史記 / 孝武本紀
泰一所用,如雍一畤物,而加醴棗脯之屬,殺一犛牛以為俎豆牢具。而五帝獨有俎豆醴進。其下四方地,為餟食群神從者及北斗云。已祠,胙餘皆燎之。其牛色白,鹿居其中,彘在鹿中,水而洎之。祭日以牛,祭月以羊彘特。泰一祝宰則衣紫及繡。五帝各如其色,日赤,月白。十一月辛已朔旦冬至,昧爽,天子始郊拜泰一。朝朝日,夕夕月,則揖;而見泰一如雍禮。其贊饗曰:「天始以寶鼎神筴授皇帝,朔而又朔,終而復始,皇帝敬拜見焉。」而衣上黃。其祠列火滿壇,壇旁烹炊具。有司云「祠上有光焉」。公卿言「皇帝始郊見泰一雲陽,有司奉瑄玉嘉牲薦饗。是夜有美光,及晝,黃氣上屬天。」太史公、祠官寬舒等曰:「神靈之休,祐福兆祥,宜因此地光域立泰畤壇以明應。令太祝領,秋及臘閒祠。三歲天子一郊見。」其秋,為伐南越,告禱泰一,以牡荊畫幡日月北斗登龍,以象天一三星,為泰一鋒,名曰「靈旗」。為兵禱,則太史奉以指所伐國。而五利將軍使不敢入海,之泰山祠。上使人微隨驗,實無所見。五利妄言見其師,其方盡,多不讎。上乃誅五利。其冬,公孫卿候神河南,見僊人跡緱氏城上,有物若雉,往來城上。天子親幸緱氏城視跡。問卿:「得毋效文成、五利乎?」
新字:泰一所用,如雍一畤物,而加醴棗脯之属,殺一犛牛以為俎豆牢具。而五帝独有俎豆醴進。其下四方地,為餟食群神従者及北斗云。已祠,胙余皆燎之。其牛色白,鹿居其中,彘在鹿中,水而洎之。祭日以牛,祭月以羊彘特。泰一祝宰則衣紫及繍。五帝各如其色,日赤,月白。十一月辛已朔旦冬至,昧爽,天子始郊拝泰一。朝朝日,夕夕月,則揖;而見泰一如雍礼。其賛饗曰:「天始以宝鼎神筴授皇帝,朔而又朔,終而復始,皇帝敬拝見焉。」而衣上黄。其祠列火満壇,壇旁烹炊具。有司云「祠上有光焉」。公卿言「皇帝始郊見泰一雲陽,有司奉瑄玉嘉牲薦饗。是夜有美光,及昼,黄気上属天。」太史公、祠官寛舒等曰:「神霊之休,祐福兆祥,宜因此地光域立泰畤壇以明応。令太祝領,秋及臘閒祠。三歳天子一郊見。」其秋,為伐南越,告祷泰一,以牡荊画幡日月北斗登竜,以象天一三星,為泰一鋒,名曰「霊旗」。為兵祷,則太史奉以指所伐国。而五利将軍使不敢入海,之泰山祠。上使人微随験,実無所見。五利妄言見其師,其方尽,多不讎。上乃誅五利。其冬,公孫卿候神河南,見僊人跡緱氏城上,有物若雉,往来城上。天子親幸緱氏城視跡。問卿:「得毋効文成、五利乎?」
書き下し
泰一の用ゐる所は、雍の一畤の物の如く、而して醴棗脯の属を加へ、一犛牛を殺して以て俎豆の牢具と為す。而して五帝は独り俎豆醴の進有り。其の下の四方の地は、餟食の為に群神の従者及び北斗を云ふ。已に祠れば、胙の余は皆之を燎く。其の牛の色は白、鹿其の中に居り、彘鹿の中に在り、水にて之を洎(ひた)す。日を祭るに牛を以てし、月を祭るに羊彘特を以てす。泰一の祝宰は則ち紫及び繡を衣る。五帝は各々其の色の如くし、日は赤、月は白。十一月辛已朔旦冬至、昧爽、天子始めて郊して泰一を拝す。朝に日を朝し、夕に月を夕すれば、則ち揖す。而して泰一に見ゆること雍の礼の如くす。其の贊饗に曰く、「天始めて宝鼎神筴を以て皇帝に授く、朔にして又朔、終はりて復た始まる、皇帝敬ひて拝し焉に見ゆ。」と。而して衣は黄を上ぶ。其の祠火を列ねて壇に満たし、壇の旁に烹炊の具あり。有司云ふ「祠上に光有り」と。公卿言ふ「皇帝始めて泰一に雲陽に郊見す、有司瑄玉嘉牲を奉じて薦饗す。是の夜美光有り、昼に及びて、黄気上りて天に属す。」と。太史公・祠官寛舒等曰く、「神霊の休、祐福兆祥なり、宜しく此の地の光域に因りて泰畤の壇を立て以て応を明らかにすべし。太祝をして領せしめ、(祀)[秋]及び臘の間に祠らしめん。三歳に天子一たび郊見せん。」と。其の秋、南越を伐たんが為に、泰一に告禱し、牡荊を以て幡に日月北斗登龍を画き、以て天一三星に象り、泰一の鋒と為し、名づけて「霊旗」と曰ふ。兵の為に禱れば、則ち太史奉じて以て伐つ所の国を指す。而して五利将軍使ひして敢へて海に入らず、泰山に之きて祠る。上人をして微かに随ひて験せしむるに、実に見る所無し。五利妄りに其の師を見たりと言ふ、其の方尽き、多く讎(あた)らず。上乃ち五利を誅す。其の冬、公孫卿神を河南に候ひ、僊人の跡を緱氏城の上に見る、物有り雉の若く、城上を往来す。天子親ら緱氏城に幸して跡を視る。卿に問ふ、「文成・五利に効ふこと毋きを得んや。」と。
