史記 / 封禅書
魯人公孫臣上書曰:「始秦得水德,今漢受之,推終始傳,則漢當土德,土德之應黃龍見。宜改正朔,易服色,色上黃。」是時丞相張蒼好律歷,以為漢乃水德之始,故河決金隄,其符也。年始冬十月,色外黑內赤,與德相應。如公孫臣言,非也。罷之。後三歲,黃龍見成紀。文帝乃召公孫臣,拜為博士,與諸生草改歷服色事。其夏,下詔曰:「異物之神見于成紀,無害於民,歲以有年。朕祈郊上帝諸神,禮官議,無諱以勞朕。」有司皆曰「古者天子夏親郊,祀上帝於郊,故曰郊」。於是夏四月,文帝始郊見雍五畤祠,衣皆上赤。其明年,趙人新垣平以望氣見上,言「長安東北有神氣,成五采,若人冠絻焉。或曰東北神明之舍,西方神明之墓也。天瑞下,宜立祠上帝,以合符應」。於是作渭陽五帝廟,同宇,帝一殿,面各五門,各如其帝色。祠所用及儀亦如雍五畤。夏四月,文帝親拜霸渭之會,以郊見渭陽五帝。五帝廟南臨渭,北穿蒲池溝水,權火舉而祠,若光煇然屬天焉。於是貴平上大夫,賜累千金。而使博士諸生刺六經中作王制,謀議巡狩封禪事。文帝出長門,若見五人於道北,遂因其直北立五帝壇,祠以五牢具。其明年,新垣平使人持玉杯,上書闕下獻之。
新字:魯人公孫臣上書曰:「始秦得水徳,今漢受之,推終始伝,則漢当土徳,土徳之応黄竜見。宜改正朔,易服色,色上黄。」是時丞相張蒼好律歴,以為漢乃水徳之始,故河決金堤,其符也。年始冬十月,色外黒内赤,与徳相応。如公孫臣言,非也。罷之。後三歳,黄竜見成紀。文帝乃召公孫臣,拝為博士,与諸生草改歴服色事。其夏,下詔曰:「異物之神見于成紀,無害於民,歳以有年。朕祈郊上帝諸神,礼官議,無諱以労朕。」有司皆曰「古者天子夏親郊,祀上帝於郊,故曰郊」。於是夏四月,文帝始郊見雍五畤祠,衣皆上赤。其明年,趙人新垣平以望気見上,言「長安東北有神気,成五采,若人冠絻焉。或曰東北神明之舎,西方神明之墓也。天瑞下,宜立祠上帝,以合符応」。於是作渭陽五帝廟,同宇,帝一殿,面各五門,各如其帝色。祠所用及儀亦如雍五畤。夏四月,文帝親拝覇渭之会,以郊見渭陽五帝。五帝廟南臨渭,北穿蒲池溝水,権火舉而祠,若光煇然属天焉。於是貴平上大夫,賜累千金。而使博士諸生刺六経中作王制,謀議巡狩封禅事。文帝出長門,若見五人於道北,遂因其直北立五帝壇,祠以五牢具。其明年,新垣平使人持玉杯,上書闕下献之。
書き下し
魯人公孫臣上書して曰く、「始め秦は水徳を得、今漢之を受く。終始の伝を推せば、則ち漢は当に土徳なるべし。土徳の応は黄龍見はる。宜しく正朔を改め、服色を易へ、色は黄を上ぶべし」と。是の時、丞相張蒼は律歴を好み、以為へらく漢は乃ち水徳の始めなり、故に河、金隄を決す、其の符なりと。年は冬十月に始め、色は外黒く内赤く、徳と相応ず。公孫臣の言の如きは非なりとし、之を罷む。後三歳、黄龍、成紀に見はる。文帝乃ち公孫臣を召し、拝して博士と為し、諸生と改歴・服色の事を草せしむ。其の夏、詔を下して曰く、「異物の神、成紀に見はれ、民に害無く、歳以て年有り。朕、郊して上帝・諸神を祈らんとす。礼官議して、諱む無く以て朕を労へ」と。有司皆曰く、「古は天子夏に親ら郊し、上帝を郊に祀る、故に郊と曰ふ」と。是に於て夏四月、文帝始めて雍の五畤の祠に郊見し、衣は皆赤を上ぶ。其の明年、趙人新垣平、望気を以て上に見え、言ふ、「長安の東北に神気有り、五采を成し、人の冠絻の若し。或ひと曰く、東北は神明の舎、西方は神明の墓なりと。天瑞下る、宜しく祠を立てて上帝を祀り、以て符応に合すべし」と。是に於て渭陽の五帝廟を作り、宇を同じくし、帝ごとに一殿、面ごとに各々五門、各々其の帝の色の如くす。祠に用ふる所及び儀も亦雍の五畤の如し。夏四月、文帝親ら霸・渭の会に拝し、以て渭陽の五帝に郊見す。五帝廟は南のかた渭に臨み、北のかた蒲池の溝水を穿ち、権火挙げて祠れば、光煇然として天に属するが若し。是に於て平を貴びて上大夫とし、賜ふこと累ねて千金。而して博士諸生をして六経の中を刺りて王制を作らしめ、巡狩・封禅の事を謀議せしむ。文帝、長門を出で、五人を道の北に見るが若し。遂に其の直北に因りて五帝の壇を立て、祠るに五牢の具を以てす。其の明年、新垣平、人をして玉杯を持たしめ、書を闕下に上りて之を献ぜしむ。
