礼記 / 礼器
有以高為貴者:天子之堂九尺,諸侯七尺,大夫五尺,士三尺。天子諸侯臺門,此以高為貴也。 有以下為貴者:至敬不壇,埽地而祭。天子諸侯之尊廢禁,大夫士棜、禁,此以下為貴也。
新字:有以高為貴者:天子之堂九尺,諸侯七尺,大夫五尺,士三尺。天子諸侯台門,此以高為貴也。 有以下為貴者:至敬不壇,埽地而祭。天子諸侯之尊廃禁,大夫士棜、禁,此以下為貴也。
書き下し
高きを以て貴しと為す者有り。天子の堂は九尺、諸侯は七尺、大夫は五尺、士は三尺。天子諸侯は台門す。此れ高きを以て貴しと為すなり。 下きを以て貴しと為す者有り。至敬は壇せず、地を埽(はら)いて祭る。天子諸侯の尊は禁(きん)を廃し、大夫士は棜(よ)・禁す。此れ下きを以て貴しと為すなり。
現代語訳
礼には、高いことを尊いとするものがある。天子の堂の土台の高さは九尺、諸侯は七尺、大夫は五尺、士は三尺である。天子と諸侯は門の上に楼台を築く。これが高いことを尊いとするものである。 礼には、低いことを尊いとするものがある。最高の敬意を表す祭りでは、壇を築かず、地面を掃き清めてそのまま祭る。天子と諸侯の酒樽は禁(きん、酒樽を載せる台)を取り去って地に直に置き、大夫と士は棜(よ、脚のない台)や禁の上に置く。これが低いことを尊いとするものである。
解説
礼の差等を高低の尺度で示す段である。堂の土台は天子九尺から士三尺まで、身分に応じて二尺ずつ低くなり、天子と諸侯だけが門の上に楼台を築く。高さはそのまま威儀と権威の表れである。一方で、天を祭るような最高の敬意の場では、壇すら築かず、地面を掃き清めて祭る。酒樽も、天子と諸侯は台を取り去って地に直に置き、大夫と士は台の上に載せる。鄭玄は、廃は去る意で、棜は禁の一種と注している。尊い者ほど低く質素に、というこの逆転は、前段までの多少・大小と同じ構造であり、最高の敬意は飾りや高さを捨てたところに現れるという考えを示している。天の前では天子もへりくだるのである。人の上に立つときには高さで威を示す場面もあるが、本当に大切なものの前では身を低くする。その使い分けを知ることが、礼を知るということなのだろう。
この章句が説くこと
礼記高低謙虚祭祀礼器
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