙為太子。霊公疾,崔杼迎故太子光而立之,是為荘公。荘公殺戎姫。
書き下し
丑父曰く、「君に代りて死して僇せらるれば、後の人臣に其の君に忠なる者無からん」と。克之を舎く。丑父遂に亡げて斉に帰るを得たり。是に於て晋の軍、斉を追ひて馬陵に至る。斉侯、宝器を以て謝せんことを請ふも、聴かず。必ず克を笑ひし者蕭桐叔子を得んとし、斉をして畝を東にせしめんとす。対へて曰く、「叔子は斉君の母なり。斉君の母は亦猶ほ晋君の母のごとし。子安んぞ之を置かん。且つ子は義を以て伐ちて暴を以て後と為す、其れ可ならんや」と。是に於て乃ち許し、魯・衛の侵地を反さしむ。十一年、晋初めて六卿を置き、鞍の功を賞す。斉の頃公、晋に朝し、晋の景公を尊びて王とせんと欲す。晋の景公敢て受けず、乃ち帰る。帰りて頃公、苑囿を弛め、賦斂を薄くし、孤を振ひ疾を問ひ、積聚を虚しくして以て民を救ふ。民も亦大いに説ぶ。厚く諸侯に礼す。頃公の卒するを竟ふるまで、百姓附き、諸侯犯さず。十七年、頃公卒し、子の霊公環立つ。霊公の九年、晋の欒書、其の君厲公を弑す。十年、晋の悼公、斉を伐つ。斉、公子光をして晋に質たらしむ。十九年、子光を立てて太子と為し、高厚之に傅たり、諸侯に会して鐘離に盟はしむ。二十七年、晋、中行献子をして斉を伐たしむ。斉の師敗る。霊公走りて臨菑に入る。晏嬰、霊公を止むるも、霊公従はず。曰く、「君も亦勇無きかな」と。晋の兵遂に臨菑を囲む。臨菑城守して敢て出でず。晋、郭中を焚きて去る。二十八年、初め、霊公、魯の女を取りて、子光を生み、以て太子と為す。仲姫・戎姫あり。戎姫嬖せらる。仲姫、子牙を生み、之を戎姫に属す。戎姫、以て太子と為さんことを請ふ。公之を許す。仲姫曰く、「不可なり。光の立つや、諸侯に列せり。今故無くして之を廃せば、君必ず之を悔いん」と。公曰く、「我に在るのみ」と。遂に太子光を東にし、高厚をして牙に傅として太子と為さしむ。霊公疾む。崔杼、故の太子光を迎へて之を立つ。是れを荘公と為す。荘公、戎姫を殺す。
現代語訳
逢丑父は言った。「主君の身代わりとなって死ぬ者が罰せられるのなら、これから後、人の臣下で主君に忠義を尽くす者はいなくなるだろう」。郤克は彼を許した。逢丑父はこうして逃げて斉に帰ることができた。そこで晋軍は斉を追って馬陵に至った。斉侯は宝物を贈って謝罪することを願い出たが、晋は聞き入れなかった。郤克はどうしても自分を笑った蕭桐叔子(しょうどうしゅくし)を人質として手に入れ、さらに斉の田のあぜ道をすべて東西向きにさせよう(晋の戦車が攻め込みやすくする)とした。斉の使者は答えた。「叔子は斉君の母である。斉君の母は、晋君の母と同じようなものだ。あなたはその方をどう扱うつもりか。しかもあなたは義によって攻めてきたのに、最後を暴虐で締めくくるというのか。それでよいのか」。そこで晋は講和を許し、魯と衛から奪った土地を返させた。十一年、晋は初めて六卿を置き、鞍の戦いの功を賞した。斉の頃公は晋に朝見し、晋の景公を尊んで王としようとしたが、晋の景公はあえて受けなかったので、帰国した。帰国すると頃公は、御苑や狩り場を民に開放し、税を軽くし、身寄りのない者を救い、病人を見舞い、蓄えを空にして民を救った。民も大いに喜んだ。