現代語訳
魯の人公孫臣が上書して言った。「かつて秦は水徳を得て、今は漢がそれを受け継いでいる。五徳が終わっては始まるという伝えから推せば、漢は土徳であるはずだ。土徳のしるしは黄龍が現れることだ。暦の正月を改め、服の色を変え、色は黄を尊ぶべきだ」。このとき丞相の張蒼は音律と暦法を好み、漢こそ水徳の始まりであり、それゆえ黄河が金隄(きんてい、堤防の名)を決壊させたのがそのしるしだと考えた。年は冬十月から始め、色は外が黒で内が赤とし、それが徳に合っている。公孫臣の言うことは誤りであるとして、その建議を退けた。三年後、黄龍が成紀(せいき)に現れた。文帝はそこで公孫臣を召して博士に任じ、学者たちと暦と服色の改定の草案を作らせた。その夏、文帝は詔を下して言った。「不思議な神獣が成紀に現れたが民に害はなく、今年は豊作であった。私は郊外で上帝と神々に祈りたいと思う。礼官は議論し、遠慮なく私のために骨を折ってほしい」。役人たちはみな言った。「古は天子が夏に自ら郊外で上帝を祀った。だから郊祀という」。そこで夏四月、文帝は初めて雍の五畤の祠に郊祭で臨み、衣はみな赤を尊んだ。その翌年、趙の人新垣平(しんえんぺい)が雲気を見て吉凶を占う術で文帝に謁見し、言った。「長安の東北に神気があり、五色を成して、人の冠のような形をしている。ある者は、東北は神々の住まい、西方は神々の墓所だと言う。天が瑞祥を下したのだから、祠を立てて上帝を祀り、しるしに応えるべきだ」。そこで渭陽(渭水の北)に五帝廟を作り、一つの屋根の下に帝ごとに一つの殿を設け、それぞれの面に五つの門を開き、各々その帝の色に合わせた。祭りに用いる物や儀式も雍の五畤と同じにした。夏四月、文帝は自ら霸水と渭水の合流点で拝礼し、渭陽の五帝に郊祭で臨んだ。五帝廟は南は渭水に臨み、北は蒲池の溝の水を引き、のろし火を上げて祭ると、光が輝いて天にまで連なるようであった。そこで新垣平を重んじて上大夫とし、賜り物は重ねて千金にのぼった。また博士や学者たちに六経の中から抜き出して「王制」を作らせ、巡狩と封禅のことを議論させた。文帝が長門を出ると、道の北に五人の姿が見えたような気がした。そこでその真北に五帝の祭壇を立て、五組の牢具で祭った。その翌年、新垣平は人に玉の杯を持たせ、宮門の下で上書してこれを献上させた。
解説
関連する章句
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史記 孝文本紀帝自ら将として匈奴を撃たんと欲す、群臣諫むるも、皆聴かず。皇太后固く帝を要(と)む、帝乃ち止む。是に於て東陽侯張相如を以て大将軍と為し、成侯赤を内史と為し、欒布を将軍と為し、匈奴を撃たしむ。匈奴遁走す。春、上曰く、「朕犧牲珪幣を執りて以て上帝宗廟に事ふるを獲ること、今に十四年、日を歴ること(縣)[綿]長し、不敏不明を以て久しく天下を撫臨す、朕甚だ自ら愧づ。其れ広く諸祀の墠場珪幣を増せ。昔先王は遠く施して其の報を求めず、望祀して其の福を祈らず、賢を右にして戚を左にし、民を先にして己を後にす、至明の極みなり。今吾聞く祠官の祝釐、皆福を朕が躬に帰し、百姓の為にせずと、朕甚だ之を愧づ。