現代語訳
泰一の祭祀に用いる供え物は、雍の一つの畤(祭場)のものと同じにし、さらに甘酒・なつめ・干し肉などを加え、ヤク牛を一頭殺して祭器に盛る供え物とした。五帝には祭器と甘酒だけを供えた。祭壇の下の四方の地には、神々の従者と北斗星のために、まとめて供え物を並べた。祭りが終わると、供え物の余りは皆焼いた。その牛の毛色は白で、鹿をその牛の腹の中に入れ、豚を鹿の中に入れて、水に浸して煮た。日を祭るには牛を用い、月を祭るには羊か豚一頭を用いた。泰一の祭祀を司る祝官は紫と刺繍の衣を着た。五帝の祭官はそれぞれその帝の色の衣を着、日の祭官は赤、月の祭官は白を着た。十一月辛巳の日、朔日の朝が冬至に当たるその夜明け前、天子は初めて郊祀を行い泰一を拝した。朝には日を拝し、夕には月を拝する際は、両手を組んで礼をした。泰一への拝謁は雍の礼と同じにした。その祝詞にはこうあった。「天が初めて宝鼎と神聖な暦の計算法を皇帝に授けた。朔日がめぐってはまた朔日となり、終わってはまた始まる。皇帝は謹んでここに拝謁する」。衣は黄色を尊んだ。祭祀では火を並べて祭壇いっぱいにし、祭壇のかたわらには煮炊きの道具を置いた。役人は「祭壇の上に光が現れた」と言った。大臣たちは言った。「皇帝が初めて雲陽で泰一を郊祀され、役人が大きな玉と立派ないけにえを捧げた。その夜には美しい光があり、昼になると黄色い気が立ち上って天に連なった」。太史公(司馬談)と祭祀の役人寛舒らは言った。「神霊のめでたい応えであり、福を授けるよいしるしである。この光が現れた地に泰畤の祭壇を立てて、その応えを明らかにすべきである。太祝に担当させ、秋と臘祭(年末の祭り)の間に祀らせ、三年に一度天子が自ら郊祀されるのがよい」。その秋、南越を討つにあたって泰一に祈りを捧げ、牡荊(にんじんぼく)の柄の旗に日・月・北斗と昇り龍を描き、天一の三つの星にかたどって泰一の先鋒とし、「霊旗」と名づけた。戦いのために祈るときは、太史がこれを捧げ持って攻める国を指し示した。一方、五利将軍(欒大)は使者として出かけながら、海に入ろうとはせず、泰山に行って祭祀を行った。主上が人にひそかに後をつけさせて確かめさせたところ、実際には何も見ていなかった。五利将軍はでたらめに師に会ったと言っていたのであり、その方術は種が尽き、多くは当たらなかった。主上はそこで五利将軍を処刑した。その冬、公孫卿は河南で神の現れるのを待ち、緱氏城の上に仙人の足跡を見たと言った。雉のようなものが城壁の上を行き来していたという。天子は自ら緱氏城に出向いて足跡を見た。そして公孫卿に尋ねた。「文成や五利のまねをしているのではあるまいな」。
解説
関連する章句