諸侯には手厚く礼を尽くした。頃公が亡くなるまで、民は懐き、諸侯も斉を侵さなかった。十七年、頃公が亡くなり、子の霊公環が立った。霊公の九年、晋の欒書が君主の厲公を殺した。十年、晋の悼公が斉を討った。斉は公子光を晋に人質として差し出した。十九年、子の光を太子に立て、高厚を守り役とし、諸侯と鐘離で会盟させた。二十七年、晋は中行献子に斉を討たせた。斉軍は敗れ、霊公は逃げて臨菑に入った。晏嬰は霊公を引き止めたが、霊公は従わなかった。晏嬰は言った。「わが君にも勇気がないことだ」。晋軍はそのまま臨菑を包囲した。臨菑は城を守るだけで打って出ようとしなかった。晋は外城の中を焼き払って去った。二十八年のこと。これより先、霊公は魯の女性を娶って子の光を生ませ、太子としていた。ほかに仲姫と戎姫がいた。戎姫は寵愛されていた。仲姫は子の牙を生み、牙を戎姫に預けた。戎姫は牙を太子にしてほしいと願い、霊公はこれを許した。仲姫は言った。「いけない。光が太子に立ったことは、すでに諸侯に知れ渡っている。今、理由もなく廃すれば、君は必ず後悔なさるだろう」。霊公は言った。「決めるのは私だ」。そしてついに太子光を東の辺地に移し、高厚を牙の守り役として太子とした。霊公が病気になると、崔杼は元の太子光を迎えて立てた。これが荘公である。荘公は戎姫を殺した。
解説
関連する章句
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史記 斉太公世家懿公の立つや、驕りて、民附かず。斉人其の子を廃して公子元を衛より迎へて之を立つ。是れを恵公と為す。恵公は桓公の子なり。其の母は衛の女にして、少衛姫と曰ふ。斉の乱を避け、故に衛に在り。恵公の二年、長翟来る。王子城父、攻めて之を殺し、之を北門に埋む。晋の趙穿、其の君霊公を弑す。十年、恵公卒し、子の頃公無野立つ。初め、崔杼、恵公に寵有り。恵公卒し、高・国其の偪るを畏れ、之を逐ふ。崔杼、衛に奔る。頃公の元年、楚の荘王彊く、陳を伐つ。二年、鄭を囲む。鄭伯降り、已にして復た鄭伯を国せしむ。六年春、晋、郤克を斉に使はす。斉、夫人をして帷中にて之を観しむ。郤克上る。夫人之を笑ふ。郤克曰く、「是れに報いずんば、復た河を渉らじ」と。帰りて斉を伐たんことを請ふ。晋侯許さず。斉の使晋に至る。郤克、斉の使者四人を河内に執へて之を殺す。八年、晋、斉を伐つ。斉、公子彊を以て晋に質とす。晋の兵去る。十年春、斉、魯・衛を伐つ。魯・衛の大夫、晋に如きて師を請ふ。皆郤克に因る。晋、郤克をして車八百乗を以て中軍の将と為し、士燮は上軍に将とし、欒書は下軍に将として、以て魯・衛を救ひ、斉を伐たしむ。六月壬申、斉侯の兵と靡笄の下に合す。癸酉、鞍に陳す。逢丑父、斉の頃公の右と為る。頃公曰く、「之に馳せよ。晋の軍を破りて会食せん」と。郤克を射傷つけ、流血履に至る。克、還りて壁に入らんと欲す。其の御曰く、「我始め入りしより、再び傷つくも、敢て疾を言はず、士卒を恐懼せしめんことを恐るればなり。願はくは子之を忍べ」と。遂に復た戦ふ。戦ひて、斉急なり。丑父、斉侯の得られんことを恐れ、乃ち処を易へ、頃公右と為る。車、木に絓りて止まる。晋の小将韓厥、斉侯の車の前に伏して、曰く「寡君、臣をして魯・衛を救はしむ」と。之に戯る。丑父、頃公をして下りて飲を取らしめ、因りて亡るるを得て、脱して去り、其の軍に入る。晋の郤克、丑父を殺さんと欲す。