夫れ朕の不徳を以て、躬ら独り其の福を享けて美とし、百姓与らず、是れ吾が不徳を重ぬるなり。其れ祠官をして敬を致し、祈る所有る毋からしめよ。」と。是の時北平侯張蒼丞相為り、方に律暦を明らかにす。魯人公孫臣上書して終始伝五徳の事を陳べ、言ふ方今土徳の時なり、土徳は黄龍の見はるるに応ず、当に正朔服色制度を改むべしと。天子其の事を下して丞相と議せしむ。丞相推して以為へらく今は水徳なり、始めて正十月を明らかにし黒を上ぶ事と、以て其の言非なりと為し、請ひて之を罷む。十五年、黄龍成紀に見はる、天子乃ち復た魯の公孫臣を召し、以て博士と為し、土徳の事を申明せしむ。是に於て上乃ち詔を下して曰く、「異物の神有りて成紀に見はる、民に害無く、歳以て有年なり。朕親ら上帝諸神を郊祀せん。礼官議せよ、諱みて以て朕を労する毋かれ。」と。有司礼官皆曰く、「古者天子夏躬ら親しく上帝を郊に礼祀す、故に郊と曰ふ。」と。是に於て天子始めて雍に幸し、郊して五帝に見え、孟夏四月を以て礼に答ふ。趙人新垣平望気を以て見え、因りて上に説きて渭陽の五廟を設立せしむ。周鼎を出ださんと欲すれば、当に玉英の見はるる有るべしと。
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史記 封禅書平、上に言ひて曰く、「闕下に宝玉の気の来る者有り」と。已にして之を視れば、果して玉杯を献ずる者有り、刻して「人主延寿」と曰ふ。平又言ふ、「臣、日の再び中するを候ふ」と。居ること頃之にして、日卻きて復た中す。是に於て始めて更めて十七年を以て元年と為し、天下をして大いに酺せしむ。平言ひて曰く、「周の鼎亡びて泗水の中に在り。今、河溢れて泗に通ず。臣、東北の汾陰を望むに直に金宝の気有り。意ふに周の鼎其れ出でんか。兆見はるるも迎へざれば則ち至らず」と。是に於て上、使をして廟を汾陰の南に治めしめ、河に臨み、祠りて周の鼎を出さんと欲す。人の上書して、新垣平の言ふ所の気・神の事は皆詐なりと告ぐる有り。平を吏に下して治め、新垣平を誅夷す。是より後、文帝、正朔・服色を改め神明の事に怠り、而して渭陽・長門の五帝は祠官をして領せしめ、時を以て礼を致し、往かず。明年、匈奴数々辺に入り、兵を興して守御す。後、歳少しく登らず。数年にして孝景即位す。十六年、祠官各々歳時を以て祠ること故の如く、興す所有る無く、今の天子に至る。今の天子初めて即位するや、尤も鬼神の祀を敬ふ。元年、漢興りて已に六十余歳なり、天下艾安にして、搢紳の属皆天子の封禅して正度を改めんことを望む。而して上は儒術に郷ひ、賢良を招き、趙綰・王臧等、文学を以て公卿と為り、古に議りて明堂を城南に立て、以て諸侯を朝せしめんと欲す。巡狩・封禅・改歴・服色の事を草するも未だ就らず。会々竇太后、黄老の言を治め、儒術を好まず、人をして微かに伺はしめて趙綰等の姦利の事を得、綰・臧を召し案ず。綰・臧自殺し、諸々の興し為す所皆廃る。後六年、竇太后崩ず。其の明年、文学の士公孫弘等を徴す。明年、今上初めて雍に至り、五畤に郊見す。後常に三歳に一たび郊す。是の時、上、神君を求め、之を上林の中の蹄氏観に舎す。
