史記 / 封禅書
齊所以為齊,以天齊也。其祀絕莫知起時。八神:一曰天主,祠天齊。天齊淵水,居臨菑南郊山下者。二曰地主,祠泰山梁父。蓋天好陰,祠之必於高山之下,小山之上,命曰「畤」;地貴陽,祭之必於澤中圜丘云。三曰兵主,祠蚩尤。蚩尤在東平陸監鄉,齊之西境也。四曰陰主,祠三山。五曰陽主,祠之罘。六曰月主,祠之萊山。皆在齊北,并勃海。七曰日主,祠成山。成山斗入海,最居齊東北隅,以迎日出云。八曰四時主,祠瑯邪。瑯邪在齊東方,蓋歲之所始。皆各用一牢具祠,而巫祝所損益,珪幣雜異焉。自齊威、宣之時,騶子之徒論著終始五德之運,及秦帝而齊人奏之,故始皇采用之。而宋毋忌、正伯僑、充尚、羨門高最後皆燕人,為方僊道,形解銷化,依於鬼神之事。騶衍以陰陽主運顯於諸侯,而燕齊海上之方士傳其術不能通,然則怪迂阿諛茍合之徒自此興,不可勝數也。自威、宣、燕昭使人入海求蓬萊、方丈、瀛洲。此三神山者,其傅在勃海中,去人不遠;患且至,則船風引而去。蓋嘗有至者,諸僊人及不死之藥皆在焉。其物禽獸盡白,而黃金銀為宮闕。未至,望之如雲;及到,三神山反居水下。臨之,風輒引去,終莫能至云。世主莫不甘心焉。
新字:斉所以為斉,以天斉也。其祀絶莫知起時。八神:一曰天主,祠天斉。天斉淵水,居臨菑南郊山下者。二曰地主,祠泰山梁父。蓋天好陰,祠之必於高山之下,小山之上,命曰「畤」;地貴陽,祭之必於沢中圜丘云。三曰兵主,祠蚩尤。蚩尤在東平陸監郷,斉之西境也。四曰陰主,祠三山。五曰陽主,祠之罘。六曰月主,祠之萊山。皆在斉北,并勃海。七曰日主,祠成山。成山斗入海,最居斉東北隅,以迎日出云。八曰四時主,祠瑯邪。瑯邪在斉東方,蓋歳之所始。皆各用一牢具祠,而巫祝所損益,珪幣雑異焉。自斉威、宣之時,騶子之徒論著終始五徳之運,及秦帝而斉人奏之,故始皇采用之。而宋毋忌、正伯僑、充尚、羨門高最後皆燕人,為方僊道,形解銷化,依於鬼神之事。騶衍以陰陽主運顕於諸侯,而燕斉海上之方士伝其術不能通,然則怪迂阿諛苟合之徒自此興,不可勝数也。自威、宣、燕昭使人入海求蓬萊、方丈、瀛洲。此三神山者,其傅在勃海中,去人不遠;患且至,則船風引而去。蓋嘗有至者,諸僊人及不死之薬皆在焉。其物禽獣尽白,而黄金銀為宮闕。未至,望之如雲;及到,三神山反居水下。臨之,風輒引去,終莫能至云。世主莫不甘心焉。
書き下し
斉の斉たる所以は、天斉を以てなり。其の祀絶えて起る時を知る莫し。八神、一に曰く天主、天斉に祠る。天斉は淵水、臨菑の南郊の山下に居る者なり。二に曰く地主、泰山・梁父に祠る。蓋し天は陰を好み、之を祠るは必ず高山の下、小山の上に於てし、命じて「畤」と曰ふ。地は陽を貴び、之を祭るは必ず沢中の圜丘に於てすと云ふ。三に曰く兵主、蚩尤を祠る。蚩尤は東平陸の監郷に在り、斉の西境なり。四に曰く陰主、三山に祠る。五に曰く陽主、之罘に祠る。六に曰く月主、之を萊山に祠る。皆斉の北に在り、勃海に并ふ。七に曰く日主、成山に祠る。成山は斗として海に入り、最も斉の東北の隅に居り、以て日の出づるを迎ふと云ふ。八に曰く四時主、瑯邪に祠る。瑯邪は斉の東方に在り、蓋し歳の始まる所なり。皆各々一牢の具を用ひて祠る。而して巫祝の損益する所、珪幣雑異す。斉の威・宣の時より、騶子の徒、終始五徳の運を論著し、秦の帝たるに及びて斉人之を奏す、故に始皇之を采用す。而して宋毋忌・正伯僑・充尚・羨門高、最後は皆燕人にして、方僊の道を為し、形解銷化し、鬼神の事に依る。騶衍、陰陽の主運を以て諸侯に顕はる。而して燕・斉の海上の方士、其の術を伝ふるも通ずる能はず、然らば則ち怪迂・阿諛・苟合の徒、此より興り、勝げて数ふ可からざるなり。