史記 / 斉太公世家
懿公之立,驕,民不附。齊人廢其子而迎公子元於衛,立之,是為惠公。惠公,桓公子也。其母衛女,曰少衛姬,避齊亂,故在衛。惠公二年,長翟來,王子城父攻殺之,埋之於北門。晉趙穿弒其君靈公。十年,惠公卒,子頃公無野立。初,崔杼有寵於惠公,惠公卒,高、國畏其偪也,逐之,崔杼奔衛。頃公元年,楚莊王彊,伐陳;二年,圍鄭,鄭伯降,已復國鄭伯。六年春,晉使郤克於齊,齊使夫人帷中而觀之。郤克上,夫人笑之。郤克曰:「不是報,不復涉河!」歸,請伐齊,晉侯弗許。齊使至晉,郤克執齊使者四人河內,殺之。八年。晉伐齊,齊以公子彊質晉,晉兵去。十年春,齊伐魯、衛。魯、衛大夫如晉請師,皆因郤克。晉使郤克以車八百乘為中軍將,士燮將上軍,欒書將下軍,以救魯、衛,伐齊。六月壬申,與齊侯兵合靡笄下。癸酉,陳于礱逄丑父為齊頃公右。頃公曰:「馳之,破晉軍會食。」射傷郤克,流血至履。克欲還入壁,其御曰:「我始入,再傷,不敢言疾,恐懼士卒,願子忍之。」遂復戰。戰,齊急,丑父恐齊侯得,乃易處,頃公為右,車絓於木而止。晉小將韓厥伏齊侯車前,曰「寡君使臣救魯、衛」,戲之。丑父使頃公下取飲,因得亡,脫去,入其軍。晉郤克欲殺丑父。
新字:懿公之立,驕,民不附。斉人廃其子而迎公子元於衛,立之,是為恵公。恵公,桓公子也。其母衛女,曰少衛姫,避斉乱,故在衛。恵公二年,長翟来,王子城父攻殺之,埋之於北門。晋趙穿弒其君霊公。十年,恵公卒,子頃公無野立。初,崔杼有寵於恵公,恵公卒,高、国畏其偪也,逐之,崔杼奔衛。頃公元年,楚荘王彊,伐陳;二年,囲鄭,鄭伯降,已復国鄭伯。六年春,晋使郤克於斉,斉使夫人帷中而観之。郤克上,夫人笑之。郤克曰:「不是報,不復渉河!」帰,請伐斉,晋侯弗許。斉使至晋,郤克執斉使者四人河内,殺之。八年。晋伐斉,斉以公子彊質晋,晋兵去。十年春,斉伐魯、衛。魯、衛大夫如晋請師,皆因郤克。晋使郤克以車八百乗為中軍将,士燮将上軍,欒書将下軍,以救魯、衛,伐斉。六月壬申,与斉侯兵合靡笄下。癸酉,陳于礱逄丑父為斉頃公右。頃公曰:「馳之,破晋軍会食。」射傷郤克,流血至履。克欲還入壁,其御曰:「我始入,再傷,不敢言疾,恐懼士卒,願子忍之。」遂復戦。戦,斉急,丑父恐斉侯得,乃易処,頃公為右,車絓於木而止。晋小将韓厥伏斉侯車前,曰「寡君使臣救魯、衛」,戯之。丑父使頃公下取飲,因得亡,脱去,入其軍。晋郤克欲殺丑父。
書き下し
懿公の立つや、驕りて、民附かず。斉人其の子を廃して公子元を衛より迎へて之を立つ。是れを恵公と為す。恵公は桓公の子なり。其の母は衛の女にして、少衛姫と曰ふ。斉の乱を避け、故に衛に在り。恵公の二年、長翟来る。王子城父、攻めて之を殺し、之を北門に埋む。晋の趙穿、其の君霊公を弑す。十年、恵公卒し、子の頃公無野立つ。初め、崔杼、恵公に寵有り。恵公卒し、高・国其の偪るを畏れ、之を逐ふ。崔杼、衛に奔る。頃公の元年、楚の荘王彊く、陳を伐つ。二年、鄭を囲む。鄭伯降り、已にして復た鄭伯を国せしむ。六年春、晋、郤克を斉に使はす。斉、夫人をして帷中にて之を観しむ。郤克上る。夫人之を笑ふ。郤克曰く、「是れに報いずんば、復た河を渉らじ」と。帰りて斉を伐たんことを請ふ。