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史記 封禅書黄犢・羔各四、珪幣各々数有り、皆生きながら瘞め埋め、俎豆の具無し。三年に一たび郊す。秦は冬十月を以て歳首と為す、故に常に十月を以て上宿して郊見し、権火を通じ、咸陽の旁に拝し、而して衣は白を上ぶ。其の用は経祠の如しと云ふ。西畤・畦畤は祠ること其の故の如く、上親ら往かず。諸々の此の祠は皆太祝常に主り、歳時を以て之を奉祠す。他の名山川・諸鬼及び八神の属の如きに至りては、上過ぐれば則ち祠り、去れば則ち已む。郡県遠方の神祠は、民各々自ら奉祠し、天子の祝官に領せず。祝官に秘祝有り、即ち菑祥有れば、輒ち祝祠して過ちを下に移す。漢興り、高祖の微なりし時、嘗て大蛇を殺す。物有りて曰く、「蛇は白帝の子なり、而して殺す者は赤帝の子なり」と。高祖初めて起つや、豊の枌楡の社に禱る。沛を徇へ、沛公と為るや、則ち蚩尤を祠り、鼓旗に釁る。遂に十月を以て灞上に至り、諸侯と咸陽を平げ、立ちて漢王と為る。因りて十月を以て年首と為し、而して色は赤を上ぶ。二年、東のかた項籍を撃ちて還りて関に入り、問ふ、「故の秦の時、上帝の祠は何の帝ぞや」と。対へて曰く、「四帝、白・青・黄・赤帝の祠有り」と。高祖曰く、「吾聞く、天に五帝有りと。而るに四有るは、何ぞや」と。其の説を知る莫し。是に於て高祖曰く、「吾之を知れり。乃ち我を待ちて五を具ふるなり」と。乃ち黒帝の祠を立て、命じて北畤と曰ふ。有司進めて祠り、上親ら往かず。悉く故の秦の祝官を召し、復た太祝・太宰を置き、其の故の儀礼の如くす。因りて県をして公社を為らしむ。詔を下して曰く、「吾甚だ祠を重んじて祭を敬ふ。今、上帝の祭及び山川の諸神の当に祠るべき者は、各々其の時を以て之を礼祠すること故の如くせよ」と。後四歳、天下已に定まり、御史に詔し、豊をして謹みて枌楡の社を治めしめ、常に四時を以て春に羊彘を以て之を祠らしむ。祝官に令して蚩尤の祠を長安に立てしむ。長安に祠祝官・女巫を置く。
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史記 封禅書其の梁巫は、天・地・天社・天水・房中・堂上の属を祠る。晋巫は、五帝・東君・雲中・司命・巫社・巫祠・族人・先炊の属を祠る。秦巫は、社主・巫保・族纍の属を祠る。荊巫は、堂下・巫先・司命・施糜の属を祠る。九天巫は、九天を祠る。皆歳時を以て宮中に祠る。其の河巫は河を臨晋に祠り、而して南山巫は南山・秦中を祠る。秦中とは二世皇帝なり。各々時月有り。其の後二歳、或ひと曰く、周興りて邰に邑し、后稷の祠を立て、今に至るまで天下に血食すと。是に於て高祖、御史に制詔すらく、「其れ郡国県をして霊星の祠を立て、常に歳時を以て祠るに牛を以てせしめよ」と。高祖十年春、有司請ふ、県をして常に春三月及び時の臘を以て社稷を祠るに羊豕を以てし、民の里社は各々自ら財して以て祠らしめんと。制して曰く、「可なり」と。其の後十八年、孝文帝即位す。即位して十三年、詔を下して曰く、「今、秘祝の過ちを下に移すは、朕甚だ取らず。今より之を除け」と。始め名山大川の諸侯に在るは、諸侯の祝各々自ら奉祠し、天子の官は領せず。斉・淮南国の廃するに及び、太祝をして尽く歳時を以て礼を致すこと故の如くせしむ。是の歳、制して曰く、「朕即位して十三年、今に于て、宗廟の霊、社稷の福に頼り、方内艾安にして、民人疾靡し。間者比年登る。朕の不徳、何を以てか此を饗けん。皆上帝諸神の賜なり。蓋し聞く、古は其の徳を饗くれば必ず其の功に報ゆと。諸神の祠を増すこと有らんと欲す」と。有司議して、雍の五畤に路車各一乗、駕被具を増し、西畤・畦畤に禺車各一乗、禺馬四匹、駕被具を増し、其の河・湫・漢水には玉各二を加へ、及び諸祠、各々壇場を増広し、珪幣俎豆は差を以て之を加ふ。而して祝の秘する者は福を朕に帰し、百姓は与らず。「今より祝は敬を致し、祈る所有る毋かれ」と。
