史記 / 封禅書
其梁巫,祠天、地、天社、天水、房中、堂上之屬;晉巫,祠五帝、東君、雲中、司命、巫社、巫祠、族人、先炊之屬;秦巫,祠社主、巫保、族纍之屬;荊巫,祠堂下、巫先、司命、施糜之屬;九天巫,祠九天:皆以歲時祠宮中。其河巫祠河於臨晉,而南山巫祠南山秦中。秦中者,二世皇帝。各有時月。其後二歲,或曰周興而邑邰,立后稷之祠,至今血食天下。於是高祖制詔御史:「其令郡國縣立靈星祠,常以歲時祠以牛。」高祖十年春,有司請令縣常以春三月及時臘祠社稷以羊豕,民里社各自財以祠。制曰:「可。」其後十八年,孝文帝即位。即位十三年,下詔曰:「今祕祝移過于下,朕甚不取。自今除之。」始名山大川在諸侯,諸侯祝各自奉祠,天子官不領。及齊、淮南國廢,令太祝盡以歲時致禮如故。是歲,制曰:「朕即位十三年于今,賴宗廟之靈,社稷之福,方內艾安,民人靡疾。閒者比年登,朕之不德,何以饗此?皆上帝諸神之賜也。蓋聞古者饗其德必報其功,欲有增諸神祠。有司議增雍五畤路車各一乘,駕被具;西畤畦畤禺車各一乘,禺馬四匹,駕被具;其河、湫、漢水加玉各二;及諸祠,各增廣壇場,珪幣俎豆以差加之。而祝祕者歸福於朕,百姓不與焉。自今祝致敬,毋有所祈。」
新字:其梁巫,祠天、地、天社、天水、房中、堂上之属;晋巫,祠五帝、東君、雲中、司命、巫社、巫祠、族人、先炊之属;秦巫,祠社主、巫保、族纍之属;荊巫,祠堂下、巫先、司命、施糜之属;九天巫,祠九天:皆以歳時祠宮中。其河巫祠河於臨晋,而南山巫祠南山秦中。秦中者,二世皇帝。各有時月。其後二歳,或曰周興而邑邰,立后稷之祠,至今血食天下。於是高祖制詔御史:「其令郡国県立霊星祠,常以歳時祠以牛。」高祖十年春,有司請令県常以春三月及時臘祠社稷以羊豕,民里社各自財以祠。制曰:「可。」其後十八年,孝文帝即位。即位十三年,下詔曰:「今秘祝移過于下,朕甚不取。自今除之。」始名山大川在諸侯,諸侯祝各自奉祠,天子官不領。及斉、淮南国廃,令太祝尽以歳時致礼如故。是歳,制曰:「朕即位十三年于今,頼宗廟之霊,社稷之福,方内艾安,民人靡疾。閒者比年登,朕之不徳,何以饗此?皆上帝諸神之賜也。蓋聞古者饗其徳必報其功,欲有增諸神祠。有司議增雍五畤路車各一乗,駕被具;西畤畦畤禺車各一乗,禺馬四匹,駕被具;其河、湫、漢水加玉各二;及諸祠,各增広壇場,珪幣俎豆以差加之。而祝秘者帰福於朕,百姓不与焉。自今祝致敬,毋有所祈。」
書き下し
其の梁巫は、天・地・天社・天水・房中・堂上の属を祠る。晋巫は、五帝・東君・雲中・司命・巫社・巫祠・族人・先炊の属を祠る。秦巫は、社主・巫保・族纍の属を祠る。荊巫は、堂下・巫先・司命・施糜の属を祠る。九天巫は、九天を祠る。皆歳時を以て宮中に祠る。其の河巫は河を臨晋に祠り、而して南山巫は南山・秦中を祠る。秦中とは二世皇帝なり。各々時月有り。其の後二歳、或ひと曰く、周興りて邰に邑し、后稷の祠を立て、今に至るまで天下に血食すと。是に於て高祖、御史に制詔すらく、「其れ郡国県をして霊星の祠を立て、常に歳時を以て祠るに牛を以てせしめよ」と。高祖十年春、有司請ふ、県をして常に春三月及び時の臘を以て社稷を祠るに羊豕を以てし、民の里社は各々自ら財して以て祠らしめんと。制して曰く、「可なり」と。其の後十八年、孝文帝即位す。即位して十三年、詔を下して曰く、「今、秘祝の過ちを下に移すは、朕甚だ取らず。今より之を除け」と。始め名山大川の諸侯に在るは、諸侯の祝各々自ら奉祠し、天子の官は領せず。斉・淮南国の廃するに及び、太祝をして尽く歳時を以て礼を致すこと故の如くせしむ。是の歳、制して曰く、「朕即位して十三年、今に于て、宗廟の霊、社稷の福に頼り、方内艾安にして、民人疾靡し。間者比年登る。朕の不徳、何を以てか此を饗けん。皆上帝諸神の賜なり。蓋し聞く、古は其の徳を饗くれば必ず其の功に報ゆと。諸神の祠を増すこと有らんと欲す」と。有司議して、雍の五畤に路車各一乗、駕被具を増し、西畤・畦畤に禺車各一乗、禺馬四匹、駕被具を増し、其の河・湫・漢水には玉各二を加へ、及び諸祠、各々壇場を増広し、珪幣俎豆は差を以て之を加ふ。而して祝の秘する者は福を朕に帰し、百姓は与らず。「今より祝は敬を致し、祈る所有る毋かれ」と。
