史記 / 封禅書
平言上曰:「闕下有寶玉氣來者。」已視之,果有獻玉杯者,刻曰「人主延壽」。平又言「臣候日再中」。居頃之,日卻復中。於是始更以十七年為元年,令天下大酺。平言曰:「周鼎亡在泗水中,今河溢通泗,臣望東北汾陰直有金寶氣,意周鼎其出乎?兆見不迎則不至。」於是上使使治廟汾陰南,臨河,欲祠出周鼎。人有上書告新垣平所言氣神事皆詐也。下平吏治,誅夷新垣平。自是之後,文帝怠於改正朔服色神明之事,而渭陽、長門五帝使祠官領,以時致禮,不往焉。明年,匈奴數入邊,興兵守御。後歲少不登。數年而孝景即位。十六年,祠官各以歲時祠如故,無有所興,至今天子。今天子初即位,尤敬鬼神之祀。元年,漢興已六十餘歲矣,天下艾安,搢紳之屬皆望天子封禪改正度也,而上鄉儒術,招賢良,趙綰、王臧等以文學為公卿,欲議古立明堂城南,以朝諸侯。草巡狩封禪改歷服色事未就。會竇太后治黃老言,不好儒術,使人微伺得趙綰等姦利事,召案綰、臧,綰、臧自殺,諸所興為皆廢。後六年,竇太后崩。其明年,徵文學之士公孫弘等。明年,今上初至雍,郊見五畤。後常三歲一郊。是時上求神君,捨之上林中蹄氏觀。
新字:平言上曰:「闕下有宝玉気来者。」已視之,果有献玉杯者,刻曰「人主延寿」。平又言「臣候日再中」。居頃之,日却復中。於是始更以十七年為元年,令天下大酺。平言曰:「周鼎亡在泗水中,今河溢通泗,臣望東北汾陰直有金宝気,意周鼎其出乎?兆見不迎則不至。」於是上使使治廟汾陰南,臨河,欲祠出周鼎。人有上書告新垣平所言気神事皆詐也。下平吏治,誅夷新垣平。自是之後,文帝怠於改正朔服色神明之事,而渭陽、長門五帝使祠官領,以時致礼,不往焉。明年,匈奴数入辺,興兵守御。後歳少不登。数年而孝景即位。十六年,祠官各以歳時祠如故,無有所興,至今天子。今天子初即位,尤敬鬼神之祀。元年,漢興已六十余歳矣,天下艾安,搢紳之属皆望天子封禅改正度也,而上郷儒術,招賢良,趙綰、王臧等以文学為公卿,欲議古立明堂城南,以朝諸侯。草巡狩封禅改歴服色事未就。会竇太后治黄老言,不好儒術,使人微伺得趙綰等姦利事,召案綰、臧,綰、臧自殺,諸所興為皆廃。後六年,竇太后崩。其明年,徴文学之士公孫弘等。明年,今上初至雍,郊見五畤。後常三歳一郊。是時上求神君,捨之上林中蹄氏観。
書き下し
平、上に言ひて曰く、「闕下に宝玉の気の来る者有り」と。已にして之を視れば、果して玉杯を献ずる者有り、刻して「人主延寿」と曰ふ。平又言ふ、「臣、日の再び中するを候ふ」と。居ること頃之にして、日卻きて復た中す。是に於て始めて更めて十七年を以て元年と為し、天下をして大いに酺せしむ。平言ひて曰く、「周の鼎亡びて泗水の中に在り。今、河溢れて泗に通ず。臣、東北の汾陰を望むに直に金宝の気有り。意ふに周の鼎其れ出でんか。兆見はるるも迎へざれば則ち至らず」と。是に於て上、使をして廟を汾陰の南に治めしめ、河に臨み、祠りて周の鼎を出さんと欲す。人の上書して、新垣平の言ふ所の気・神の事は皆詐なりと告ぐる有り。平を吏に下して治め、新垣平を誅夷す。是より後、文帝、正朔・服色を改め神明の事に怠り、而して渭陽・長門の五帝は祠官をして領せしめ、時を以て礼を致し、往かず。明年、匈奴数々辺に入り、兵を興して守御す。後、歳少しく登らず。数年にして孝景即位す。十六年、祠官各々歳時を以て祠ること故の如く、興す所有る無く、今の天子に至る。今の天子初めて即位するや、尤も鬼神の祀を敬ふ。元年、漢興りて已に六十余歳なり、天下艾安にして、搢紳の属皆天子の封禅して正度を改めんことを望む。而して上は儒術に郷ひ、賢良を招き、趙綰・王臧等、文学を以て公卿と為り、古に議りて明堂を城南に立て、以て諸侯を朝せしめんと欲す。巡狩・封禅・改歴・服色の事を草するも未だ就らず。会々竇太后、黄老の言を治め、儒術を好まず、人をして微かに伺はしめて趙綰等の姦利の事を得、綰・臧を召し案ず。綰・臧自殺し、諸々の興し為す所皆廃る。後六年、竇太后崩ず。其の明年、文学の士公孫弘等を徴す。明年、今上初めて雍に至り、五畤に郊見す。後常に三歳に一たび郊す。是の時、上、神君を求め、之を上林の中の蹄氏観に舎す。