威・宣・燕の昭より、人をして海に入りて蓬萊・方丈・瀛洲を求めしむ。此の三神山は、其れ伝へて勃海の中に在り、人を去ること遠からず。且に至らんとするを患ふれば、則ち船、風に引かれて去る。蓋し嘗て至る者有り、諸僊人及び不死の薬皆焉に在り。其の物・禽獣尽く白くして、黄金・銀を宮闕と為す。未だ至らざれば、之を望むこと雲の如し。到るに及べば、三神山反りて水の下に居る。之に臨めば、風輒ち引きて去り、終に能く至る莫しと云ふ。世主、甘心せざる莫し。
現代語訳
斉が「斉」と呼ばれるのは、天斉(天のへそ)があるからである。その祭りの起源はとうに絶えて分からない。八神とは、一は天主で、天斉で祭る。天斉とは泉の水で、臨菑(りんし、斉の都)の南の郊外の山の下にある。二は地主で、泰山と梁父で祭る。天は陰を好むので、これを祭るのは必ず高い山の下、小さな山の上で行い、それを「畤」と呼ぶ。地は陽を尊ぶので、これを祭るのは必ず沢の中の丸い丘で行うという。三は兵主で、蚩尤(しゆう)を祭る。蚩尤の祠は東平陸の監郷にあり、斉の西の境である。四は陰主で、三山で祭る。五は陽主で、之罘(しふ)で祭る。六は月主で、萊山で祭る。これらはみな斉の北にあり、勃海沿いである。七は日主で、成山で祭る。成山はひしゃくの柄のように海に突き出し、斉の最も東北の隅にあって、日の出を迎えるという。八は四時主で、瑯邪(ろうや)で祭る。瑯邪は斉の東方にあり、年が始まる場所とされる。いずれも一牢の供え物で祭るが、巫や祝官が増減するので、供える玉や絹はまちまちである。斉の威王・宣王の時代から、騶子(すうし、騶衍)の一派が五徳が終わっては始まる循環を論じて著し、秦が帝となると斉の人がこれを奏上したので、始皇帝はこれを採用した。また宋毋忌・正伯僑・充尚、それに最後の羨門高は、みな燕の人で、神仙の方術を行い、肉体を脱して変化する術を説き、鬼神の事に頼った。騶衍は陰陽が王朝の運命を司るという説で諸侯の間に名を上げた。燕・斉の海辺の方士たちはその術を伝えたが理解できず、こうして怪しげで回りくどい説を唱え、へつらい、その場しのぎで取り入る者たちがここから起こり、数えきれないほどになった。斉の威王・宣王や燕の昭王の時代から、人を海に入らせて蓬萊・方丈・瀛洲を探させた。この三つの神山は勃海の中にあると伝えられ、人の住む所からそう遠くない。しかし、いよいよ着きそうになると、船が風に吹かれて遠ざけられてしまうのが困りものだった。かつてたどり着いた者がいて、仙人たちと不死の薬がみなそこにあるという。そこの物や鳥獣はすべて白く、黄金と銀で宮殿が作られている。着く前に眺めると雲のようで、着いてみると三神山はかえって水の下にある。近づくと風がたちまち吹いて遠ざけ、結局だれもたどり着けないという。世の君主で、これに心を惹かれない者はいなかった。
解説
関連する章句
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史記 封禅書秦の始皇天下を并するに至るに及び、海上に至れば、則ち方士之を言ふこと勝げて数ふ可からず。始皇自ら以為へらく海上に至りて及ばざらんことを恐ると、人をして乃ち童男女を齎して海に入りて之を求めしむ。船交々海中にあるも、皆風を以て解と為し、曰く未だ至る能はざるも、之を望見すと。其の明年、始皇復た海上に游び、瑯邪に至り、恒山を過ぎ、上党より帰る。後三年、碣石に游び、海に入る方士を考へ、上郡より帰る。