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史記 / 斉太公世家

或曰,太公博聞,嘗事紂。紂無道,去之。游說諸侯,無所遇,而卒西歸周西伯。或曰,呂尚處士,隱海濱。周西伯拘羑里,散宜生、閎夭素知而招呂尚。呂尚亦曰「吾聞西伯賢,又善養老,盍往焉」。三人者為西伯求美女奇物,獻之於紂,以贖西伯。西伯得以出,反國。言呂尚所以事周雖異,然要之為文武師。周西伯昌之脫羑里歸,與呂尚陰謀修德以傾商政,其事多兵權與奇計,故後世之言兵及周之陰權皆宗太公為本謀。周西伯政平,及斷虞芮之訟,而詩人稱西伯受命曰文王。伐崇、密須、犬夷,大作豐邑。天下三分,其二歸周者,太公之謀計居多。文王崩,武王即位。九年,欲修文王業,東伐以觀諸侯集否。師行,師尚父左杖黃鉞,右把白旄以誓,曰:「蒼兕蒼兕,總爾眾庶,與爾舟楫,後至者斬!」遂至盟津。諸侯不期而會者八百諸侯。諸侯皆曰:「紂可伐也。」武王曰:「未可。」還師,與太公作此太誓。居二年,紂殺王子比干,囚箕子。武王將伐紂,卜龜兆,不吉,風雨暴至。群公盡懼,唯太公彊之勸武王,武王於是遂行。十一年正月甲子,誓於牧野,伐商紂。紂師敗績。紂反走,登鹿臺,遂追斬紂。

新字:或曰,太公博聞,嘗事紂。紂無道,去之。游説諸侯,無所遇,而卒西帰周西伯。或曰,呂尚処士,隠海浜。周西伯拘羑里,散宜生、閎夭素知而招呂尚。呂尚亦曰「吾聞西伯賢,又善養老,盍往焉」。三人者為西伯求美女奇物,献之於紂,以贖西伯。西伯得以出,反国。言呂尚所以事周雖異,然要之為文武師。周西伯昌之脱羑里帰,与呂尚陰謀修徳以傾商政,其事多兵権与奇計,故後世之言兵及周之陰権皆宗太公為本謀。周西伯政平,及断虞芮之訟,而詩人称西伯受命曰文王。伐崇、密須、犬夷,大作豊邑。天下三分,其二帰周者,太公之謀計居多。文王崩,武王即位。九年,欲修文王業,東伐以観諸侯集否。師行,師尚父左杖黄鉞,右把白旄以誓,曰:「蒼兕蒼兕,総爾衆庶,与爾舟楫,後至者斬!」遂至盟津。諸侯不期而会者八百諸侯。諸侯皆曰:「紂可伐也。」武王曰:「未可。」還師,与太公作此太誓。居二年,紂殺王子比干,囚箕子。武王将伐紂,卜亀兆,不吉,風雨暴至。群公尽懼,唯太公彊之勧武王,武王於是遂行。十一年正月甲子,誓於牧野,伐商紂。紂師敗績。紂反走,登鹿台,遂追斬紂。

書き下し

或ひと曰く、太公は博聞にして、嘗て紂に事ふ。紂無道なれば、之を去る。諸侯に游説するも、遇ふ所無く、而して卒に西のかた周の西伯に帰すと。或ひと曰く、呂尚は処士にして、海浜に隠る。周の西伯、羑里に拘へらる。散宜生・閎夭、素より知りて呂尚を招く。呂尚も亦曰く、「吾聞く、西伯は賢にして、又善く老を養ふと。盍ぞ往かざる」と。三人の者、西伯の為に美女・奇物を求め、之を紂に献じて、以て西伯を贖ふ。西伯出づるを得て、国に反ると。呂尚の周に事ふる所以を言ふこと異なると雖も、然れども之を要するに文・武の師たり。周の西伯昌の羑里を脱して帰るや、呂尚と陰かに謀りて徳を修め以て商の政を傾く。其の事は兵権と奇計と多し。故に後世の兵及び周の陰権を言ふ者は皆太公を宗として本謀と為す。周の西伯、政平らかにして、虞・芮の訟を断ずるに及びて、詩人、西伯の命を受くるを称して文王と曰ふ。崇・密須・犬夷を伐ち、大いに豊邑を作る。天下三分して、其の二周に帰する者は、太公の謀計多きに居る。文王崩じ、武王即位す。九年、文王の業を修めんと欲し、東伐して以て諸侯の集まるや否やを観る。師行くに、師尚父、左に黄鉞を杖き、右に白旄を把りて以て誓ひて曰く、「蒼兕蒼兕、爾の衆庶を総べ、爾の舟楫を与へよ。後れて至る者は斬らん」と。遂に盟津に至る。諸侯期せずして会する者八百諸侯。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「未だ可ならず」と。師を還し、太公と此の太誓を作る。居ること二年、紂、王子比干を殺し、箕子を囚ふ。武王将に紂を伐たんとし、亀兆を卜するに、吉ならず、風雨暴かに至る。群公尽く懼る。唯太公のみ彊ひて之を武王に勧め、武王是に於て遂に行く。十一年正月甲子、牧野に誓ひ、商の紂を伐つ。紂の師敗績す。紂反り走りて鹿台に登る。遂に追ひて紂を斬る。

