史記 / 斉太公世家
忽曰:「鄭小齊大,非我敵。」遂辭之。三十二年,釐公同母弟夷仲年死。其子曰公孫無知,釐公愛之,令其秩服奉養比太子。三十三年,釐公卒,太子諸兒立,是為襄公。襄公元年,始為太子時,嘗與無知鬬,及立,絀無知秩服,無知怨。四年,魯桓公與夫人如齊。齊襄公故嘗私通魯夫人。魯夫人者,襄公女弟也,自釐公時嫁為魯桓公婦,及桓公來而襄公復通焉。魯桓公知之,怒夫人,夫人以告齊襄公。齊襄公與魯君飲,醉之,使力士彭生抱上魯君車,因拉殺魯桓公,桓公下車則死矣。魯人以為讓,而齊襄公殺彭生以謝魯。八年,伐紀,紀遷去其邑。十二年,初,襄公使連稱、管至父戍葵丘,瓜時而往,及瓜而代。往戍一歲,卒瓜時而公弗為發代。或為請代,公弗許。故此二人怒,因公孫無知謀作亂。連稱有從妹在公宮,無寵,使之閒襄公,曰「事成以女為無知夫人」。冬十二月,襄公游姑棼,遂獵沛丘。見彘,從者曰「彭生」。公怒,射之,彘人立而啼。公懼,墜車傷足,失屨。反而鞭主屨者茀三百。茀出宮。而無知、連稱、管至父等聞公傷,乃遂率其眾襲宮。逢主屨茀,茀曰:「且無入驚宮,驚宮未易入也。」無知弗信,茀示之創,乃信之。待宮外,令茀先入。茀先入,即匿襄公戶閒。
新字:忽曰:「鄭小斉大,非我敵。」遂辞之。三十二年,釐公同母弟夷仲年死。其子曰公孫無知,釐公愛之,令其秩服奉養比太子。三十三年,釐公卒,太子諸児立,是為襄公。襄公元年,始為太子時,嘗与無知闘,及立,絀無知秩服,無知怨。四年,魯桓公与夫人如斉。斉襄公故嘗私通魯夫人。魯夫人者,襄公女弟也,自釐公時嫁為魯桓公婦,及桓公来而襄公復通焉。魯桓公知之,怒夫人,夫人以告斉襄公。斉襄公与魯君飲,酔之,使力士彭生抱上魯君車,因拉殺魯桓公,桓公下車則死矣。魯人以為譲,而斉襄公殺彭生以謝魯。八年,伐紀,紀遷去其邑。十二年,初,襄公使連称、管至父戍葵丘,瓜時而往,及瓜而代。往戍一歳,卒瓜時而公弗為発代。或為請代,公弗許。故此二人怒,因公孫無知謀作乱。連称有従妹在公宮,無寵,使之閒襄公,曰「事成以女為無知夫人」。冬十二月,襄公游姑棼,遂猟沛丘。見彘,従者曰「彭生」。公怒,射之,彘人立而啼。公懼,墜車傷足,失屨。反而鞭主屨者茀三百。茀出宮。而無知、連称、管至父等聞公傷,乃遂率其衆襲宮。逢主屨茀,茀曰:「且無入驚宮,驚宮未易入也。」無知弗信,茀示之創,乃信之。待宮外,令茀先入。茀先入,即匿襄公戸閒。
書き下し
忽曰く、「鄭は小にして斉は大なり、我が敵に非ず」と。遂に之を辞す。三十二年、釐公の同母弟夷仲年死す。其の子を公孫無知と曰ふ。釐公之を愛し、其の秩服奉養をして太子に比せしむ。三十三年、釐公卒し、太子諸児立つ。是れを襄公と為す。襄公の元年、始め太子為りし時、嘗て無知と闘ふ。立つに及び、無知の秩服を絀く。無知怨む。四年、魯の桓公、夫人と斉に如く。斉の襄公は故嘗て魯の夫人と私通す。魯の夫人とは、襄公の女弟なり。釐公の時より嫁して魯の桓公の婦と為る。桓公の来るに及びて襄公復た通ず。魯の桓公之を知り、夫人を怒る。夫人以て斉の襄公に告ぐ。斉の襄公、魯君と飲み、之を酔はしめ、力士彭生をして抱きて魯君の車に上らしめ、因りて魯の桓公を拉殺す。桓公車を下れば則ち死せり。魯人以て譲を為す。而して斉の襄公、彭生を殺して以て魯に謝す。八年、紀を伐つ。紀、遷りて其の邑を去る。十二年、初め、襄公、連称・管至父をして葵丘を戍らしむ。瓜の時にして往き、瓜に及びて代らしめんとす。