現代語訳
新垣平は文帝に言った。「宮門の下に宝玉の気がやって来ている」。やがて見てみると、はたして玉の杯を献上する者がおり、「人主延寿(君主の寿命が延びる)」と刻まれていた。新垣平はまた言った。「私は、太陽が再び南中するのを観測した」。しばらくすると、太陽が後戻りして再び南中した。そこで初めて改めて(文帝の)十七年を元年とし、天下に盛大な酒宴を許した。新垣平は言った。「周の鼎は失われて泗水の中にある。今、黄河があふれて泗水とつながった。私が東北の汾陰を望むと、まっすぐ金宝の気が立ちのぼっている。おそらく周の鼎が出てくるのではないか。兆しが現れても迎えに行かなければ、やっては来ない」。そこで文帝は使者に命じて汾陰の南に黄河に臨んで廟を造らせ、祭って周の鼎を出現させようとした。ところが、新垣平の言う気や神の事はみな偽りであると上書して告発する者がいた。新垣平を役人に引き渡して取り調べさせ、新垣平とその一族を誅殺した。これ以後、文帝は正朔や服色の改定、神々の事に熱意を失い、渭陽と長門の五帝の祭は祭祀官に任せて時節ごとに礼を尽くさせ、自らは出向かなかった。翌年、匈奴がしばしば辺境に侵入したので、兵を出して守らせた。その後、作物の実りが少し悪い年があった。数年して孝景帝が即位した。その十六年間、祭祀官はそれぞれ季節ごとに以前どおり祭り、新たに始めたものはなく、今の天子(武帝)に至った。今の天子は即位した当初から、ことのほか鬼神の祭を敬った。元年、漢が興ってすでに六十年余り、天下はよく治まり、士大夫たちはみな天子が封禅を行い、暦や制度を改めることを望んでいた。天子は儒学に心を寄せ、賢良の士を招き、趙綰(ちょうわん)・王臧(おうぞう)らが学問によって公卿となり、古の制度にならって都の南に明堂を建て、そこで諸侯を朝見させようと議論した。巡狩・封禅・改暦・服色の事の草案を作ったが、まだ完成しなかった。ちょうどそのころ竇(とう)太后は黄老の学を修めていて儒学を好まず、人にひそかに探らせて趙綰らの不正な利得の事実をつかみ、趙綰・王臧を呼び出して取り調べた。趙綰・王臧は自殺し、彼らが始めた事業はすべて廃止された。六年後、竇太后が死んだ。その翌年、学問の士公孫弘らを召し出した。その翌年、今上(武帝)は初めて雍に行き、五畤に郊祭で臨んだ。その後はいつも三年に一度郊祭を行った。このころ、天子は神君を求め、上林苑の蹄氏観(ていしかん)に住まわせた。
解説
関連する章句
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史記 封禅書魯人公孫臣上書して曰く、「始め秦は水徳を得、今漢之を受く。終始の伝を推せば、則ち漢は当に土徳なるべし。土徳の応は黄龍見はる。宜しく正朔を改め、服色を易へ、色は黄を上ぶべし」と。是の時、丞相張蒼は律歴を好み、以為へらく漢は乃ち水徳の始めなり、故に河、金隄を決す、其の符なりと。年は冬十月に始め、色は外黒く内赤く、徳と相応ず。公孫臣の言の如きは非なりとし、之を罷む。後三歳、黄龍、成紀に見はる。文帝乃ち公孫臣を召し、拝して博士と為し、諸生と改歴・服色の事を草せしむ。其の夏、詔を下して曰く、「異物の神、成紀に見はれ、民に害無く、歳以て年有り。朕、郊して上帝・諸神を祈らんとす。