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史記 封禅書公卿言ふ、「皇帝始めて太一を雲陽に郊見し、有司、瑄玉・嘉牲を奉じて薦饗す。是の夜美光有り、昼に及びて黄気上りて天に属す」と。太史公・祠官寛舒等曰く、「神霊の休、祐福の兆祥なり。宜しく此の地の光域に因りて太畤の壇を立てて以て応を明らかにすべし。太祝をして領せしめ、秋及び臘の間に祠り、三歳に天子一たび郊見せん」と。其の秋、南越を伐たんが為に、太一に告禱す。牡荊を以て幡に日月・北斗・登龍を画き、以て太一三星に象り、太一の鋒と為し、命じて「霊旗」と曰ふ。兵の為に禱れば、則ち太史奉じて以て伐つ所の国を指す。而して五利将軍の使、敢て海に入らず、泰山に之きて祠る。上、人をして随ひて験せしむるに、実に見る所毋し。五利妄りに其の師を見ると言ひ、其の方尽きて、多く讎はず。上乃ち五利を誅す。其の冬、公孫卿、神を河南に候ひ、僊人の跡を緱氏の城上に見、物有りて雉の如く、城上を往来すと言ふ。天子親ら緱氏城に幸して跡を視る。卿に問ふ、「文成・五利に効ふこと毋きを得んや」と。卿曰く、「僊者は人主に求むること有るに非ず、人主の者之を求む。其の道は少しく寛仮するに非ざれば、神来らず。神事を言ふは、事迂誕なるが如きも、積むに歳を以てすれば乃ち致す可きなり」と。是に於て郡国各々道を除き、宮観・名山の神祠の所を繕治し、以て幸を望む。其の春、既に南越を滅す。上に嬖臣李延年有り、好音を以て見ゆ。上之を善しとし、公卿に下して議せしめて曰く、「民間の祠すら尚ほ鼓舞の楽有り。今郊祀して楽無きは、豈に称はんや」と。公卿曰く、「古は天地を祠るに皆楽有りて、神祇得て礼す可し」と。或ひと曰く、「太帝、素女をして五十弦の瑟を鼓せしむ。悲しくして、帝禁ずるも止まず。故に其の瑟を破りて二十五弦と為す」と。是に於て南越を塞して、太一・后土に禱祠し、始めて楽舞を用ひ、益々歌児を召し、二十五弦及び空侯の琴瑟を作ること此より起る。
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史記 孝武本紀亳の人薄誘忌泰一を祠るの方を奏して、曰く、「天神の貴き者は泰一、泰一の佐を五帝と曰ふ。古者天子春秋を以て泰一を東南の郊に祭り、太牢の具を用ゐること、七日、壇を為りて八通の鬼道を開く。」と。是に於て天子太祝をして其の祠を長安の東南の郊に立てしめ、常に祠を奉ずること忌の方の如くす。其の後人上書する有り、言ふ「古者天子三年に一たび太牢の具を用ゐて神三一を祠る、天一・地一・泰一なり」と。天子之を許し、太祝をして領して之を忌の泰一の壇上に祠らしむること、其の方の如くす。後人復た上書する有り、言ふ「古者天子常に春秋を以て解祠し、黄帝を祠るに一梟破鏡を用ゐ、冥羊には羊を用ゐ、馬行を祠るに一青牡馬を用ゐ、泰一・皋山山君・地長には牛を用ゐ、武夷君には乾魚を用ゐ、陰陽使者には一牛を以てす」と。祠官をして之を領せしむること其の方の如くし、而して忌の泰一の壇の旁に祠る。其の後、天子の苑に白鹿有り、其の皮を以て幣と為し、以て瑞応を発し、白金を造る。雍に郊し、一角の獣を獲たり、麃(はう)の若く然り。有司曰く、「陛下粛祗して郊祀す、上帝報享し、一角の獣を錫ふ、蓋し麟ならんと云ふ。」と。是に於て以て五畤に薦め、畤ごとに一牛を加へて以て燎く。諸侯に白金を賜ひ、以て符応の天地に合ふを風す。是に於て済北王以為へらく天子且に封禅せんとすと、乃ち上書して泰山及び其の旁邑を献ず。天子之を受け、更めて他県を以て之を償ふ。常山王罪有り、遷さる、天子其の弟を真定に封じ、以て先王の祀を続がしめ、而して常山を以て郡と為す。然る後五嶽皆天子の郡に在り。