現代語訳
その(長安に置いた巫のうち)梁の巫は、天・地・天社・天水・房中・堂上などを祭る。晋の巫は、五帝・東君(太陽神)・雲中君(雲の神)・司命(寿命の神)・巫社・巫祠・族人・先炊(炊事の祖神)などを祭る。秦の巫は、社主・巫保・族纍(ぞくるい)などを祭る。荊(楚)の巫は、堂下・巫先・司命・施糜などを祭る。九天の巫は九天を祭る。いずれも季節ごとに宮中で祭る。河の巫は黄河を臨晋で祭り、南山の巫は南山と秦中を祭る。秦中とは二世皇帝のことである。それぞれ祭る時節が定められている。その二年後、ある者が言った。周が興って邰(たい)に都を置き、后稷の祠を立て、今に至るまで天下で犠牲を捧げられている、と。そこで高祖は御史に詔して「郡国と県に霊星(農事の星)の祠を立てさせ、いつも季節ごとに牛で祭らせよ」と命じた。高祖十年の春、役人が、県にいつも春の三月と年末の臘(ろう)の時に羊と豚で社稷(土地と穀物の神)を祭らせ、民の村の社はそれぞれ自分たちで費用を出して祭らせたいと願い出た。高祖は詔して「よろしい」と言った。その十八年後、孝文帝が即位した。即位して十三年目、詔を下して言った。「今、秘祝が災いの咎を臣下に移していることは、私はまったく良しとしない。今後これを廃止せよ」。もともと名山大川で諸侯の領内にあるものは、諸侯の祭祀官がそれぞれ自分で祭り、天子の官は管轄しなかった。斉と淮南の国が廃されると、太祝にすべて季節ごとに以前どおり礼を尽くさせた。この年、文帝は詔して言った。「私が即位して十三年、今に至るまで、宗廟の霊と社稷の福のおかげで国内は安らかに治まり、民に病もない。近年は毎年豊作である。不徳な私が、どうしてこれを受けるに値しようか。すべて上帝と神々の賜物である。聞くところでは、古は恵みを受ければ必ずその功に報いたという。神々の祠を増やしたいと思う」。役人たちは議論して、雍の五畤にそれぞれ儀仗用の車一台と馬具一式を加え、西畤と畦畤にはそれぞれ木の車一台と木の馬四頭と馬具一式を加え、黄河・湫淵・漢水には玉をそれぞれ二つ加え、また諸々の祠はそれぞれ祭壇を広げ、玉・絹・祭器を等級に応じて増やすことにした。(文帝はさらに言った。)「祭祀官で秘密に祈る者は福を私一人に帰そうとし、民はその恩恵にあずからない。今後、祭祀官は敬意を尽くすだけにして、何かを祈り求めてはならない」。
解説
関連する章句
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史記 封禅書黄犢・羔各四、珪幣各々数有り、皆生きながら瘞め埋め、俎豆の具無し。三年に一たび郊す。秦は冬十月を以て歳首と為す、故に常に十月を以て上宿して郊見し、権火を通じ、咸陽の旁に拝し、而して衣は白を上ぶ。其の用は経祠の如しと云ふ。西畤・畦畤は祠ること其の故の如く、上親ら往かず。諸々の此の祠は皆太祝常に主り、歳時を以て之を奉祠す。他の名山川・諸鬼及び八神の属の如きに至りては、上過ぐれば則ち祠り、去れば則ち已む。郡県遠方の神祠は、民各々自ら奉祠し、天子の祝官に領せず。祝官に秘祝有り、即ち菑祥有れば、輒ち祝祠して過ちを下に移す。漢興り、高祖の微なりし時、嘗て大蛇を殺す。