礼官議して、諱む無く以て朕を労へ」と。有司皆曰く、「古は天子夏に親ら郊し、上帝を郊に祀る、故に郊と曰ふ」と。是に於て夏四月、文帝始めて雍の五畤の祠に郊見し、衣は皆赤を上ぶ。其の明年、趙人新垣平、望気を以て上に見え、言ふ、「長安の東北に神気有り、五采を成し、人の冠絻の若し。或ひと曰く、東北は神明の舎、西方は神明の墓なりと。天瑞下る、宜しく祠を立てて上帝を祀り、以て符応に合すべし」と。是に於て渭陽の五帝廟を作り、宇を同じくし、帝ごとに一殿、面ごとに各々五門、各々其の帝の色の如くす。祠に用ふる所及び儀も亦雍の五畤の如し。夏四月、文帝親ら霸・渭の会に拝し、以て渭陽の五帝に郊見す。五帝廟は南のかた渭に臨み、北のかた蒲池の溝水を穿ち、権火挙げて祠れば、光煇然として天に属するが若し。是に於て平を貴びて上大夫とし、賜ふこと累ねて千金。而して博士諸生をして六経の中を刺りて王制を作らしめ、巡狩・封禅の事を謀議せしむ。文帝、長門を出で、五人を道の北に見るが若し。遂に其の直北に因りて五帝の壇を立て、祠るに五牢の具を以てす。其の明年、新垣平、人をして玉杯を持たしめ、書を闕下に上りて之を献ぜしむ。
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史記 孝文本紀十六年、上親ら渭陽の五帝廟を郊見し、亦夏を以て礼に答へて赤を尚ぶ。十七年、玉杯を得たり、刻して曰く「人主延寿」と。是に於て天子始めて更めて元年と為し、天下をして大いに酺せしむ。其の歳、新垣平の事覚れ、三族を夷ぐ。後二年、上曰く、「朕既に明らかならず、遠く徳する能はず、是を以て方外の国をして或いは寧息せざらしむ。夫れ四荒の外其の生に安んぜず、封畿の内勤労して処らず、二者の咎は、皆朕の徳薄くして遠く達する能はざるに自る。間者(このごろ)累年、匈奴并びに辺境を暴し、多く吏民を殺す、辺臣兵吏又吾が内志を諭す能はず、以て吾が不徳を重ぬるなり。夫れ久しく難を結び兵を連ねば、中外の国将に何を以てか自ら寧んぜん。今朕夙に興き夜に寐ね、天下に勤労し、万民を憂苦し、之が為に怛惕して安からず、未だ嘗て一日も心に忘れず、故に使者を遣はして冠蓋相望み、軼を道に結び、以て朕の意を単于に諭す。今単于古の道に反り、社稷の安きを計り、万民の利を便とし、親ら朕と倶に細過を棄て、偕に大道に之き、兄弟の義を結び、以て天下元元の民を全うす。和親已に定まる、今年より始む。」と。後六年冬、匈奴三万人上郡に入り、三万人雲中に入る。中大夫令勉を以て車騎将軍と為し、飛狐に軍せしむ。故の楚の相蘇意を将軍と為し、句注に軍せしむ。将軍張武北地に屯す。河内の守周亜夫を将軍と為し、細柳に居らしむ。宗正劉礼を将軍と為し、霸上に居らしむ。祝茲侯棘門に軍す。以て胡に備ふ。数月にして、胡人去る、亦罷む。天下旱し、蝗あり。帝恵を加ふ。諸侯をして入貢する毋からしめ、山沢を弛め、諸々の服御狗馬を減じ、郎吏の員を損し、倉庾を発して以て貧民を振ひ、民爵を売るを得たり。
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史記 暦書而して新垣平、望気を以て見え、頗る正暦服色の事を言ひ、貴幸せらる、後に乱を作す、故に孝文帝廃して復た問はず。今上即位するに至り、方士を招致し、唐都其の天部を分かち、而して巴の落下閎算を運らし暦を転じ、然る後に日辰の度、夏正と同じ。乃ち元を改め、官号を更め、泰山を封ず。因りて御史に詔して曰く、「乃者、有司言ふ、星度の未だ定まらざるなりと、広く延きて宣問し、以て星度を理むるも、未だ詹る能はざるなり。