晋侯許さず。斉の使晋に至る。郤克、斉の使者四人を河内に執へて之を殺す。八年、晋、斉を伐つ。斉、公子彊を以て晋に質とす。晋の兵去る。十年春、斉、魯・衛を伐つ。魯・衛の大夫、晋に如きて師を請ふ。皆郤克に因る。晋、郤克をして車八百乗を以て中軍の将と為し、士燮は上軍に将とし、欒書は下軍に将として、以て魯・衛を救ひ、斉を伐たしむ。六月壬申、斉侯の兵と靡笄の下に合す。癸酉、鞍に陳す。逢丑父、斉の頃公の右と為る。頃公曰く、「之に馳せよ。晋の軍を破りて会食せん」と。郤克を射傷つけ、流血履に至る。克、還りて壁に入らんと欲す。其の御曰く、「我始め入りしより、再び傷つくも、敢て疾を言はず、士卒を恐懼せしめんことを恐るればなり。願はくは子之を忍べ」と。遂に復た戦ふ。戦ひて、斉急なり。丑父、斉侯の得られんことを恐れ、乃ち処を易へ、頃公右と為る。車、木に絓りて止まる。晋の小将韓厥、斉侯の車の前に伏して、曰く「寡君、臣をして魯・衛を救はしむ」と。之に戯る。丑父、頃公をして下りて飲を取らしめ、因りて亡るるを得て、脱して去り、其の軍に入る。晋の郤克、丑父を殺さんと欲す。
現代語訳
懿公は即位すると驕り高ぶり、民は懐かなかった。斉の人々は懿公の子を廃し、公子元を衛から迎えて立てた。これが恵公である。恵公は桓公の子で、その母は衛の女性で少衛姫という。斉の乱を避けて衛にいたのである。恵公の二年、長翟(背の高い狄族)が攻めてきた。王子城父がこれを攻め殺し、その首を北門に埋めた。晋では趙穿が君主の霊公を殺した。十年、恵公が亡くなり、子の頃公無野が立った。これより先、崔杼(さいちょ)は恵公に寵愛されていた。恵公が亡くなると、高氏と国氏は崔杼に圧迫されることを恐れて彼を追放し、崔杼は衛に逃げた。頃公の元年、楚の荘王は強大で、陳を討った。二年には鄭を包囲した。鄭伯は降伏したが、楚はやがて鄭伯に国を返した。六年の春、晋は郤克(げきこく)を斉に使者として遣わした。斉は夫人に幕の陰から郤克を見物させた。郤克が階段を上ると、夫人は(彼の足の不自由なのを見て)笑った。郤克は言った。「この恥に報いなければ、二度と黄河を渡らない」。帰国すると斉を討つことを願い出たが、晋侯は許さなかった。斉の使者が晋に来ると、郤克は斉の使者四人を河内で捕らえて殺した。八年、晋は斉を討った。斉は公子彊を晋に人質として差し出し、晋の軍は去った。十年の春、斉は魯と衛を討った。魯と衛の大夫は晋に行って援軍を求め、いずれも郤克を頼った。晋は郤克に戦車八百台を率いさせて中軍の将とし、士燮を上軍の将、欒書を下軍の将として、魯と衛を救い、斉を討たせた。六月壬申の日、斉侯の軍と靡笄山の麓で対峙した。癸酉の日、鞍(あん)に陣を敷いた。逢丑父(ほうちゅうほ)が斉の頃公の車の右側に乗った。頃公は言った。「突撃せよ。晋軍を破ってから朝食をとろう」。斉軍は郤克を射て傷つけ、血は履物にまで流れた。郤克は引き返して陣営に入ろうとした。その御者が言った。「私は戦いが始まってから二度傷を負ったが、痛いとは言わなかった。兵士を怖がらせるのを恐れたからだ。どうかあなたも我慢してほしい」。そこで再び戦った。戦ううちに斉は追い詰められた。逢丑父は斉侯が捕らえられるのを恐れ、頃公と位置を入れ替えて、頃公が右側に乗った。ところが車が木に引っかかって止まってしまった。晋の下級の将韓厥(かんけつ)が斉侯の車の前にひれ伏して、「我が君は私に魯・衛を救えとお命じになった」と言い、(本当の斉侯と知らずに)からかった。逢丑父は頃公に車を降りて水を汲んでくるよう命じ、そのすきに頃公は逃げ延び、自軍に戻った。晋の郤克は逢丑父を殺そうとした。