物有りて曰く、「蛇は白帝の子なり、而して殺す者は赤帝の子なり」と。高祖初めて起つや、豊の枌楡の社に禱る。沛を徇へ、沛公と為るや、則ち蚩尤を祠り、鼓旗に釁る。遂に十月を以て灞上に至り、諸侯と咸陽を平げ、立ちて漢王と為る。因りて十月を以て年首と為し、而して色は赤を上ぶ。二年、東のかた項籍を撃ちて還りて関に入り、問ふ、「故の秦の時、上帝の祠は何の帝ぞや」と。対へて曰く、「四帝、白・青・黄・赤帝の祠有り」と。高祖曰く、「吾聞く、天に五帝有りと。而るに四有るは、何ぞや」と。其の説を知る莫し。是に於て高祖曰く、「吾之を知れり。乃ち我を待ちて五を具ふるなり」と。乃ち黒帝の祠を立て、命じて北畤と曰ふ。有司進めて祠り、上親ら往かず。悉く故の秦の祝官を召し、復た太祝・太宰を置き、其の故の儀礼の如くす。因りて県をして公社を為らしむ。詔を下して曰く、「吾甚だ祠を重んじて祭を敬ふ。今、上帝の祭及び山川の諸神の当に祠るべき者は、各々其の時を以て之を礼祠すること故の如くせよ」と。後四歳、天下已に定まり、御史に詔し、豊をして謹みて枌楡の社を治めしめ、常に四時を以て春に羊彘を以て之を祠らしむ。祝官に令して蚩尤の祠を長安に立てしむ。長安に祠祝官・女巫を置く。
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史記 封禅書後五世、帝武乙、神を慢りて震死す。後三世、帝紂淫乱にして、武王之を伐つ。此に由りて之を観れば、始めは未だ嘗て粛祗せずんばあらず、後稍く怠慢なり。周官に曰く、冬日至に、天を南郊に祀り、長日の至るを迎ふ。夏日至に、地祇を祭る。皆楽舞を用ひて、神乃ち得て礼す可きなり。天子は天下の名山大川を祭り、五岳は三公に視へ、四瀆は諸侯に視ふ。諸侯は其の疆内の名山大川を祭る。四瀆とは、江・河・淮・済なり。天子には明堂・辟雍と曰ひ、諸侯には泮宮と曰ふ。周公既に成王に相として、后稷を郊祀して以て天に配し、文王を明堂に宗祀して以て上帝に配す。禹の興りしより社祀を修め、后稷は稼穡す、故に稷祠有り、郊社の従りて来る所は尚し。周の殷に克ちし後十四世より、世益々衰へ、礼楽廃れ、諸侯恣に行ひ、而して幽王、犬戎の敗る所と為り、周、東して雒邑に徙る。秦の襄公、戎を攻めて周を救ひ、始めて列して諸侯と為る。秦の襄公既に侯となり、西垂に居り、自ら以為へらく少皞の神を主ると、西畤を作り、白帝を祠る。其の牲は騮駒・黄牛・羝羊各一を用ふと云ふ。其の後十六年、秦の文公、東して汧・渭の間に猟し、之に居らんことを卜して吉なり。文公、黄蛇の天より下りて地に属し、其の口の鄜衍に止まるを夢む。文公、史敦に問ふ。敦曰く、「此れ上帝の徴なり、君其れ之を祠れ」と。是に於て鄜畤を作り、三牲を用ひて白帝を郊祭す。未だ鄜畤を作らざるよりして、雍の旁に故より呉陽の武畤有り、雍の東に好畤有り、皆廃れて祠無し。或ひと曰く、「古より雍州は積みて高く、神明の隩なるを以て、故に畤を立てて上帝を郊し、諸神の祠皆聚まると云ふ。蓋し黄帝の時嘗て事を用ひ、晩周と雖も亦郊す」と。其の語は経に見えず、縉紳の者は道はず。鄜畤を作りて後九年、文公、石の若きものを獲て、陳倉の北阪の城に之を祠る。
