史記 / 呉太伯世家
太史公曰:孔子言「太伯可謂至德矣,三以天下讓,民無得而稱焉」。余讀春秋古文,乃知中國之虞與荊蠻句吳兄弟也。延陵季子之仁心,慕義無窮,見微而知清濁。嗚呼,又何其閎覽博物君子也!
新字:太史公曰:孔子言「太伯可謂至徳矣,三以天下譲,民無得而称焉」。余読春秋古文,乃知中国之虞与荊蠻句呉兄弟也。延陵季子之仁心,慕義無窮,見微而知清濁。嗚呼,又何其閎覧博物君子也!
書き下し
太史公曰く、孔子言ふ、「太伯は至徳と謂ふ可し、三たび天下を以て譲る、民得て称する無し」と。延陵季子の仁心、義を慕ふこと窮まり無く、微を見て清濁を知る。嗚呼、又何ぞ其れ閎覧博物の君子なるや。
現代語訳
太史公は言う。「孔子はこう言った。『太伯は最高の徳と言ってよい。三度も天下を譲ったが、人民はそれを称えることすらできなかった(あまりに目立たなかったので)』と。延陵の季子の仁の心、義を慕う思いは尽きることがなく、わずかな兆しから清濁を見分けた。ああ、なんと見識が広く物事に通じた君子であることか」。
解説
「譲ることの、最も気高い徳と、わずかな兆しから本質を見抜く眼」——司馬遷が、太伯と季札という、二人の稀有な人物を讃えた、この篇の結びです。司馬遷は、まず、孔子の言葉を引いて、建国の祖・太伯を、最大級に、讃えます。「孔子は、こう言った。『太伯こそ、(人としての徳の)最高の境地(至德)に、達した人物と、言うべきだろう。彼は、三度までも、天下(の位)を、(弟に)譲った。しかも、(その譲りが、あまりにも、さりげなく、無私であったため、)民は、(彼の、その徳を、)どう称え、褒めたたえてよいか、分からないほどだった(民無得而稱焉)』」と。地位を譲ったことを、誇るでもなく、恩に着せるでもなく、当然のこととして、静かに行った——だから、人々は、褒めようにも、褒める手がかりすら、見つからなかった。それほど、無私で、自然な徳だった、というのです。次に司馬遷は、季札(延陵季子)を、讃えます。「延陵の季子の、その、仁愛に満ちた心。義(正しい道)を慕う思いは、限りなく深かった。そして、(彼は、)ごく、わずかな兆し(微)を見ただけで、(その物事の、あるいは、その国の、)清らかさと濁り(本質と、行く末)を、見抜くことができたのだ(見微而知清濁)」と。(季札は、諸国を巡ったとき、その国の音楽を聴いただけで、その国の政治の善し悪しと、将来の盛衰を、ことごとく、言い当てた、といいます。)そして、司馬遷は、感嘆して、結びます。「ああ、なんと、その見識が、広く深く、あらゆる物事に、通じた、君子であったことか」と。ここに、二つの教訓があります。第一に、最も気高い徳とは、(それを、誇ったり、恩に着せたりせず、)あまりに、さりげなく、自然に行われるため、周囲が、褒めようにも、褒める手がかりすら、見つけられないような、無私の行い(民無得而稱焉)であるということ。真の徳は、静かで、目立たない。誇示された善行は、すでに、その価値を、いくらか、損なっている。第二に、優れた人物は、ごく、わずかな兆し(微)——小さな言動、細部の様子——を見ただけで、その物事の本質や、行く末を、見抜くことができるということ(見微而知清濁)。細部に、宿る本質を、見逃さない、鋭い観察眼。第三に、そうした見識は、広く深い教養と、あらゆる物事への、飽くなき関心(閎覽博物)から、養われるということ。組織や人生で、真の徳が誇示されず静かで目立たないものだと知ること、わずかな兆しから物事の本質と行く末を見抜く観察眼を養うこと、そして広く深い教養と関心が見識を育てると理解すること——司馬遷の太伯・季札評は、無私の徳と、本質を見抜く眼の尊さを教えます。
この章句が説くこと
呉太伯世家太史公評太伯至徳三以天下譲民無得而称焉真の徳は静かで目立たない誇示された善行
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