往きて戍ること一歳、瓜の時を卒ふるも公は為に代を発せず。或ひと為に代を請ふも、公許さず。故に此の二人怒り、公孫無知に因りて乱を作さんと謀る。連称に従妹有りて公宮に在り、寵無し。之をして襄公を間はしめて、曰く「事成らば女を以て無知の夫人と為さん」と。冬十二月、襄公、姑棼に游び、遂に沛丘に猟す。彘を見る。従者曰く「彭生なり」と。公怒りて之を射る。彘、人のごとく立ちて啼く。公懼れ、車より墜ちて足を傷つけ、屨を失ふ。反りて屨を主る者茀を鞭うつこと三百。茀、宮を出づ。而して無知・連称・管至父等、公の傷つけるを聞き、乃ち遂に其の衆を率ゐて宮を襲ふ。屨を主る茀に逢ふ。茀曰く、「且く入りて宮を驚かすこと無かれ。宮を驚かさば未だ入り易からざるなり」と。無知信ぜず。茀、之に創を示す。乃ち之を信ず。宮外に待ち、茀をして先づ入らしむ。茀先づ入り、即ち襄公を戸の間に匿す。
現代語訳
太子忽は言った。「鄭は小国で斉は大国だ。私に釣り合う相手ではない」。そして縁談を辞退した。三十二年、釐公の同母弟の夷仲年が死んだ。その子を公孫無知という。釐公は無知をかわいがり、その俸禄や衣服、待遇を太子と同じにした。三十三年、釐公が亡くなり、太子の諸児が立った。これが襄公である。襄公の元年、襄公はかつて太子だったころ無知と争ったことがあったので、即位すると無知の俸禄や衣服の格を下げた。無知は恨んだ。四年、魯の桓公が夫人とともに斉に来た。斉の襄公はかつて魯の夫人と密通していた。魯の夫人とは襄公の妹で、釐公の時代に魯の桓公に嫁いでいた。桓公が来ると、襄公はまた夫人と密通した。魯の桓公はこれを知って夫人に怒った。夫人はこのことを斉の襄公に告げた。斉の襄公は魯の桓公と酒を飲み、酔わせたうえで、力士の彭生に抱きかかえて車に乗せさせ、そのとき魯の桓公の肋骨を砕いて殺させた。桓公は車から降ろされたときには死んでいた。魯の人々は斉を責めた。斉の襄公は彭生を殺して魯に謝罪した。八年、紀を討った。紀はその邑を捨てて移った。十二年のこと。これより先、襄公は連称と管至父に葵丘を守らせたが、瓜が熟す時期に赴任させ、翌年瓜が熟すころに交代させると約束していた。赴任して一年守り、瓜の時期が過ぎても、襄公は交代の者を出さなかった。ある者が二人のために交代を願い出たが、襄公は許さなかった。そのため二人は怒り、公孫無知を担いで反乱を起こそうと謀った。連称には従妹がいて宮中に仕えていたが、襄公の寵愛を受けていなかった。連称はこの従妹に襄公の動静を探らせ、「事が成ったら、お前を無知の夫人にしよう」と言った。冬十二月、襄公は姑棼(こふん)に遊び、そのまま沛丘で狩りをした。そこで大きな猪を見つけると、お供の者が「彭生だ」と言った。襄公は怒ってこれを射た。猪は人のように立ち上がって鳴いた。襄公は恐れて車から落ち、足を傷つけ、履物をなくした。宮殿に戻ると、履物係の茀(ふつ)を三百回鞭打った。茀は宮殿を出た。無知・連称・管至父らは襄公がけがをしたと聞くと、仲間を率いて宮殿を襲った。途中で履物係の茀に出会った。茀は言った。「しばらく宮殿に入って騒がせないでほしい。宮殿を騒がせたら、たやすくは入れなくなる」。無知は信じなかった。茀が鞭打たれた傷を見せると、ようやく信じた。宮殿の外で待ち、茀に先に入らせた。茀は先に入ると、すぐに襄公を戸の陰に隠した。
解説
関連する章句