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史記 封禅書其の牲は牛犢各一を用ひ、牢具・珪幣各々異なる。華より以西、名山七、名川四。曰く華山、薄山。薄山とは衰山なり。岳山、岐山、呉岳、鴻冢、瀆山。瀆山は蜀の汶山なり。水は河と曰ひ、臨晋に祠る。沔、漢中に祠る。湫淵、朝那に祠る。江水、蜀に祠る。亦春秋に泮涸禱塞すること、東方の名山川の如し。而して牲牛犢・牢具・珪幣各々異なる。而して四大冢の鴻・岐・呉・岳、皆嘗禾有り。陳宝は節来りて祠る。其の河には加へて嘗醪有り。此れ皆雍州の域に在り、天子の都に近し、故に車一乗、騮駒四を加ふ。霸・産・長水・灃・澇・涇・渭は皆大川に非ざるも、咸陽に近きを以て、尽く山川の祠に比するを得るも、諸々の加無し。汧・洛の二淵、鳴沢・蒲山・嶽胥山の属は、小山川たり、亦皆歳ごとに禱塞泮涸して祠るも、礼は必ずしも同じからず。而して雍には日・月・参・辰・南北斗・熒惑・太白・歳星・填星・二十八宿・風伯・雨師・四海・九臣・十四臣・諸布・諸厳・諸逑の属、百有余廟有り。西にも亦数十祠有り。湖に於て周の天子の祠有り。下邽に於て天神有り。灃・滈に昭明・天子辟池有り。社・亳に於て三社主の祠・寿星の祠有り。而して雍の菅廟にも亦杜主有り。杜主は故の周の右将軍、其の秦中に在るや、最も小なる表の神なる者なり。各々歳時を以て奉祠す。唯雍の四畤の上帝を尊と為し、其の光景の人民を動かすは唯陳宝のみ。故に雍の四畤は、春は以て歳禱と為し、因りて凍を泮き、秋は凍を涸し、冬は塞祠し、五月は駒を嘗め、及び四仲の月に祠ること月祠の若く、陳宝は節来りて一たび祠る。春夏は騂を用ひ、秋冬は駵を用ふ。畤の駒四匹、木禺の龍欒車一駟、木禺の車馬一駟、各々其の帝の色の如くす。
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史記 孝武本紀其の明年、有司言ふ雍の五畤に牢熟の具無く、芬芳備はらずと。乃ち祠官に命じて畤に犢牢の具を進め、五色の食の勝つ所をもてし、而して木耦馬を以て駒に代ふ。独り五帝のみ駒を用ゐ、行きて親ら郊するときは駒を用ゐる。及び諸々の名山川の駒を用ゐる者は、悉く木耦馬を以て代ふ。行きて過ぐれば、乃ち駒を用ゐる。他の礼は故の如し。其の明年、東のかた海上を巡り、神僊の属を考ふるに、未だ験有る者有らず。方士言ふ有り「黄帝の時五城十二楼を為りて、以て神人を執期に候ひ、命じて迎年と曰ふ」と。上之を作ることを方の如く許し、名づけて明年と曰ふ。上親ら上帝を礼祠し、衣は黄を上ぶ。公玊帯曰く、「黄帝の時泰山に封ずと雖も、然れども風后・封鉅・岐伯黄帝をして東泰山に封じ、凡山に禅して符を合はせしめ、然る後に死せず。」と。天子既に祠具を設けしめ、東泰山に至る、東泰山は卑小にして、其の声に称はず、乃ち祠官をして之を礼せしめ、而して封禅せず。其の後帯をして祠を奉じて神物を候はしむ。夏、遂に泰山に還り、五年の礼を修むること前の如くし、而して石閭に禅祠することを加ふ。石閭は、泰山の下阯の南方に在り、方士多く言ふ此れ僊人の閭なりと、故に上親ら禅す。其の後五年、復た泰山に至りて封を修め、還りて過ぎて常山を祭る。今天子の興す所の祠は、泰一・后土、三年に親ら郊祠し、漢家の封禅を建て、五年に一たび封を修む。薄忌の泰一及び三一・冥羊・馬行・赤星、五つ、寛舒の祠官歳時を以て礼を致す。凡そ六祠、皆太祝之を領す。八神の諸神、明年・凡山の他の名祠の如きに至りては、行きて過ぐれば則ち祀り、去れば則ち已む。方士の興す所の祠は、各々自ら主り、其の人終はれば則ち已む、祠官主らず。他の祠は皆其の故の如し。今上封禅して、其の後十二歳にして還り、五嶽・四瀆に徧し。而して方士の神人を候祠し、海に入りて蓬萊を求むるは、終に験有る無し。