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史記 斉太公世家五月壬辰、霊公卒す。荘公即位し、太子牙を句竇の丘に執へて、之を殺す。八月、崔杼、高厚を殺す。晋、斉の乱を聞き、斉を伐ちて高唐に至る。荘公の三年、晋の大夫欒盈、斉に奔る。荘公厚く客として之を待す。晏嬰・田文子諫むるも、公聴かず。四年、斉の荘公、欒盈をして間かに晋の曲沃に入りて内応と為らしめ、兵を以て之に随ひ、太行に上り、孟門に入る。欒盈敗れ、斉の兵還りて、朝歌を取る。六年、初め、棠公の妻好し。棠公死し、崔杼之を取る。荘公之に通じ、数々崔氏に如き、崔杼の冠を以て人に賜ふ。待者曰く、「不可なり」と。崔杼怒り、其の晋を伐つに因りて、晋と合謀して斉を襲はんと欲するも間を得ず。荘公嘗て宦者賈挙を笞うつ。賈挙復た侍し、崔杼の為に公を間ひて以て怨に報ゆ。五月、莒子斉に朝す。斉、甲戌を以て之を饗す。崔杼病と称して事を視ず。乙亥、公、崔杼の病を問ひ、遂に崔杼の妻に従ふ。崔杼の妻室に入り、崔杼と自ら戸を閉ぢて出でず。公、柱を擁して歌ふ。宦者賈挙、公の従官を遮りて入り、門を閉づ。崔杼の徒、兵を持ちて中より起る。公、台に登りて解かんことを請ふも、許さず。盟はんことを請ふも、許さず。自ら廟に殺さんことを請ふも、許さず。皆曰く、「君の臣杼、疾病にして、命を聴く能はず。公宮に近し。陪臣、淫する者有るを争ひ趣へ、二命を知らず」と。公、墻を踰ゆ。公の股を射中つ。公反りて墜つ。遂に之を弑す。晏嬰、崔杼の門外に立ちて、曰く、「君、社稷の為に死すれば則ち之に死し、社稷の為に亡ぐれば則ち之に亡ぐ。若し己の為に死し己の為に亡ぐれば、其の私暱に非ずんば、誰か敢て之に任ぜん」と。門開きて入り、公の尸を枕にして哭し、三たび踴りて出づ。人、崔杼に謂ふ、「必ず之を殺せ」と。崔杼曰く、「民の望なり。之を舎けば民を得ん」と。丁丑、崔杼、荘公の異母弟杵臼を立つ。是れを景公と為す。景公の母は、魯の叔孫宣伯の女なり。
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史記 斉太公世家景公立ち、崔杼を以て右相と為し、慶封を左相と為す。二相、乱の起らんことを恐れ、乃ち国人と盟ひて曰く、「崔・慶に与せざる者は死せん」と。晏子天を仰ぎて曰く、「嬰の唯君に忠にして社稷を利する者に是れ従はざる所の者有らば」と。盟ふを肯ぜず。慶封、晏子を殺さんと欲す。崔杼曰く、「忠臣なり、之を舎け」と。斉の太史書して曰く「崔杼、荘公を弑す」と。崔杼之を殺す。其の弟復た書す。崔杼復た之を殺す。少弟復た書す。崔杼乃ち之を舎く。景公の元年、初め、崔杼、子成及び彊を生む。其の母死し、東郭の女を取りて、明を生む。東郭の女、其の前夫の子無咎と其の弟偃とをして崔氏に相たらしむ。成に罪有り、二相急に之を治め、明を立てて太子と為す。成、崔に老せんことを請ふ。崔杼之を許すも、二相聴かずして、曰く、「崔は宗邑なり、不可なり」と。