師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 封禅書

黃犢羔各四,珪幣各有數,皆生瘞埋,無俎豆之具。三年一郊。秦以冬十月為歲首,故常以十月上宿郊見,通權火,拜於咸陽之旁,而衣上白,其用如經祠云。西畤、畦畤,祠如其故,上不親往。諸此祠皆太祝常主,以歲時奉祠之。至如他名山川諸鬼及八神之屬,上過則祠,去則已。郡縣遠方神祠者,民各自奉祠,不領於天子之祝官。祝官有祕祝,即有菑祥,輒祝祠移過於下。漢興,高祖之微時,嘗殺大蛇。有物曰:「蛇,白帝子也,而殺者赤帝子。」高祖初起,禱豐枌榆社。徇沛,為沛公,則祠蚩尤,釁鼓旗。遂以十月至灞上,與諸侯平咸陽,立為漢王。因以十月為年首,而色上赤。二年,東擊項籍而還入關,問:「故秦時上帝祠何帝也?」對曰:「四帝,有白、青、黃、赤帝之祠。」高祖曰:「吾聞天有五帝,而有四,何也?」莫知其說。於是高祖曰:「吾知之矣,乃待我而具五也。」乃立黑帝祠,命曰北畤。有司進祠,上不親往。悉召故秦祝官,復置太祝、太宰,如其故儀禮。因令縣為公社。下詔曰:「吾甚重祠而敬祭。今上帝之祭及山川諸神當祠者,各以其時禮祠之如故。」後四歲,天下已定,詔御史,令豐謹治枌榆社,常以四時春以羊彘祠之。令祝官立蚩尤之祠於長安。長安置祠祝官、女巫。

新字:黄犢羔各四,珪幣各有数,皆生瘞埋,無俎豆之具。三年一郊。秦以冬十月為歳首,故常以十月上宿郊見,通権火,拝於咸陽之旁,而衣上白,其用如経祠云。西畤、畦畤,祠如其故,上不親往。諸此祠皆太祝常主,以歳時奉祠之。至如他名山川諸鬼及八神之属,上過則祠,去則已。郡県遠方神祠者,民各自奉祠,不領於天子之祝官。祝官有秘祝,即有菑祥,輒祝祠移過於下。漢興,高祖之微時,嘗殺大蛇。有物曰:「蛇,白帝子也,而殺者赤帝子。」高祖初起,祷豊枌榆社。徇沛,為沛公,則祠蚩尤,釁鼓旗。遂以十月至灞上,与諸侯平咸陽,立為漢王。因以十月為年首,而色上赤。二年,東撃項籍而還入関,問:「故秦時上帝祠何帝也?」対曰:「四帝,有白、青、黄、赤帝之祠。」高祖曰:「吾聞天有五帝,而有四,何也?」莫知其説。於是高祖曰:「吾知之矣,乃待我而具五也。」乃立黒帝祠,命曰北畤。有司進祠,上不親往。悉召故秦祝官,復置太祝、太宰,如其故儀礼。因令県為公社。下詔曰:「吾甚重祠而敬祭。今上帝之祭及山川諸神当祠者,各以其時礼祠之如故。」後四歳,天下已定,詔御史,令豊謹治枌榆社,常以四時春以羊彘祠之。令祝官立蚩尤之祠於長安。長安置祠祝官、女巫。

書き下し

黄犢・羔各四、珪幣各々数有り、皆生きながら瘞め埋め、俎豆の具無し。三年に一たび郊す。秦は冬十月を以て歳首と為す、故に常に十月を以て上宿して郊見し、権火を通じ、咸陽の旁に拝し、而して衣は白を上ぶ。其の用は経祠の如しと云ふ。西畤・畦畤は祠ること其の故の如く、上親ら往かず。諸々の此の祠は皆太祝常に主り、歳時を以て之を奉祠す。他の名山川・諸鬼及び八神の属の如きに至りては、上過ぐれば則ち祠り、去れば則ち已む。郡県遠方の神祠は、民各々自ら奉祠し、天子の祝官に領せず。祝官に秘祝有り、即ち菑祥有れば、輒ち祝祠して過ちを下に移す。漢興り、高祖の微なりし時、嘗て大蛇を殺す。物有りて曰く、「蛇は白帝の子なり、而して殺す者は赤帝の子なり」と。高祖初めて起つや、豊の枌楡の社に禱る。沛を徇へ、沛公と為るや、則ち蚩尤を祠り、鼓旗に釁る。遂に十月を以て灞上に至り、諸侯と咸陽を平げ、立ちて漢王と為る。因りて十月を以て年首と為し、而して色は赤を上ぶ。二年、東のかた項籍を撃ちて還りて関に入り、問ふ、「故の秦の時、上帝の祠は何の帝ぞや」と。対へて曰く、「四帝、白・青・黄・赤帝の祠有り」と。高祖曰く、「吾聞く、天に五帝有りと。而るに四有るは、何ぞや」と。其の説を知る莫し。是に於て高祖曰く、「吾之を知れり。乃ち我を待ちて五を具ふるなり」と。乃ち黒帝の祠を立て、命じて北畤と曰ふ。有司進めて祠り、上親ら往かず。悉く故の秦の祝官を召し、復た太祝・太宰を置き、其の故の儀礼の如くす。因りて県をして公社を為らしむ。詔を下して曰く、「吾甚だ祠を重んじて祭を敬ふ。今、上帝の祭及び山川の諸神の当に祠るべき者は、各々其の時を以て之を礼祠すること故の如くせよ」と。後四歳、天下已に定まり、御史に詔し、豊をして謹みて枌楡の社を治めしめ、常に四時を以て春に羊彘を以て之を祠らしむ。祝官に令して蚩尤の祠を長安に立てしむ。長安に祠祝官・女巫を置く。