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史記 封禅書魯人公孫臣上書して曰く、「始め秦は水徳を得、今漢之を受く。終始の伝を推せば、則ち漢は当に土徳なるべし。土徳の応は黄龍見はる。宜しく正朔を改め、服色を易へ、色は黄を上ぶべし」と。是の時、丞相張蒼は律歴を好み、以為へらく漢は乃ち水徳の始めなり、故に河、金隄を決す、其の符なりと。年は冬十月に始め、色は外黒く内赤く、徳と相応ず。公孫臣の言の如きは非なりとし、之を罷む。後三歳、黄龍、成紀に見はる。文帝乃ち公孫臣を召し、拝して博士と為し、諸生と改歴・服色の事を草せしむ。其の夏、詔を下して曰く、「異物の神、成紀に見はれ、民に害無く、歳以て年有り。朕、郊して上帝・諸神を祈らんとす。礼官議して、諱む無く以て朕を労へ」と。有司皆曰く、「古は天子夏に親ら郊し、上帝を郊に祀る、故に郊と曰ふ」と。是に於て夏四月、文帝始めて雍の五畤の祠に郊見し、衣は皆赤を上ぶ。其の明年、趙人新垣平、望気を以て上に見え、言ふ、「長安の東北に神気有り、五采を成し、人の冠絻の若し。或ひと曰く、東北は神明の舎、西方は神明の墓なりと。天瑞下る、宜しく祠を立てて上帝を祀り、以て符応に合すべし」と。是に於て渭陽の五帝廟を作り、宇を同じくし、帝ごとに一殿、面ごとに各々五門、各々其の帝の色の如くす。祠に用ふる所及び儀も亦雍の五畤の如し。夏四月、文帝親ら霸・渭の会に拝し、以て渭陽の五帝に郊見す。五帝廟は南のかた渭に臨み、北のかた蒲池の溝水を穿ち、権火挙げて祠れば、光煇然として天に属するが若し。是に於て平を貴びて上大夫とし、賜ふこと累ねて千金。而して博士諸生をして六経の中を刺りて王制を作らしめ、巡狩・封禅の事を謀議せしむ。文帝、長門を出で、五人を道の北に見るが若し。遂に其の直北に因りて五帝の壇を立て、祠るに五牢の具を以てす。其の明年、新垣平、人をして玉杯を持たしめ、書を闕下に上りて之を献ぜしむ。
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史記 礼書秦の天下を有つに至りて、悉く六国の礼儀を内れ、其の善を采択す、聖制に合はずと雖も、其の君を尊び臣を抑へ、朝廷済済たるは、古より以来に依る。高祖に至りて、光に四海を有ち、叔孫通頗る増益減損する所有れども、大抵皆秦の故を襲ふ。天子の称号より下は佐僚及び宮室官名に至るまで、変改する所少なし。孝文即位し、有司議して儀礼を定めんと欲す、孝文は道家の学を好み、以為へらく繁礼飾貌は治に益無し、躬化するは謂何ぞやと、故に之を罷め去る。孝景の時、御史大夫晁錯は世務刑名に明らかにして、数々孝景に干諫して曰く、「諸侯藩輔は、臣子と一例なるは、古今の制なり。今大国は専ら治めて政を異にし、京師に稟けず、恐らくは後に伝ふべからず」と。孝景其の計を用ひて、六国畔逆し、錯を以て首名と為す、天子錯を誅して以て難を解く。事は袁盎の語中に在り。是の後官者は交はりを養ひ禄に安んずるのみ、敢へて復た議する莫し。今上即位し、儒術の士を招致し、共に儀を定めしむるも、十余年就らず。或ひと言ふ、古者太平にして、万民和喜し、瑞応辨く至り、乃ち風俗を采りて、制作を定むと。上之を聞き、御史に制詔して曰く、「蓋し命を受けて王たるは、各々由りて興る所有り、路を殊にして帰を同じくす、民に因りて作り、俗を追ひて制を為すを謂ふなり。議者咸太古を称す、百姓何をか望まん。漢も亦一家の事なり、典法伝はらずんば、子孫を謂何せん。化の隆なる者は閎博、治の浅き者は褊狭、勉めざるべけんや」と。乃ち太初の元を以て正朔を改め、服色を易へ、太山を封じ、宗廟百官の儀を定め、以て典常と為し、之を後に垂ると云ふ。礼は人より起こる。人生まれて欲有り、欲して得ざれば則ち忿り無き能はず、忿りて度量無ければ則ち争ひ、争へば則ち乱る。
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