成・彊怒り、慶封に告ぐ。慶封、崔杼と郤有り、其の敗れんことを欲す。成・彊、無咎・偃を崔杼の家に殺す。家皆奔亡す。崔杼怒るも、人無く、一宦者をして御せしめて、慶封に見ゆ。慶封曰く、「請ふ子の為に之を誅せん」と。崔杼の仇盧蒲嫳をして崔氏を攻めしめ、成・彊を殺し、尽く崔氏を滅す。崔杼の婦自殺す。崔杼帰る毋く、亦自殺す。慶封、相国と為り、権を専らにす。三年十月、慶封出でて猟す。初め、慶封已に崔杼を殺し、益々驕り、酒を嗜み猟を好み、政令を聴かず。慶舎、政を用ひ、已に内に郤有り。田文子、桓子に謂ひて曰く、「乱将に作らんとす」と。田・鮑・高・欒氏、相与に慶氏を謀る。慶舎、甲を発して慶封の宮を囲む。四家の徒共に撃ちて之を破る。慶封還るも、入るを得ず、魯に奔る。斉人、魯を譲む。封、呉に奔る。呉、之に朱方を与へ、其の族を聚めて之に居らしむ。斉に在りしより富めり。其の秋、斉人、荘公を徙し葬り、崔杼の尸を市に僇して以て衆に説ぶ。九年、景公、晏嬰をして晋に之かしむ。叔向と私語して曰く、「斉の政は卒に田氏に帰せん。
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史記 斉太公世家孝公の元年三月、宋の襄公、諸侯の兵を率ゐて斉の太子昭を送りて斉を伐つ。斉人恐れ、其の君無詭を殺す。斉人将に太子昭を立てんとす。四公子の徒、太子を攻む。太子、宋に走る。宋遂に斉人の四公子と戦ふ。五月、宋、斉の四公子の師を敗りて太子昭を立つ。是れを斉の孝公と為す。宋は桓公と管仲の之に太子を属せしを以て、故に来りて之を征す。乱の故を以て、八月に乃ち斉の桓公を葬る。六年春、斉、宋を伐つ。其の斉に同盟せざるを以てなり。夏、宋の襄公卒す。七年、晋の文公立つ。十年、孝公卒す。孝公の弟潘、衛の公子開方に因りて孝公の子を殺して潘を立つ。是れを昭公と為す。昭公は桓公の子なり。其の母を葛嬴と曰ふ。昭公の元年、晋の文公、楚を城濮に敗り、而して諸侯を践土に会し、周に朝す。天子、晋をして伯を称せしむ。六年、翟、斉を侵す。晋の文公卒す。秦の兵、殽に敗る。十二年、秦の穆公卒す。十九年五月、昭公卒し、子の舎立ちて斉君と為る。舎の母は昭公に寵無く、国人畏るる莫し。昭公の弟商人、桓公の死するを以て立たんことを争ひて得ず、陰かに賢士に交はり、百姓を附愛す。百姓説ぶ。昭公卒し、子の舎立つに及び、孤弱なり。即ち衆と十月に墓の上に即きて斉君舎を弑して、商人自ら立つ。是れを懿公と為す。懿公は桓公の子なり。其の母を密姫と曰ふ。
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史記 晋世家十五年、悼公国を治むることを師曠に問ふ。師曠曰く、「惟だ仁義を本と為す」と。冬、悼公卒し、子の平公彪立つ。平公の元年、斉を伐つ。斉の霊公与に靡下に戦ふ。斉の師敗走す。晏嬰曰く、「君も亦た勇毋し。何ぞ戦ひを止めざる」と。遂に去る。晋追ひ、遂に臨菑を囲み、尽く其の郭中を焼屠す。東は膠に至り、南は沂に至る。斉皆城守す。晋乃ち兵を引きて帰る。六年、魯の襄公晋に朝す。晋の欒逞罪有り、斉に奔る。八年、斉の荘公微かに欒逞を曲沃に遣り、兵を以て之に随はしむ。斉の兵太行に上る。