蓋し聞く、昔者黄帝は合して死せず、名察度験し、清濁を定め、五部を起こし、気物の分数を建つと。然れども蓋し尚し。書欠け楽弛み、朕甚だ焉を閔ふ。朕唯未だ循明する能はざるなり、日分を紬績し、率ね水徳の勝に応ず。今日夏至に順ひ、黄鐘を宮と為し、林鐘を徴と為し、太蔟を商と為し、南呂を羽と為し、姑洗を角と為す。是より以後、気復た正しく、羽声復た清く、名復た正変し、以て子の日の冬至に当たるに至れば、則ち陰陽離合の道行はれん。十一月甲子朔旦冬至已に詹る、其れ更めて七年を以て太初元年と為せ。年は『焉逢摂提格』と名づけ、月は『畢聚』と名づけ、日は甲子を得、夜半朔旦冬至なり」と。太初元年、歳は「焉逢摂提格」と名づけ、月は「畢聚」と名づけ、日は甲子を得、夜半朔旦冬至なり。大余無し、小余無し。大余無し、小余無し。焉逢摂提格、太初元年。大余は五十四、小余は三百四十八。大余は五、小余は八。端蒙単閼、二年。閏十三。大余は四十八、小余は六百九十六。大余は十、小余は十六。游兆執徐、三年。大余は十二、小余は六百三。大余は十五、小余は二十四。彊梧大荒落、四年。大余は七、小余は十一。大余は二十一、小余無し。徒維敦牂、天漢元年。
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史記 孝文本紀帝自ら将として匈奴を撃たんと欲す、群臣諫むるも、皆聴かず。皇太后固く帝を要(と)む、帝乃ち止む。是に於て東陽侯張相如を以て大将軍と為し、成侯赤を内史と為し、欒布を将軍と為し、匈奴を撃たしむ。匈奴遁走す。春、上曰く、「朕犧牲珪幣を執りて以て上帝宗廟に事ふるを獲ること、今に十四年、日を歴ること(縣)[綿]長し、不敏不明を以て久しく天下を撫臨す、朕甚だ自ら愧づ。其れ広く諸祀の墠場珪幣を増せ。昔先王は遠く施して其の報を求めず、望祀して其の福を祈らず、賢を右にして戚を左にし、民を先にして己を後にす、至明の極みなり。今吾聞く祠官の祝釐、皆福を朕が躬に帰し、百姓の為にせずと、朕甚だ之を愧づ。夫れ朕の不徳を以て、躬ら独り其の福を享けて美とし、百姓与らず、是れ吾が不徳を重ぬるなり。其れ祠官をして敬を致し、祈る所有る毋からしめよ。」と。是の時北平侯張蒼丞相為り、方に律暦を明らかにす。魯人公孫臣上書して終始伝五徳の事を陳べ、言ふ方今土徳の時なり、土徳は黄龍の見はるるに応ず、当に正朔服色制度を改むべしと。天子其の事を下して丞相と議せしむ。丞相推して以為へらく今は水徳なり、始めて正十月を明らかにし黒を上ぶ事と、以て其の言非なりと為し、請ひて之を罷む。十五年、黄龍成紀に見はる、天子乃ち復た魯の公孫臣を召し、以て博士と為し、土徳の事を申明せしむ。是に於て上乃ち詔を下して曰く、「異物の神有りて成紀に見はる、民に害無く、歳以て有年なり。朕親ら上帝諸神を郊祀せん。礼官議せよ、諱みて以て朕を労する毋かれ。」と。有司礼官皆曰く、「古者天子夏躬ら親しく上帝を郊に礼祀す、故に郊と曰ふ。」と。是に於て天子始めて雍に幸し、郊して五帝に見え、孟夏四月を以て礼に答ふ。趙人新垣平望気を以て見え、因りて上に説きて渭陽の五廟を設立せしむ。周鼎を出ださんと欲すれば、当に玉英の見はるる有るべしと。