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史記 斉太公世家良久しくして、無知等恐れ、遂に宮に入る。茀反りて宮中及び公の幸臣と無知等を攻むるも、勝たず、皆死す。無知宮に入り、公を求むるも得ず。或ひと人の足を戸の間に見る。発きて視れば、乃ち襄公なり。遂に之を弑して、無知自ら立ちて斉の君と為る。桓公の元年春、斉の君無知、雍林に游ぶ。雍林の人嘗て無知に怨有り。其の往きて游ぶに及び、雍林の人、無知を襲殺し、斉の大夫に告げて曰く、「無知、襄公を弑して自立す。臣謹みて誅を行へり。唯大夫更めて公子の当に立つべき者を立てよ。唯命を是れ聴かん」と。初め、襄公の酔ひて魯の桓公を殺し、其の夫人に通じ、殺誅数々当らず、婦人に淫し、数々大臣を欺く。群弟禍の及ばんことを恐る。故に次弟糾は魯に奔る。其の母は魯の女なり。管仲・召忽之に傅たり。次弟小白は莒に奔る。鮑叔之に傅たり。小白の母は衛の女にして、釐公に寵有り。小白は少きより大夫高傒に善し。雍林の人の無知を殺すに及び、君を立てんことを議す。高・国先づ陰かに小白を莒より召す。魯も無知の死せるを聞き、亦兵を発して公子糾を送り、而して管仲をして別に兵を将ゐて莒の道を遮らしむ。小白の帯鉤を射中つ。小白詳りて死す。管仲、人をして馳せて魯に報ぜしむ。魯の糾を送る者、行くこと益々遅く、六日にして斉に至れば、則ち小白已に入り、高傒之を立つ。是れを桓公と為す。桓公の鉤に中るや、詳りて死して以て管仲を誤り、已にして温車の中に載せて馳せ行き、亦高・国の内応有り、故に先づ入りて立つを得て、兵を発して魯を距ぐ。秋、魯と乾時に戦ふ。魯の兵敗走す。斉の兵、魯の帰道を掩ひ絶つ。斉、魯に書を遺りて曰く、「子糾は兄弟なり、誅するに忍びず。請ふ魯自ら之を殺せ。召忽・管仲は讎なり。請ふ得て心を甘んじて之を醢にせん。然らずんば、将に魯を囲まんとす」と。魯人之を患ひ、遂に子糾を笙瀆に殺す。召忽自殺し、管仲囚と為らんことを請ふ。
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史記 魯周公世家請ふ子の為に隠公を殺さん」と。子允許諾す。十一月、隠公、鍾巫を祭り、社圃に斉し、蒍氏に館す。揮、人をして隠公を蒍氏に殺さしめ、而して子允を立てて君と為す。是れを桓公と為す。桓公の元年、鄭、璧を以て天子の許田に易ふ。二年、宋の賂鼎を以て太廟に入る。君子之を譏る。三年、揮をして婦を斉に迎へて夫人と為さしむ。六年、夫人子を生む。桓公と日を同じくす。故に名づけて同と曰ふ。同長じ、太子と為る。十六年、曹に会し、鄭を伐ち、厲公を入る。十八年春、公将に行くこと有らんとし、遂に夫人と斉に如く。申繻諫めて止むるも、公聴かず、遂に斉に如く。斉の襄公、桓公の夫人に通ず。公、夫人を怒る。夫人以て斉侯に告ぐ。夏四月丙子、斉の襄公、公を饗す。公酔ふ。公子彭生をして魯の桓公を抱かしめ、因りて彭生に命じて其の脅を摺かしむ。公、車に死す。魯人、斉に告げて曰く、「寡君、君の威を畏れ、敢て寧居せず、来りて好礼を修む。礼成りて反らず。咎を帰する所無し。請ふ彭生を得て丑を諸侯に除かん」と。斉人、彭生を殺して以て魯に説く。太子同を立つ。是れを荘公と為す。荘公の母夫人、因りて斉に留まり、敢て魯に帰らず。荘公の五年冬、衛を伐ち、衛の恵公を内る。八年、斉の公子糾来奔す。九年、魯、子糾を斉に内れんと欲するも、桓公に後る。桓公、兵を発して魯を撃つ。