解説
関連する章句
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史記 斉太公世家丑父曰く、「君に代りて死して僇せらるれば、後の人臣に其の君に忠なる者無からん」と。克之を舎く。丑父遂に亡げて斉に帰るを得たり。是に於て晋の軍、斉を追ひて馬陵に至る。斉侯、宝器を以て謝せんことを請ふも、聴かず。必ず克を笑ひし者蕭桐叔子を得んとし、斉をして畝を東にせしめんとす。対へて曰く、「叔子は斉君の母なり。斉君の母は亦猶ほ晋君の母のごとし。子安んぞ之を置かん。且つ子は義を以て伐ちて暴を以て後と為す、其れ可ならんや」と。是に於て乃ち許し、魯・衛の侵地を反さしむ。十一年、晋初めて六卿を置き、鞍の功を賞す。斉の頃公、晋に朝し、晋の景公を尊びて王とせんと欲す。晋の景公敢て受けず、乃ち帰る。帰りて頃公、苑囿を弛め、賦斂を薄くし、孤を振ひ疾を問ひ、積聚を虚しくして以て民を救ふ。民も亦大いに説ぶ。厚く諸侯に礼す。頃公の卒するを竟ふるまで、百姓附き、諸侯犯さず。十七年、頃公卒し、子の霊公環立つ。霊公の九年、晋の欒書、其の君厲公を弑す。十年、晋の悼公、斉を伐つ。斉、公子光をして晋に質たらしむ。十九年、子光を立てて太子と為し、高厚之に傅たり、諸侯に会して鐘離に盟はしむ。二十七年、晋、中行献子をして斉を伐たしむ。斉の師敗る。霊公走りて臨菑に入る。晏嬰、霊公を止むるも、霊公従はず。曰く、「君も亦勇無きかな」と。晋の兵遂に臨菑を囲む。臨菑城守して敢て出でず。晋、郭中を焚きて去る。二十八年、初め、霊公、魯の女を取りて、子光を生み、以て太子と為す。仲姫・戎姫あり。戎姫嬖せらる。仲姫、子牙を生み、之を戎姫に属す。戎姫、以て太子と為さんことを請ふ。公之を許す。仲姫曰く、「不可なり。光の立つや、諸侯に列せり。今故無くして之を廃せば、君必ず之を悔いん」と。公曰く、「我に在るのみ」と。遂に太子光を東にし、高厚をして牙に傅として太子と為さしむ。霊公疾む。崔杼、故の太子光を迎へて之を立つ。是れを荘公と為す。荘公、戎姫を殺す。
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史記 晋世家隨会曰く、「昔文公の楚と城濮に戦ふや、成王帰りて子玉を殺す。而して文公乃ち喜ぶ。今楚已に我が師を敗る。又其の将を誅せば、是れ楚を助けて仇を殺すなり」と。乃ち止む。四年、先縠首計を以て晋の軍を河上に敗る。誅せられんことを恐れ、乃ち翟に奔り、翟と晋を伐たんことを謀る。晋覚り、乃ち縠を族す。縠は、先軫の子なり。五年、鄭を伐つ。楚を助けしが為の故なり。是の時楚の荘王彊し。晋の兵を河上に挫きしを以てなり。