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史記 孝武本紀其の明年、有司言ふ雍の五畤に牢熟の具無く、芬芳備はらずと。乃ち祠官に命じて畤に犢牢の具を進め、五色の食の勝つ所をもてし、而して木耦馬を以て駒に代ふ。独り五帝のみ駒を用ゐ、行きて親ら郊するときは駒を用ゐる。及び諸々の名山川の駒を用ゐる者は、悉く木耦馬を以て代ふ。行きて過ぐれば、乃ち駒を用ゐる。他の礼は故の如し。其の明年、東のかた海上を巡り、神僊の属を考ふるに、未だ験有る者有らず。方士言ふ有り「黄帝の時五城十二楼を為りて、以て神人を執期に候ひ、命じて迎年と曰ふ」と。上之を作ることを方の如く許し、名づけて明年と曰ふ。上親ら上帝を礼祠し、衣は黄を上ぶ。公玊帯曰く、「黄帝の時泰山に封ずと雖も、然れども風后・封鉅・岐伯黄帝をして東泰山に封じ、凡山に禅して符を合はせしめ、然る後に死せず。」と。天子既に祠具を設けしめ、東泰山に至る、東泰山は卑小にして、其の声に称はず、乃ち祠官をして之を礼せしめ、而して封禅せず。其の後帯をして祠を奉じて神物を候はしむ。夏、遂に泰山に還り、五年の礼を修むること前の如くし、而して石閭に禅祠することを加ふ。石閭は、泰山の下阯の南方に在り、方士多く言ふ此れ僊人の閭なりと、故に上親ら禅す。其の後五年、復た泰山に至りて封を修め、還りて過ぎて常山を祭る。今天子の興す所の祠は、泰一・后土、三年に親ら郊祠し、漢家の封禅を建て、五年に一たび封を修む。薄忌の泰一及び三一・冥羊・馬行・赤星、五つ、寛舒の祠官歳時を以て礼を致す。凡そ六祠、皆太祝之を領す。八神の諸神、明年・凡山の他の名祠の如きに至りては、行きて過ぐれば則ち祀り、去れば則ち已む。方士の興す所の祠は、各々自ら主り、其の人終はれば則ち已む、祠官主らず。他の祠は皆其の故の如し。今上封禅して、其の後十二歳にして還り、五嶽・四瀆に徧し。而して方士の神人を候祠し、海に入りて蓬萊を求むるは、終に験有る無し。
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史記 封禅書太一を修祠するに、象景光有るが若く、屑如として望む有るが如く、怪物に震ひ、止めんと欲するも敢てせず、遂に太山に登封し、梁父に至りて、而る後に粛然に禅す。自ら新たにし、嘉して士大夫と更始せん。民に百戸ごとに牛一・酒十石を賜ひ、年八十の孤寡に布帛二匹を加ふ。博・奉高・蛇丘・歴城を復し、今年の租税を出す無からしむ。其れ天下に大赦すること、乙卯の赦令の如くせよ。行きて過ぐる所は復作有る毋からしむ。事の二年の前に在るは、皆聴治する勿かれ」と。又詔を下して曰く、「古は天子五載に一たび巡狩し、泰山に事を用ひ、諸侯に朝宿の地有り。其れ諸侯をして各々邸を泰山の下に治めしめよ」と。天子既已に泰山に封じ、風雨の災無し。而して方士更々蓬萊の諸神将に得可きが若しと言ふ。是に於て上欣然として之に遇はんことを庶幾ひ、乃ち復た東のかた海上に至りて望み、蓬萊に遇はんことを冀ふ。奉車の子侯暴に病み、一日にして死す。上乃ち遂に去り、海上に并ひ、北のかた碣石に至り、遼西より巡り、北辺を歴て九原に至る。五月、反りて甘泉に至る。有司言ふ、宝鼎の出でしを元鼎と為し、今年を以て元封元年と為さんと。其の秋、星有りて東井に茀す。後十余日、星有りて三能に茀す。望気の王朔言ふ、「候ふに独り填星の出づること瓜の如く、食頃にして復た入るを見る」と。有司皆曰く、「陛下漢家の封禅を建つ。天其れ徳星を報ずと云ふ」と。其の来年冬、雍の五帝に郊す。還りて、拝して太一を祝祠す。賛饗に曰く、「徳星昭衍し、厥れ維れ休祥なり。寿星仍りに出で、淵耀光明なり。信星昭見す。皇帝、太祝の享を敬拝す」と。其の春、公孫卿、神人を東萊山に見る、「天子に見えんと欲す」と云ふが若しと言ふ。天子是に於て緱氏城に幸し、卿を拝して中大夫と為す。遂に東萊に至り、宿留すること之を数日、見る所無く、大人の跡を見ると云ふ。復た方士を遣はして神怪を求め芝薬を采らしむること千を以て数ふ。是の歳旱す。
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