史記 / 斉太公世家
太公望呂尚者,東海上人。其先祖嘗為四嶽,佐禹平水土甚有功。虞夏之際封於呂,或封於申,姓姜氏。夏商之時,申、呂或封枝庶子孫,或為庶人,尚其後苗裔也。本姓姜氏,從其封姓,故曰呂尚。
新字:太公望呂尚者,東海上人。其先祖嘗為四嶽,佐禹平水土甚有功。虞夏之際封於呂,或封於申,姓姜氏。夏商之時,申、呂或封枝庶子孫,或為庶人,尚其後苗裔也。本姓姜氏,従其封姓,故曰呂尚。
書き下し
太公望呂尚は、東海の上の人なり。其の先祖嘗て四岳と為り、禹を佐けて水土を平ぐること甚だ功有り。虞夏の際に呂に封ぜられ、或いは申に封ぜられ、姓は姜氏。夏商の時、申・呂或いは枝庶の子孫を封じ、或いは庶人と為る。尚は其の後の苗裔なり。本姓は姜氏、其の封に従ひて姓とす、故に呂尚と曰ふ。
現代語訳
太公望呂尚は、東海のほとりの人である。その先祖はかつて四岳(四方の諸侯の長)となり、禹を助けて洪水を治め土地を整えるのに大きな功績があった。虞(舜)・夏の時代に呂に封じられ、あるいは申に封じられ、姓は姜氏であった。夏・殷の時代には、申や呂には分家の子孫が封じられることもあれば、庶民になることもあった。呂尚はその子孫である。本来の姓は姜氏だが、封じられた土地の名を姓としたので、呂尚という。
解説
「斉太公世家」の冒頭で、斉の始祖となった太公望呂尚の出自が語られます。先祖は禹の治水を助けた四岳で、呂や申の地に封じられた姜姓の一族でしたが、夏や殷の時代には庶民に落ちた者もいたと記されます。つまり呂尚は、名家の血を引きながらも、自らは身分の低いところから身を起こした人物だということです。姓は姜、氏は呂で、古代では封じられた土地の名を氏としたため「呂尚」と呼ばれました。釣りをしていて周の文王に見いだされたという「太公望」の逸話は、この後に続きます。家柄だけでは人の価値は決まらず、落ちぶれた家からでも時を得れば大きな仕事をなし得るということを、司馬遷はこの短い系譜の中にも示しています。出自や肩書より、その人が何をなし得るかを見る姿勢が問われます。
関連する章句
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史記 斉太公世家呂尚蓋し嘗て窮困し、年老いたり、漁釣を以て周の西伯に奸む。西伯将に出でて猟せんとし、之を卜す、曰く、「獲る所は龍に非ず彨に非ず虎に非ず羆に非ず、獲る所は霸王の輔なり」と。周の西伯猟し、果たして太公に渭の陽に遇ひ、与に語りて大いに説び、曰く、「吾が太公子を望むこと久し」と。故に之を号して太公望と曰ひ、載せて与に俱に帰り、立てて師と為す。
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史記 斉太公世家太公国に至り、政を修め、其の俗に因り、其の礼を簡にし、商工の業を通じ、魚塩の利を便にす、而して人民多く斉に帰し、斉大国と為る。
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史記 斉太公世家或ひと曰く、太公は博聞にして、嘗て紂に事ふ。紂無道なれば、之を去る。諸侯に游説するも、遇ふ所無く、而して卒に西のかた周の西伯に帰すと。或ひと曰く、呂尚は処士にして、海浜に隠る。周の西伯、羑里に拘へらる。散宜生・閎夭、素より知りて呂尚を招く。呂尚も亦曰く、「吾聞く、西伯は賢にして、又善く老を養ふと。盍ぞ往かざる」と。三人の者、西伯の為に美女・奇物を求め、之を紂に献じて、以て西伯を贖ふ。西伯出づるを得て、国に反ると。呂尚の周に事ふる所以を言ふこと異なると雖も、然れども之を要するに文・武の師たり。周の西伯昌の羑里を脱して帰るや、呂尚と陰かに謀りて徳を修め以て商の政を傾く。其の事は兵権と奇計と多し。故に後世の兵及び周の陰権を言ふ者は皆太公を宗として本謀と為す。周の西伯、政平らかにして、虞・芮の訟を断ずるに及びて、詩人、西伯の命を受くるを称して文王と曰ふ。崇・密須・犬夷を伐ち、大いに豊邑を作る。天下三分して、其の二周に帰する者は、太公の謀計多きに居る。文王崩じ、武王即位す。九年、文王の業を修めんと欲し、東伐して以て諸侯の集まるや否やを観る。師行くに、師尚父、左に黄鉞を杖き、右に白旄を把りて以て誓ひて曰く、「蒼兕蒼兕、爾の衆庶を総べ、爾の舟楫を与へよ。後れて至る者は斬らん」と。遂に盟津に至る。諸侯期せずして会する者八百諸侯。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「未だ可ならず」と。師を還し、太公と此の太誓を作る。居ること二年、紂、王子比干を殺し、箕子を囚ふ。武王将に紂を伐たんとし、亀兆を卜するに、吉ならず、風雨暴かに至る。群公尽く懼る。唯太公のみ彊ひて之を武王に勧め、武王是に於て遂に行く。十一年正月甲子、牧野に誓ひ、商の紂を伐つ。紂の師敗績す。紂反り走りて鹿台に登る。遂に追ひて紂を斬る。
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史記 貨殖列伝故に太公望、営丘に封ぜらるるに、地は澙鹵にして人民寡し。是に於いて太公其の女功を勧め、技巧を極め、魚塩を通ず。則ち人物之に帰し、繦のごとく至りて輻湊す。故に斉は天下に冠帯衣履し、海岱の間は袂を斂めて往きて朝す。其の後斉中ごろ衰へ、管子之を修め、軽重九府を設く。則ち桓公以て覇たり、諸侯を九合し、天下を一匡す。而して管氏も亦三帰有り、位は陪臣に在れども、列国の君より富む。是を以て斉の富彊は威・宣に至るなり。
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呂氏春秋・長見④呂太公望、齊に封ぜられ、周公旦、魯に封ぜらる。二君は甚だ相善し。相謂いて曰く、「何を以て國を治めん。」太公望曰く、「賢を尊び功を上ばん。」周公旦曰く、「親を親しみ恩を上ばん。」太公望曰く、「魯、此れ自り削られん。」周公旦曰く、「魯削らると雖も、齊を有つ者も亦た必ず呂氏に非ざらん。」其の後齊は日に以て大に、霸に至り、二十四世にして田成子、齊國を有てり。魯は日に以て削られ、覲存に至り、三十四世にして亡ぶ。
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