六年、楚宋を伐つ。宋来たりて急を晋に告ぐ。晋之を救はんと欲す。伯宗謀りて曰く、「楚は、天方に之を開く。当たるべからず」と。乃ち解揚をして紿(あざむ)きて宋を救ふと為さしむ。鄭人執へて楚に与ふ。楚厚く賜ひ、其の言を反さしめ、宋をして急ぎ下らしめんとす。解揚紿きて之を許し、卒に晋君の言を致す。楚之を殺さんと欲す。或いは諫む。乃ち解揚を帰す。七年、晋隨会をして赤狄を滅ぼさしむ。八年、郤克をして斉に使ひせしむ。斉の頃公の母楼上より観て之を笑ふ。然る所以の者は、郤克は僂(せむし)にして、魯の使ひは蹇(あしなへ)、衛の使ひは眇(すがめ)なり。故に斉も亦た人をして之の如くならしめて以て客を導く。郤克怒り、帰りて河上に至りて曰く、「斉に報いざれば、河伯之を視よ」と。国に至り、君に請ひて、斉を伐たんと欲す。景公其の故を問ひ知りて曰く、「子の怨み、安んぞ以て国を煩はすに足らん」と。聴かず。魏文子老を請ひて休み、郤克を辟く。克政を執る。九年、楚の荘王卒す。晋斉を伐つ。斉太子彊をして晋に質たらしむ。晋の兵罷む。十一年春、斉魯を伐ち、隆を取る。魯急を衛に告ぐ。衛と魯と皆郤克に因りて急を晋に告ぐ。晋乃ち郤克・欒書・韓厥をして兵車八百乗を以て魯・衛と共に斉を伐たしむ。夏、頃公と砹に戦ひ、頃公を傷つけ困しむ。頃公乃ち其の右と位を易へ、下りて飲を取り、以て脱して去るを得たり。斉の師敗走す。晋北ぐるを追ひて斉に至る。頃公宝器を献じて以て平らがんことを求む。聴かず。郤克曰く、「必ず蕭桐姪子を得て質と為さん」と。
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史記 斉太公世家燕の荘公遂に桓公を送りて斉の境に入る。桓公曰く、「天子に非ずんば、諸侯相送るに境を出でず。吾以て燕に無礼なる可からず」と。是に於て溝を分ちて燕君の至る所を割きて燕に与へ、燕君に命じて復た召公の政を修め、貢を周に納れしむること、成・康の時の如し。諸侯之を聞き、皆斉に従ふ。二十七年、魯の湣公の母を哀姜と曰ふ。桓公の女弟なり。哀姜、魯の公子慶父に淫す。慶父、湣公を弑す。哀姜、慶父を立てんと欲す。魯人更めて釐公を立つ。桓公、哀姜を召して之を殺す。二十八年、衛の文公に狄の乱有り、急を斉に告ぐ。斉、諸侯を率ゐて楚丘に城きて衛君を立つ。二十九年、桓公、夫人蔡姫と船中に戯る。蔡姫水に習ひ、公を蕩かす。公懼れて之を止むるも、止めず。船を出でて怒り、蔡姫を帰すも、絶たず。蔡も亦怒り、其の女を嫁す。桓公聞きて怒り、師を興して往きて伐つ。三十年春、斉の桓公、諸侯を率ゐて蔡を伐つ。蔡潰ゆ。遂に楚を伐つ。楚の成王、師を興して問ひて曰く、「何の故に吾が地に渉るや」と。管仲対へて曰く、「昔、召康公、我が先君太公に命じて曰く、『五侯九伯、若実に之を征し、以て周室を夾輔せよ』と。我が先君に履を賜ふ、東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。楚の貢の包茅入らず、王の祭具はらず。是を以て来り責む。昭王南征して復らず。是を以て来り問ふ」と。楚王曰く、「貢の入らざるは、之有り、寡人の罪なり。