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史記 暦書夏正は正月を以てし、殷正は十二月を以てし、周正は十一月を以てす。蓋し三王の正は循環するが若し、窮まれば則ち本に反る。天下道有れば、則ち紀序を失はず。道無ければ、則ち正朔諸侯に行はれず。幽・厲の後、周室微にして、陪臣政を執り、史は時を記さず、君は朔を告げず、故に疇人の子弟分散し、或いは諸夏に在り、或いは夷狄に在り、是を以て其の禨祥廃れて統べず。周の襄王の二十六年、三月に閏す、而して春秋之を非とす。先王の時を正すや、端を始めに履み、正を中に挙げ、邪を終はりに帰す。端を始めに履めば、序は則ち愆らず。正を中に挙ぐれば、民は則ち惑はず。邪を終はりに帰せば、事は則ち悖らず。其の後戦国并び争ひ、彊国禽敵、急を救ひ紛を解くに在るのみ、豈に斯を念ふに遑あらんや。是の時独り鄒衍有り、五徳の伝に明らかにして、消息の分を散じ、以て諸侯に顕る。而して亦秦の六国を滅ぼすに因り、兵戎極めて煩しく、又至尊に升る日浅く、未だ暇遑あらざるなり。而して亦頗る五勝を推し、自ら以為へらく水徳の瑞を獲たりと、河を更名して「徳水」と曰ひ、而して正は十月を以てし、色は黒を上ぶ。然れども暦度閏余、未だ能く其の真を睹ざるなり。漢興り、高祖曰く「北畤我を待ちて起こる」と、亦自ら以為へらく水徳の瑞を獲たりと。暦を明習するもの及び張蒼等と雖も、咸以て然りと為す。是の時天下初めて定まり、方に大基を綱紀し、高后は女主にして、皆未だ遑あらず、故に秦の正朔服色を襲ふ。孝文の時に至り、魯人公孫臣、終始五徳を以て上書し、言ふ「漢は土徳を得たり、宜しく元を更め、正朔を改め、服色を易ふべし。当に瑞有るべし、瑞は黄龍見はれん」と。事、丞相張蒼に下る、張蒼も亦律暦を学ぶ、以て是に非ずと為し、之を罷む。其の後黄龍成紀に見はれ、張蒼自ら黜け、論著せんと欲する所成らず。
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史記 孝文本紀十六年、上親ら渭陽の五帝廟を郊見し、亦夏を以て礼に答へて赤を尚ぶ。十七年、玉杯を得たり、刻して曰く「人主延寿」と。是に於て天子始めて更めて元年と為し、天下をして大いに酺せしむ。其の歳、新垣平の事覚れ、三族を夷ぐ。後二年、上曰く、「朕既に明らかならず、遠く徳する能はず、是を以て方外の国をして或いは寧息せざらしむ。夫れ四荒の外其の生に安んぜず、封畿の内勤労して処らず、二者の咎は、皆朕の徳薄くして遠く達する能はざるに自る。間者(このごろ)累年、匈奴并びに辺境を暴し、多く吏民を殺す、辺臣兵吏又吾が内志を諭す能はず、以て吾が不徳を重ぬるなり。夫れ久しく難を結び兵を連ねば、中外の国将に何を以てか自ら寧んぜん。今朕夙に興き夜に寐ね、天下に勤労し、万民を憂苦し、之が為に怛惕して安からず、未だ嘗て一日も心に忘れず、故に使者を遣はして冠蓋相望み、軼を道に結び、以て朕の意を単于に諭す。今単于古の道に反り、社稷の安きを計り、万民の利を便とし、親ら朕と倶に細過を棄て、偕に大道に之き、兄弟の義を結び、以て天下元元の民を全うす。和親已に定まる、今年より始む。」と。後六年冬、匈奴三万人上郡に入り、三万人雲中に入る。中大夫令勉を以て車騎将軍と為し、飛狐に軍せしむ。故の楚の相蘇意を将軍と為し、句注に軍せしむ。将軍張武北地に屯す。河内の守周亜夫を将軍と為し、細柳に居らしむ。宗正劉礼を将軍と為し、霸上に居らしむ。祝茲侯棘門に軍す。以て胡に備ふ。数月にして、胡人去る、亦罷む。天下旱し、蝗あり。帝恵を加ふ。諸侯をして入貢する毋からしめ、山沢を弛め、諸々の服御狗馬を減じ、郎吏の員を損し、倉庾を発して以て貧民を振ひ、民爵を売るを得たり。
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