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史記 封禅書天子以為へらく化して去り死せずと、而して黄錘の史寛舒をして其の方を受けしむ。蓬萊の安期生を求むるも能く得る莫く、而して海上の燕・斉の怪迂の方士、多く更々来りて神事を言ふ。亳人謬忌、太一を祠る方を奏して曰く、「天神の貴き者は太一、太一の佐を五帝と曰ふ。古は天子、春秋を以て太一を東南の郊に祭り、太牢を用ふること七日、壇を為りて八通の鬼道を開く」と。是に於て天子、太祝に令して其の祠を長安の東南郊に立て、常に奉祠すること忌の方の如くせしむ。其の後、人の上書する有り、言ふ、「古は天子三年に壱たび太牢を用ひて神の三一、天一・地一・太一を祠る」と。天子之を許し、太祝に令して之を忌の太一の壇上に領祠せしむること、其の方の如し。後人復た上書する有り、言ふ、「古は天子常に春を以て解祠し、黄帝を祠るに一梟・破鏡を用ひ、冥羊には羊を用ひて祠り、馬行には一青牡馬を用ひ、太一・沢山君・地長には牛を用ひ、武夷君には乾魚を用ひ、陰陽使者には一牛を以てす」と。祠官に令して之を領すること其の方の如くし、而して忌の太一の壇の旁に祠る。其の後、天子の苑に白鹿有り、其の皮を以て幣と為し、以て瑞応を発し、白金を造る。其の明年、雍に郊し、一角の獣を獲たり、麃の若く然り。有司曰く、「陛下粛祗して郊祀し、上帝報享して、一角の獣を錫ふ、蓋し麟なりと云ふ」と。是に於て以て五畤に薦め、畤ごとに一牛を加へて以て燎く。諸侯に白金を錫ひ、風するに符応の天に合するを以てす。是に於て済北王、以為へらく天子且に封禅せんとすと、乃ち上書して太山及び其の旁の邑を献ず。天子、他県を以て之を償ふ。常山王罪有りて遷さる。天子其の弟を真定に封じ、以て先王の祀を続がしめ、而して常山を以て郡と為す。然る後に五岳皆天子の郡に在り。其の明年、斉人少翁、鬼神の方を以て上に見ゆ。
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史記 孝武本紀其の明年、有司言ふ雍の五畤に牢熟の具無く、芬芳備はらずと。乃ち祠官に命じて畤に犢牢の具を進め、五色の食の勝つ所をもてし、而して木耦馬を以て駒に代ふ。独り五帝のみ駒を用ゐ、行きて親ら郊するときは駒を用ゐる。及び諸々の名山川の駒を用ゐる者は、悉く木耦馬を以て代ふ。行きて過ぐれば、乃ち駒を用ゐる。他の礼は故の如し。其の明年、東のかた海上を巡り、神僊の属を考ふるに、未だ験有る者有らず。方士言ふ有り「黄帝の時五城十二楼を為りて、以て神人を執期に候ひ、命じて迎年と曰ふ」と。上之を作ることを方の如く許し、名づけて明年と曰ふ。上親ら上帝を礼祠し、衣は黄を上ぶ。公玊帯曰く、「黄帝の時泰山に封ずと雖も、然れども風后・封鉅・岐伯黄帝をして東泰山に封じ、凡山に禅して符を合はせしめ、然る後に死せず。」と。天子既に祠具を設けしめ、東泰山に至る、東泰山は卑小にして、其の声に称はず、乃ち祠官をして之を礼せしめ、而して封禅せず。其の後帯をして祠を奉じて神物を候はしむ。夏、遂に泰山に還り、五年の礼を修むること前の如くし、而して石閭に禅祠することを加ふ。石閭は、泰山の下阯の南方に在り、方士多く言ふ此れ僊人の閭なりと、故に上親ら禅す。其の後五年、復た泰山に至りて封を修め、還りて過ぎて常山を祭る。今天子の興す所の祠は、泰一・后土、三年に親ら郊祠し、漢家の封禅を建て、五年に一たび封を修む。薄忌の泰一及び三一・冥羊・馬行・赤星、五つ、寛舒の祠官歳時を以て礼を致す。凡そ六祠、皆太祝之を領す。八神の諸神、明年・凡山の他の名祠の如きに至りては、行きて過ぐれば則ち祀り、去れば則ち已む。方士の興す所の祠は、各々自ら主り、其の人終はれば則ち已む、祠官主らず。他の祠は皆其の故の如し。今上封禅して、其の後十二歳にして還り、五嶽・四瀆に徧し。而して方士の神人を候祠し、海に入りて蓬萊を求むるは、終に験有る無し。