後五年、始皇南のかた湘山に至り、遂に会稽に登り、海上に并ひ、海中の三神山の奇薬に遇はんことを冀ふ。得ず、還りて沙丘に至りて崩ず。二世元年、東のかた碣石を巡り、海に并ひて南し、泰山を歴て会稽に至り、皆之を礼祠し、而して始皇の立つる所の石書の旁に刻勒し、以て始皇の功徳を章らかにす。其の秋、諸侯秦に畔く。三年にして二世弑されて死す。始皇封禅の後十二歳にして秦亡ぶ。諸儒生、秦の詩書を焚き、文学を誅僇するを疾み、百姓は其の法を怨み、天下之に畔き、皆訛りて曰く、「始皇泰山に上り、暴風雨の撃つ所と為り、封禅するを得ず」と。此れ豈に所謂其の徳無くして事を用ふる者か。昔、三代の君は皆河・洛の間に在り、故に嵩高を中岳と為し、而して四岳各々其の方の如く、四瀆咸な山東に在り。秦の帝と称し、咸陽に都するに至りて、則ち五岳・四瀆皆并せて東方に在り。五帝より以て秦に至るまで、軼いに興り軼いに衰へ、名山大川或いは諸侯に在り、或いは天子に在り、其の礼の損益は世々殊にして、勝げて記す可からず。秦の天下を并するに及びて、祠官をして常に奉ずる所の天地・名山大川・鬼神を得て序づ可からしむ。是に於て殽より以東、名山五、大川の祠二。曰く太室、太室は嵩高なり。恒山、泰山、会稽、湘山。水は済と曰ひ、淮と曰ふ。春は脯酒を以て歳祠と為し、因りて凍を泮き、秋は凍を涸し、冬は塞禱して祠る。
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史記 封禅書其の神或いは歳に至らず、或いは歳に数々来る。来るや常に夜を以てし、光輝流星の若く、東南より来りて祠城に集まり、則ち雄鶏の若く、其の声殷雲として、野鶏夜に雊く。一牢を以て祠り、命じて陳宝と曰ふ。鄜畤を作りて後七十八年、秦の徳公既に立ち、雍に居らんことを卜するに、「後の子孫、馬に河に飲はしめん」と、遂に雍に都す。雍の諸祠、此より興る。三百牢を鄜畤に用ふ。伏祠を作る。狗を邑の四門に磔にし、以て蠱菑を御ぐ。徳公立ちて二年にして卒す。其の後六年、秦の宣公、密畤を渭南に作り、青帝を祭る。其の後十四年、秦の繆公立ち、病みて臥すこと五日にして寤めず。寤むるや、乃ち上帝を夢見るに、上帝、繆公に晋の乱を平げよと命ずと言ふ。史書して之を記し府に蔵す。而して後世皆秦の繆公天に上ると曰ふ。秦の繆公即位して九年、斉の桓公既に覇たり、諸侯に葵丘に会し、封禅せんと欲す。管仲曰く、「古は泰山に封じ梁父に禅する者七十二家、而して夷吾の記す所の者は十有二なり。昔、無懐氏は泰山に封じ、云云に禅す。虙羲は泰山に封じ、云云に禅す。神農は泰山に封じ、云云に禅す。炎帝は泰山に封じ、云云に禅す。黄帝は泰山に封じ、亭亭に禅す。顓頊は泰山に封じ、云云に禅す。帝嚳は泰山に封じ、云云に禅す。堯は泰山に封じ、云云に禅す。舜は泰山に封じ、云云に禅す。禹は泰山に封じ、会稽に禅す。湯は泰山に封じ、云云に禅す。周の成王は泰山に封じ、社首に禅す。皆命を受けて然る後に封禅するを得たり」と。桓公曰く、「寡人、北のかた山戎を伐ち、孤竹を過ぐ。西のかた大夏を伐ち、流沙を渉り、馬を束ね車を懸けて、卑耳の山に上る。南のかた伐ちて召陵に至り、熊耳山に登りて以て江・漢を望む。兵車の会三たび、乗車の会六たび、九たび諸侯を合せ、天下を一匡し、諸侯我に違ふ莫し。昔、三代の命を受くるも、亦何を以てか異ならんや」と。