敢て共せざらんや。昭王の出でて復らざるは、君其れ之を水浜に問へ」と。斉の師進みて陘に次る。夏、楚王、屈完をして兵を将ゐて斉を捍がしむ。斉の師退きて召陵に次る。桓公、其の衆を以て屈完に矜る。屈完曰く、「君、道を以てせば則ち可なり。若し不ずんば、則ち楚は方城以て城と為し、江・漢以て溝と為す。君安んぞ能く進まんや」と。乃ち屈完と盟ひて去る。陳を過ぐ。陳の袁濤塗、斉を詐り、東方に出でしむ。覚る。秋、斉、陳を伐つ。
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史記 斉太公世家孝公の元年三月、宋の襄公、諸侯の兵を率ゐて斉の太子昭を送りて斉を伐つ。斉人恐れ、其の君無詭を殺す。斉人将に太子昭を立てんとす。四公子の徒、太子を攻む。太子、宋に走る。宋遂に斉人の四公子と戦ふ。五月、宋、斉の四公子の師を敗りて太子昭を立つ。是れを斉の孝公と為す。宋は桓公と管仲の之に太子を属せしを以て、故に来りて之を征す。乱の故を以て、八月に乃ち斉の桓公を葬る。六年春、斉、宋を伐つ。其の斉に同盟せざるを以てなり。夏、宋の襄公卒す。七年、晋の文公立つ。十年、孝公卒す。孝公の弟潘、衛の公子開方に因りて孝公の子を殺して潘を立つ。是れを昭公と為す。昭公は桓公の子なり。其の母を葛嬴と曰ふ。昭公の元年、晋の文公、楚を城濮に敗り、而して諸侯を践土に会し、周に朝す。天子、晋をして伯を称せしむ。六年、翟、斉を侵す。晋の文公卒す。秦の兵、殽に敗る。十二年、秦の穆公卒す。十九年五月、昭公卒し、子の舎立ちて斉君と為る。舎の母は昭公に寵無く、国人畏るる莫し。昭公の弟商人、桓公の死するを以て立たんことを争ひて得ず、陰かに賢士に交はり、百姓を附愛す。百姓説ぶ。昭公卒し、子の舎立つに及び、孤弱なり。即ち衆と十月に墓の上に即きて斉君舎を弑して、商人自ら立つ。是れを懿公と為す。懿公は桓公の子なり。其の母を密姫と曰ふ。
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史記 斉太公世家五月壬辰、霊公卒す。荘公即位し、太子牙を句竇の丘に執へて、之を殺す。八月、崔杼、高厚を殺す。晋、斉の乱を聞き、斉を伐ちて高唐に至る。荘公の三年、晋の大夫欒盈、斉に奔る。荘公厚く客として之を待す。晏嬰・田文子諫むるも、公聴かず。四年、斉の荘公、欒盈をして間かに晋の曲沃に入りて内応と為らしめ、兵を以て之に随ひ、太行に上り、孟門に入る。欒盈敗れ、斉の兵還りて、朝歌を取る。六年、初め、棠公の妻好し。棠公死し、崔杼之を取る。荘公之に通じ、数々崔氏に如き、崔杼の冠を以て人に賜ふ。待者曰く、「不可なり」と。崔杼怒り、其の晋を伐つに因りて、晋と合謀して斉を襲はんと欲するも間を得ず。荘公嘗て宦者賈挙を笞うつ。賈挙復た侍し、崔杼の為に公を間ひて以て怨に報ゆ。五月、莒子斉に朝す。斉、甲戌を以て之を饗す。崔杼病と称して事を視ず。乙亥、公、崔杼の病を問ひ、遂に崔杼の妻に従ふ。崔杼の妻室に入り、崔杼と自ら戸を閉ぢて出でず。公、柱を擁して歌ふ。宦者賈挙、公の従官を遮りて入り、門を閉づ。崔杼の徒、兵を持ちて中より起る。