魯急にして、子糾を殺す。召忽死す。斉、魯に告げて生きながら管仲を致さしむ。魯人施伯曰く、「斉の管仲を得んと欲するは、之を殺すに非ず、将に之を用ひんとするなり。之を用ひば則ち魯の患と為らん。殺して其の尸を以て之に与ふるに如かず」と。荘公聴かず、遂に管仲を囚にして斉に与ふ。斉人、管仲を相とす。十三年、魯の荘公、曹沬と斉の桓公に柯に会す。曹沬、斉の桓公を劫かし、魯の侵地を求め、已に盟ひて桓公を釈く。桓公約に背かんと欲す。管仲諫め、卒に魯の侵地を帰す。
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史記 魯周公世家斉の恵公の二年、鄋瞞、斉を伐つ。斉の王子城父、其の弟栄如を獲て、其の首を北門に埋む。衛人、其の季弟簡如を獲たり。鄋瞞是に由りて遂に亡ぶ。十五年、季文子、晋に使す。十八年二月、文公卒す。文公に二妃有り。長妃は斉の女にして哀姜と為し、子悪及び視を生む。次妃は敬嬴、嬖愛せられ、子俀を生む。俀私かに襄仲に事ふ。襄仲之を立てんと欲す。叔仲、不可なりと曰ふ。襄仲、斉の恵公に請ふ。恵公新たに立ち、魯に親しまんと欲し、之を許す。冬十月、襄仲、子悪及び視を殺して俀を立つ。是れを宣公と為す。哀姜斉に帰り、哭して市を過ぎて、曰く、「天か。襄仲、不道を為し、適を殺して庶を立つ」と。市人皆哭す。魯人之を『哀姜』と謂ふ。魯是に由りて公室卑しく、三桓彊し。宣公俀の十二年、楚の荘王彊く、鄭を囲む。鄭伯降り、復た之を国せしむ。十八年、宣公卒し、子の成公黒肱立つ。是れを成公と為す。季文子曰く、「我をして適を殺して庶を立て大援を失はしめし者は、襄仲なり」と。襄仲、宣公を立て、公孫帰父寵有り。宣公、三桓を去らんと欲し、晋と謀りて三桓を伐たんとす。会々宣公卒す。季文子之を怨み、帰父、斉に奔る。成公の二年春、斉、伐ちて我が隆を取る。夏、公、晋の郤克と斉の頃公を鞍に敗り、斉復た我が侵地を帰す。四年、成公、晋に如く。晋の景公、魯を敬せず。魯、晋に背きて楚に合はんと欲す。或ひと諫め、乃ち不す。十年、成公、晋に如く。晋の景公卒す。因りて成公を留めて葬を送らしむ。魯之を諱む。十五年、始めて呉王寿夢と鐘離に会す。十六年、宣伯、晋に告げて、季文子を誅せんと欲す。文子に義有り、晋人許さず。十八年、成公卒し、子の午立つ。是れを襄公と為す。是の時、襄公三歳なり。襄公の元年、晋、悼公を立つ。往年冬、晋の欒書、其の君厲公を弑す。
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『管子』大匡五月、襄公貝丘に田し、豕彘を見る。從者曰く、「公子彭生なり」と。公怒りて曰く、「公子彭生安んぞ敢えて見えんや」と。之を射るに、豕人のごとく立ちて啼く。公懼れ、車下に墜ち、足を傷つけ屨を亡う。反りて、屨を徒人費に誅むるも、得ざるなり、之を鞭うちて血を見る。費走りて出で、賊に門に遇い、脅かされて之を束ぬ。費袒して之に背を示す、賊之を信じ、費をして先ず入らしむ、公を伏せて出で、鬭いて門中に死す。石之紛如、階下に死す。孟陽君に代わりて牀に寢ぬ、賊之を殺して曰く、「君に非ず、類せず」と。公の足を戶下に見て、遂に公を殺して、公孫無知を立つるなり。