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史記 封禅書所謂寒門とは、谷口なり。黄帝、首山の銅を采り、鼎を荊山の下に鋳る。鼎既に成り、龍有りて胡髯を垂れて下りて黄帝を迎ふ。黄帝上りて騎り、群臣・後宮の従ひて上る者七十余人、龍乃ち上り去る。余の小臣は上るを得ず、乃ち悉く龍の髯を持つ。龍の髯抜けて堕ち、黄帝の弓を堕とす。百姓仰ぎ望み、黄帝既に天に上れば、乃ち其の弓と胡髯とを抱きて号す。故に後世因りて其の処を名づけて鼎湖と曰ひ、其の弓を烏号と曰ふ』」と。是に於て天子曰く、「嗟乎、吾誠に黄帝の如くなるを得ば、吾妻子を去るを視ること屣を脱ぐが如きのみ」と。乃ち卿を拝して郎と為し、東のかた使ひして神を太室に候はしむ。上遂に雍に郊し、隴西に至り、西のかた崆峒に登り、甘泉に幸す。祠官寛舒等に令して太一の祠壇を具へしむ。祠壇は薄忌の太一の壇に放ひ、壇は三垓。五帝の壇は環りて其の下に居り、各々其の方の如く、黄帝は西南、八通の鬼道を除く。太一は、其の用ふる所は雍の一畤の物の如くして、醴・棗・脯の属を加へ、一貍牛を殺して以て俎豆の牢具と為す。而して五帝には独り俎豆・醴の進むる有り。其の下の四方の地は、醊食と為して群神の従者及び北斗を祠ると云ふ。已に祠れば、胙の余は皆之を燎く。其の牛の色は白、鹿は其の中に居り、彘は鹿の中に在り、水にして之を洎す。日を祭るには牛を以てし、月を祭るには羊彘の特を以てす。太一の祝宰は則ち紫及び繍を衣る。五帝は各々其の色の如く、日は赤、月は白。十一月辛巳朔旦冬至、昧爽、天子始めて太一を郊拝す。朝に日を朝し、夕に月を夕して、則ち揖す。而して太一を見ること雍の郊の礼の如し。其の賛饗に曰く、「天始めて宝鼎・神策を以て皇帝に授く。朔にして又朔、終りて復た始まる。皇帝敬みて拝見す」と。而して衣は黄を上ぶ。其の祠は列火壇に満ち、壇の旁に亨炊の具あり。有司云ふ、「祠の上に光有り」と。
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史記 孝武本紀封は広さ丈二尺、高さ九尺、其の下には則ち玉牒の書有り、書は秘す。礼畢り、天子独り侍中奉車の子侯と泰山に上り、亦封有り。其の事皆禁ず。明日、陰道を下る。丙辰、泰山の下阯の東北の粛然山に禅すること、后土を祭るの礼の如くす。天子皆親ら拝見し、衣は黄を上びて尽く楽を用ゐる。江淮の間の一茅三脊を神藉と為す。五色の土をもて益々雑へて封ず。遠方の奇獣蜚禽及び白雉の諸物を縦ち、頗る以て祠に加ふ。兕旄牛犀象の属は用ゐず。皆泰山に至りて然る後に去る。封禅の祠、其の夜光有るが若く、昼白雲の封中より起こる有り。天子封禅より還り、明堂に坐す、群臣更々寿を上る。是に於て御史に制詔すらく、「朕眇眇の身を以て至尊を承け、兢兢焉として任へざらんことを懼る。維れ徳菲薄にして、礼楽に明らかならず。泰一を修祀するに、象景光有るが若く、屑として望む有るが如し、依依として怪物に震へ、止まらんと欲するも敢へてせず、遂に登りて泰山に封じ、梁父に至り、而る後に粛然に禅す。自ら新たにし、嘉して士大夫と与に更始す、民に百戸ごとに牛一酒十石を賜ひ、年八十の孤寡に布帛二匹を加ふ。博・奉高・蛇丘・歴城を復し、今年の租税を出だす毋からしめよ。其れ天下に赦すこと、乙卯の赦令の如くせよ。行きて過ぐる所復作有る毋かれ。事二年の前に在るものは、皆聴治する勿かれ。」と。又詔を下して曰く、「古者天子五載に一たび巡狩し、事を泰山に用ゐ、諸侯朝宿の地有り。其れ諸侯をして各々邸を泰山の下に治めしめよ。」と。天子既已に泰山に封禅し、風雨の菑無し、而して方士更に言ふ蓬萊の諸神山将に得べきが若しと、是に於て上欣然として庶幾くは之に遇はんとし、乃ち復た東のかた海上に至りて望み、蓬萊に遇はんことを冀ふ。奉車の子侯暴かに病み、一日にして死す。上乃ち遂に去り、海上に并ひて、北のかた碣石に至り、遼西より巡り、北辺を歴て九原に至る。
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