公、台に登りて解かんことを請ふも、許さず。盟はんことを請ふも、許さず。自ら廟に殺さんことを請ふも、許さず。皆曰く、「君の臣杼、疾病にして、命を聴く能はず。公宮に近し。陪臣、淫する者有るを争ひ趣へ、二命を知らず」と。公、墻を踰ゆ。公の股を射中つ。公反りて墜つ。遂に之を弑す。晏嬰、崔杼の門外に立ちて、曰く、「君、社稷の為に死すれば則ち之に死し、社稷の為に亡ぐれば則ち之に亡ぐ。若し己の為に死し己の為に亡ぐれば、其の私暱に非ずんば、誰か敢て之に任ぜん」と。門開きて入り、公の尸を枕にして哭し、三たび踴りて出づ。人、崔杼に謂ふ、「必ず之を殺せ」と。崔杼曰く、「民の望なり。之を舎けば民を得ん」と。丁丑、崔杼、荘公の異母弟杵臼を立つ。是れを景公と為す。景公の母は、魯の叔孫宣伯の女なり。
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史記 田敬仲完世家宣公四十三年、晋を伐ち、黄城を毀ち、陽狐を囲む。明年、魯・葛及び安陵を伐つ。明年、魯の一城を取る。荘子卒し、子太公和立つ。田太公斉の宣公に相たり。宣公四十八年、魯の城を取る。明年、宣公鄭人と西城に会す。衛を伐ち、毋丘を取る。宣公五十一年に卒す。田会廩丘より反す。宣公卒し、子康公貸立つ。貸立ちて十四年、酒・婦人に淫し、政を聴かず。太公乃ち康公を海上に遷し、一城を食ましめ、以て其の先祀を奉ぜしむ。明年、魯斉を平陸に敗る。三年、太公魏の文侯と濁沢に会し、諸侯と為らんことを求む。魏の文侯乃ち使をして周の天子及び諸侯に言はしめ、斉の相田和を立てて諸侯と為さんことを請ふ。周の天子之を許す。康公の十九年、田和立ちて斉侯と為り、周室に列し、元年を紀す。斉侯太公和立ちて二年、和卒し、子桓公午立つ。桓公午五年、秦・魏韓を攻む。韓救ひを斉に求む。斉の桓公大臣を召して謀りて曰く、「蚤く之を救ふと晩く之を救ふと孰れぞ」と。騶忌曰く、「救ふこと勿きに若かず」と。段干朋曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。之を救ふに若かず」と。田臣思曰く、「過てり君の謀や。秦・魏韓・楚を攻めば、趙必ず之を救はん。是れ天燕を以て斉に予ふるなり」と。桓公曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓自ら以為へらく斉の救ひを得たりと。因りて秦・魏と戦ふ。楚・趙之を聞き、果たして兵を起こして之を救ふ。斉因りて兵を起こして燕国を襲ひ、桑丘を取る。六年、衛を救ふ。桓公卒し、子威王因斉立つ。是の歳、故の斉の康公卒し、絶えて後無し。奉邑皆田氏に入る。斉の威王元年、三晋斉の喪に因りて来りて我が霊丘を伐つ。三年、三晋晋の後を滅ぼして其の地を分つ。六年、魯我を伐ち、陽関に入る。晋我を伐ち、博陵に至る。七年、衛我を伐ち、薛陵を取る。九年、趙我を伐ち、甄を取る。威王初めて位に即きて以来、治めず、政を卿大夫に委ぬ。九年の閒、諸侯并びに伐ち、国人治まらず。
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