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史記 封禅書石閭とは、泰山の下の阯の南方に在り。方士多く此れ僊人の閭なりと言ふ、故に上親ら禅す。其の後五年、復た泰山に至りて封を修む。還りて過ぎて恒山を祭る。今の天子の興す所の祠は、太一・后土、三年に親ら郊祠し、漢家の封禅を建て、五年に一たび封を修む。薄忌の太一及び三一・冥羊・馬行・赤星の五つは、寛舒の祠官、歳時を以て礼を致す。凡そ六祠、皆太祝之を領す。八神の諸神、明年・凡山の他の名祠の如きに至りては、行きて過ぐれば則ち祠り、行きて去れば則ち已む。方士の興す所の祠は、各々自ら主り、其の人終れば則ち已み、祠官は主らず。他の祠は皆其の故の如し。今上封禅して、其の後十二歳にして還り、五岳・四瀆に遍し。而して方士の神人を候祠し、海に入りて蓬萊を求むるも、終に験有る無し。而して公孫卿の神を候ふ者は、猶ほ大人の跡を以て解と為し、効有る無し。天子益々方士の怪迂の語に怠厭す。然れども羈縻して絶たず、其の真に遇はんことを冀ふ。此より後、方士の神祠を言ふ者弥々衆く、然れども其の効は睹る可し。太史公曰く、余、巡りて天地の諸神・名山川を祭りて封禅するに従ふ。寿宮に入りて神語に侍祠し、方士・祠官の意を究観す。是に於て退きて古より以来鬼神に事を用ふる者を論次し、具さに其の表裏を見はす。後に君子有らば、得て以て覧ん。俎豆・珪幣の詳、献酬の礼の若きに至りては、則ち有司存す。
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史記 封禅書櫟陽に金雨る。秦の献公自ら以為へらく金瑞を得たりと、故に畦畤を櫟陽に作りて白帝を祀る。其の後百二十歳にして秦、周を滅し、周の九鼎、秦に入る。或ひと曰く、宋の太丘の社亡びて、鼎、泗水の彭城の下に没すと。其の後百一十五年にして秦、天下を并す。秦の始皇既に天下を并せて帝たり。或ひと曰く、「黄帝は土徳を得て、黄龍・地螾見はる。夏は木徳を得て、青龍郊に止まり、草木暢茂す。殷は金徳を得て、銀山より溢る。周は火徳を得て、赤烏の符有り。今秦は周に変る、水徳の時なり。昔秦の文公出でて猟し、黒龍を獲たり、此れ其の水徳の瑞なり」と。是に於て秦、更めて河に命じて「徳水」と曰ひ、冬十月を以て年首と為し、色は黒を上び、度は六を以て名と為し、音は大呂を上び、事は法を上ぶに統ぶ。帝位に即きて三年、東のかた郡県を巡り、騶の嶧山に祠り、秦の功業を頌す。是に於て斉・魯の儒生・博士七十人を徴し従へて、泰山の下に至る。諸儒生或いは議して曰く、「古は封禅に蒲車を為る、山の土石草木を傷つくるを悪むなり。地を埽ひて祭り、席には葅稭を用ふ、其の遵ひ易きを言ふなり」と。始皇、此の議の各々乖異し、施用し難きを聞き、此に由りて儒生を絀く。而して遂に車道を除き、泰山の陽より上りて巓に至り、石を立てて秦の始皇帝の徳を頌し、其の封を得たるを明らかにす。陰道より下り、梁父に禅す。其の礼は頗る太祝の雍の上帝を祀るに用ふる所を采り、而して封蔵は皆之を秘し、世得て記さざるなり。始皇の泰山に上るや、中阪にして暴風雨に遇ひ、大樹の下に休む。諸儒生既に絀けられ、封事の礼に与り用ひらるるを得ず、始皇の風雨に遇ふを聞き、則ち之を譏る。是に於て始皇遂に東のかた海上に遊び、名山大川及び八神を礼祠し、僊人羨門の属を求む。八神は将に古より之有らんとす、或ひと曰く太公以来之を作ると。