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史記 魯周公世家十五年、斉の桓公始めて覇たり。二十三年、荘公斉に如きて社を観る。三十二年、初め、荘公、台を築きて党氏に臨み、孟女を見て、説びて之を愛し、立てて夫人と為さんことを許し、臂を割きて以て盟ふ。孟女、子斑を生む。斑長じ、梁氏の女を説び、往きて観る。圉人犖、墻外より梁氏の女と戯る。斑怒りて、犖を鞭うつ。荘公之を聞きて、曰く、「犖は力有り。遂に之を殺せ。是れ未だ鞭うちて置く可からざるなり」と。斑未だ殺すを得ず。会々荘公疾有り。荘公に三弟有り。長を慶父と曰ひ、次を叔牙と曰ひ、次を季友と曰ふ。荘公、斉の女を取りて夫人と為し、哀姜と曰ふ。哀姜子無し。哀姜の娣を叔姜と曰ひ、子開を生む。荘公に適嗣無く、孟女を愛し、其の子斑を立てんと欲す。荘公病み、嗣を弟叔牙に問ふ。叔牙曰く、「一継一及は、魯の常なり。慶父在り、嗣と為す可し。君何ぞ憂へん」と。荘公、叔牙の慶父を立てんと欲するを患へ、退きて季友に問ふ。季友曰く、「請ふ死を以て斑を立てん」と。荘公曰く、「曩者、叔牙、慶父を立てんと欲す。柰何せん」と。季友、荘公の命を以て牙に命じて鍼巫氏に待たしめ、鍼季をして叔牙を劫かして飲ましむるに鴆を以てせしめて、曰く、「此を飲めば則ち後有りて祀を奉ぜん。然らずんば、死して且つ後無からん」と。牙遂に鴆を飲みて死す。魯、其の子を立てて叔孫氏と為す。八月癸亥、荘公卒す。季友竟に子斑を立てて君と為すこと、荘公の命の如し。喪に侍して、党氏に舎る。是より先、慶父、哀姜と私通し、哀姜の娣の子開を立てんと欲す。荘公卒して季友の斑を立つるに及び、十月己未、慶父、圉人犖をして魯の公子斑を党氏に殺さしむ。季友、陳に奔る。慶父竟に荘公の子開を立つ。是れを湣公と為す。湣公の二年、慶父、哀姜と通ずること益々甚だし。哀姜、慶父と謀りて湣公を殺して慶父を立てんとす。慶父、卜齮をして湣公を武闈に襲殺せしむ。
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史記 斉太公世家孝公の元年三月、宋の襄公、諸侯の兵を率ゐて斉の太子昭を送りて斉を伐つ。斉人恐れ、其の君無詭を殺す。斉人将に太子昭を立てんとす。四公子の徒、太子を攻む。太子、宋に走る。宋遂に斉人の四公子と戦ふ。五月、宋、斉の四公子の師を敗りて太子昭を立つ。是れを斉の孝公と為す。宋は桓公と管仲の之に太子を属せしを以て、故に来りて之を征す。乱の故を以て、八月に乃ち斉の桓公を葬る。六年春、斉、宋を伐つ。其の斉に同盟せざるを以てなり。夏、宋の襄公卒す。七年、晋の文公立つ。十年、孝公卒す。孝公の弟潘、衛の公子開方に因りて孝公の子を殺して潘を立つ。是れを昭公と為す。昭公は桓公の子なり。其の母を葛嬴と曰ふ。昭公の元年、晋の文公、楚を城濮に敗り、而して諸侯を践土に会し、周に朝す。天子、晋をして伯を称せしむ。六年、翟、斉を侵す。晋の文公卒す。秦の兵、殽に敗る。十二年、秦の穆公卒す。十九年五月、昭公卒し、子の舎立ちて斉君と為る。舎の母は昭公に寵無く、国人畏るる莫し。昭公の弟商人、桓公の死するを以て立たんことを争ひて得ず、陰かに賢士に交はり、百姓を附愛す。百姓説ぶ。昭公卒し、子の舎立つに及び、孤弱なり。即ち衆と十月に墓の上に即きて斉君舎を弑して、商人自ら立つ。是れを懿公と為す。懿公は桓公の子なり。其の母を密姫と曰ふ。
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