現代語訳

ある説では、太公は博識で、かつて紂に仕えていた。紂が無道であったので、紂のもとを去った。諸侯の間を遊説したが、認めてくれる君主に出会えず、ついに西の周の西伯(文王)のもとに身を寄せたという。また別の説では、呂尚は仕官しない在野の士で、海辺に隠れ住んでいた。周の西伯が羑里(ゆうり)に捕らえられたとき、散宜生と閎夭(こうよう)は以前から呂尚を知っていたので彼を招いた。呂尚もまた言った。「西伯は賢明で、そのうえ老人を大切にすると聞いている。行ってみようではないか」。三人は西伯のために美女や珍しい品を探し求め、それを紂に献上して西伯を釈放させた。西伯は出獄して国に帰ることができたという。呂尚が周に仕えることになった経緯は説によって異なるが、要するに文王・武王の師となったのである。周の西伯昌(文王)が羑里を脱して帰国すると、呂尚とひそかに謀り、徳を修めて殷の政権を傾けようとした。その事業には兵の指揮や奇抜な計略が多かった。そのため後世、兵法や周の秘密の計略を語る者は、みな太公を祖とし根本の謀をなした人とする。周の西伯の政治は公平で、虞と芮の国の訴訟を裁くに至って、詩人は西伯が天命を受けたとたたえて文王と呼んだ。崇・密須・犬夷を討ち、豊邑を大いに築いた。天下を三分して、その二つが周に帰服したのは、太公の計略によるところが大きかった。文王が亡くなり、武王が即位した。九年、武王は文王の事業を受け継ごうとして、東へ兵を進めて諸侯が集まるかどうかを見た。軍が出発すると、師尚父(太公)は左手に黄金の鉞(まさかり)を突き、右手に白い旄(はた)を握って誓いを立てた。「蒼兕(そうじ、水の獣の名で舟の長を指す)よ、蒼兕よ、お前たちの民衆を率い、舟と櫂をそろえよ。遅れて到着した者は斬る」。こうして盟津に至った。約束もしていないのに集まってきた諸侯は八百に上った。諸侯はみな言った。「紂を討つべきだ」。武王は言った。「まだいけない」。そして軍を引き返し、太公とともにこの「太誓」を作った。二年後、紂は王子比干を殺し、箕子を捕らえた。武王が紂を討とうとして亀の甲で占うと、吉と出ず、しかも風雨が激しく吹きつけた。群臣はみな恐れた。ただ太公だけが強く武王に勧め、武王はそこでついに出陣した。十一年正月甲子の日、牧野で誓いを立て、殷の紂を討った。紂の軍は大敗した。紂は逃げ帰って鹿台に登った。武王は追いかけて紂を斬った。

解説

太公望が周に仕えた経緯について、司馬遷は二つの説を並べます。紂に仕えたが見限って周に来たという説と、海辺に隠れていたが文王救出のために招かれたという説です。どちらが正しいかは断定せず、「要するに文王・武王の師となった」とまとめる書き方に、司馬遷の史料への誠実さが表れています。太公は兵法と奇計に長け、後世の兵家から祖と仰がれました。天下の三分の二を周に帰服させたのも彼の計略が大きかったといいます。印象的なのは、盟津に八百の諸侯が集まっても武王が「まだいけない」と引き返したこと、そして占いが凶と出て群臣が恐れる中、太公だけが出陣を強く勧めたことです。機が熟していないときは待ち、熟したときには迷信に惑わされず決断する。その両方を備えた参謀の姿がここにあります。

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