現代語訳

(さらに)黄色い子牛と子羊を各四頭、玉と絹もそれぞれ定数があり、どれも生きたまま土に埋め、祭器は用いない。三年に一度郊祭を行う。秦は冬の十月を年の初めとしたので、いつも十月に天子が斎戒して宿泊し郊祭に臨み、のろし火を連ねて伝え、咸陽の近くで遥拝し、衣服は白を尊んだ。その用い方は常の祭と同じであったという。西畤と畦畤はもとのとおり祭り、皇帝は自ら出向かなかった。これらの祠はみな太祝(祭祀長官)が常に主管し、季節ごとに祭った。その他の名山川や諸々の鬼神、八神などは、皇帝が通りかかれば祭り、去れば祭らなかった。郡県や遠方の神祠は、民がそれぞれ自分たちで祭り、天子の祭祀官は管轄しなかった。祭祀官には秘祝(ひしゅく)という役があり、災いの兆しがあると、ただちに祈祷してその咎を臣下に移した。漢が興った。高祖(劉邦)は身分の低かったころ、大蛇を殺したことがある。すると何者かが「その蛇は白帝の子で、殺したのは赤帝の子だ」と言った。高祖は兵を挙げた当初、豊の枌楡(ふんゆ)の社に祈った。沛を従えて沛公となると、蚩尤を祭り、太鼓と旗に犠牲の血を塗った。こうして十月に灞上(はじょう)に至り、諸侯とともに咸陽を平定し、漢王に立った。そこで十月を年の初めとし、色は赤を尊んだ。漢の二年、東の項籍(項羽)を攻めてから関中に戻ると、高祖は尋ねた。「昔の秦の時代、上帝の祠はどの帝を祭っていたのか」。答えて言った。「四帝で、白帝・青帝・黄帝・赤帝の祠があります」。高祖は言った。「天には五帝があると聞いている。それなのに四つしかないのはなぜか」。誰もその理由を知らなかった。そこで高祖は言った。「分かったぞ。私を待って五つをそろえるのだ」。そして黒帝の祠を立て、北畤と名づけた。役人に祭らせ、高祖自身は出向かなかった。秦の祭祀官をすべて呼び集め、太祝・太宰を再び置き、昔どおりの儀礼で行わせた。また県ごとに公の社を作らせた。そして詔を下して言った。「私は祠を非常に重んじ、祭を敬っている。今、上帝の祭と、山川の神々で祭るべきものは、それぞれの時節に以前どおり礼をもって祭れ」。四年後、天下が平定されると、御史に詔して、豊に枌楡の社を丁重に整えさせ、いつも四季ごとに、春には羊と豚で祭らせた。祭祀官に命じて蚩尤の祠を長安に立てさせた。長安には祭祀官と女巫を置いた。

解説

秦の祭祀制度の締めくくりと、漢の高祖劉邦による祭祀の継承が語られます。秦には災いの咎を祈祷で臣下に移す「秘祝」という役職まであったと書かれており、次の文帝の段でそれが廃止される伏線になっています。劉邦は、大蛇を殺して「赤帝の子」と呼ばれた若い頃の逸話から始まり、挙兵して蚩尤を祭り、漢王になると赤を尊びました。秦の上帝祠が四つしかないと聞いて「私を待って五つをそろえるのだ」と黒帝の北畤を立てる場面は、自分を天命の完成者に位置づける、劉邦らしい機転の利いた解釈です。一方で秦の祭祀官をそのまま呼び戻し、旧来の儀礼を踏襲させてもいます。新しい体制が前の体制の実務者と仕組みを上手に引き継ぐ、現実的な政権運営の一面が見えます。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る