欒逞曲沃の中より反し、襲ひて絳に入る。絳戒めず。平公自殺せんと欲す。范献子公を止め、其の徒を以て逞を撃つ。逞敗れて曲沃に走る。曲沃逞を攻め、逞死す。遂に欒氏の宗を滅ぼす。逞は、欒書の孫なり。其の絳に入るや、魏氏と謀る。斉の荘公逞の敗るるを聞き、乃ち還り、晋の朝歌を取りて去り、以て臨菑の役に報ゆ。十年、斉の崔杼其の君荘公を弑す。晋斉の乱に因り、伐ちて斉を高唐に敗りて去り、太行の役に報ゆ。十四年、呉の延陵季子来たり使ひし、趙文子・韓宣子・魏献子と語りて曰く、「晋国の政は、卒に此の三家に帰せん」と。十九年、斉晏嬰をして晋に如かしむ。叔向と語る。叔向曰く、「晋は、季世なり。公賦を厚くして台池を為りて政を恤へず。政私門に在り。其れ久しかるべけんや」と。晏子之を然りとす。二十二年、燕を伐つ。二十六年、平公卒し、子の昭公夷立つ。昭公六年にして卒す。六卿彊く、公室卑し。子の頃公去疾立つ。頃公の六年、周の景王崩じ、王子立つを争ふ。晋の六卿王室の乱を平らげ、敬王を立つ。九年、魯の季氏其の君昭公を逐ひ、昭公乾侯に居る。十一年、衛・宋使ひをして晋に魯君を納れんことを請はしむ。
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史記 斉太公世家周の成王少き時に及びて、管・蔡乱を作し、淮夷周に畔く。乃ち召康公をして太公に命ぜしめて曰く、「東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至るまで、五侯九伯、実に得て之を征せよ」と。斉は此に由りて征伐するを得て、大国と為る。営丘に都す。蓋し太公の卒するや百有余年、子の丁公呂伋立つ。丁公卒し、子の乙公得立つ。乙公卒し、子の癸公慈母立つ。癸公卒し、子の哀公不辰立つ。哀公の時、紀侯之を周に譖し、周、哀公を烹て其の弟静を立つ。是れを胡公と為す。胡公、都を薄姑に徙す。而して周の夷王の時に当る。哀公の同母の少弟山、胡公を怨み、乃ち其の党と営丘の人を率ゐて胡公を襲攻して殺して自立す。是れを献公と為す。献公の元年、尽く胡公の子を逐ひ、因りて薄姑の都を徙して、臨菑に治す。九年、献公卒し、子の武公寿立つ。武公の九年、周の厲王出奔して彘に居る。十年、王室乱れ、大臣政を行ひ、号して「共和」と曰ふ。二十四年、周の宣王初めて立つ。二十六年、武公卒し、子の厲公無忌立つ。厲公暴虐なり、故に胡公の子復た斉に入る。斉人之を立てんと欲し、乃ち与に厲公を攻め殺す。胡公の子も亦戦死す。斉人乃ち厲公の子赤を立てて君と為す。是れを文公と為す。而して厲公を殺しし者七十人を誅殺す。文公十二年にして卒し、子の成公脱立つ。成公九年にして卒し、子の荘公購立つ。荘公の二十四年、犬戎幽王を殺し、周東して雒に徙る。秦始めて列して諸侯と為る。五十六年、晋、其の君昭侯を弑す。六十四年、荘公卒し、子の釐公禄甫立つ。釐公の九年、魯の隠公初めて立つ。十九年、魯の桓公、其の兄隠公を弑して自立して君と為る。二十五年、北戎斉を伐つ。鄭、太子忽をして来りて斉を救はしむ。斉、之に妻はせんと欲す。
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