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史記 封禅書其の牲は牛犢各一を用ひ、牢具・珪幣各々異なる。華より以西、名山七、名川四。曰く華山、薄山。薄山とは衰山なり。岳山、岐山、呉岳、鴻冢、瀆山。瀆山は蜀の汶山なり。水は河と曰ひ、臨晋に祠る。沔、漢中に祠る。湫淵、朝那に祠る。江水、蜀に祠る。亦春秋に泮涸禱塞すること、東方の名山川の如し。而して牲牛犢・牢具・珪幣各々異なる。而して四大冢の鴻・岐・呉・岳、皆嘗禾有り。陳宝は節来りて祠る。其の河には加へて嘗醪有り。此れ皆雍州の域に在り、天子の都に近し、故に車一乗、騮駒四を加ふ。霸・産・長水・灃・澇・涇・渭は皆大川に非ざるも、咸陽に近きを以て、尽く山川の祠に比するを得るも、諸々の加無し。汧・洛の二淵、鳴沢・蒲山・嶽胥山の属は、小山川たり、亦皆歳ごとに禱塞泮涸して祠るも、礼は必ずしも同じからず。而して雍には日・月・参・辰・南北斗・熒惑・太白・歳星・填星・二十八宿・風伯・雨師・四海・九臣・十四臣・諸布・諸厳・諸逑の属、百有余廟有り。西にも亦数十祠有り。湖に於て周の天子の祠有り。下邽に於て天神有り。灃・滈に昭明・天子辟池有り。社・亳に於て三社主の祠・寿星の祠有り。而して雍の菅廟にも亦杜主有り。杜主は故の周の右将軍、其の秦中に在るや、最も小なる表の神なる者なり。各々歳時を以て奉祠す。唯雍の四畤の上帝を尊と為し、其の光景の人民を動かすは唯陳宝のみ。故に雍の四畤は、春は以て歳禱と為し、因りて凍を泮き、秋は凍を涸し、冬は塞祠し、五月は駒を嘗め、及び四仲の月に祠ること月祠の若く、陳宝は節来りて一たび祠る。春夏は騂を用ひ、秋冬は駵を用ふ。畤の駒四匹、木禺の龍欒車一駟、木禺の車馬一駟、各々其の帝の色の如くす。
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史記 封禅書天子以為へらく化して去り死せずと、而して黄錘の史寛舒をして其の方を受けしむ。蓬萊の安期生を求むるも能く得る莫く、而して海上の燕・斉の怪迂の方士、多く更々来りて神事を言ふ。亳人謬忌、太一を祠る方を奏して曰く、「天神の貴き者は太一、太一の佐を五帝と曰ふ。古は天子、春秋を以て太一を東南の郊に祭り、太牢を用ふること七日、壇を為りて八通の鬼道を開く」と。是に於て天子、太祝に令して其の祠を長安の東南郊に立て、常に奉祠すること忌の方の如くせしむ。其の後、人の上書する有り、言ふ、「古は天子三年に壱たび太牢を用ひて神の三一、天一・地一・太一を祠る」と。天子之を許し、太祝に令して之を忌の太一の壇上に領祠せしむること、其の方の如し。後人復た上書する有り、言ふ、「古は天子常に春を以て解祠し、黄帝を祠るに一梟・破鏡を用ひ、冥羊には羊を用ひて祠り、馬行には一青牡馬を用ひ、太一・沢山君・地長には牛を用ひ、武夷君には乾魚を用ひ、陰陽使者には一牛を以てす」と。祠官に令して之を領すること其の方の如くし、而して忌の太一の壇の旁に祠る。其の後、天子の苑に白鹿有り、其の皮を以て幣と為し、以て瑞応を発し、白金を造る。其の明年、雍に郊し、一角の獣を獲たり、麃の若く然り。有司曰く、「陛下粛祗して郊祀し、上帝報享して、一角の獣を錫ふ、蓋し麟なりと云ふ」と。是に於て以て五畤に薦め、畤ごとに一牛を加へて以て燎く。諸侯に白金を錫ひ、風するに符応の天に合するを以てす。是に於て済北王、以為へらく天子且に封禅せんとすと、乃ち上書して太山及び其の旁の邑を献ず。天子、他県を以て之を償ふ。常山王罪有りて遷さる。天子其の弟を真定に封じ、以て先王の祀を続がしめ、而して常山を以て郡と為す。然る後に五岳皆天子の郡に在り。其の明年、斉人少翁、鬼神の方を以て上に見ゆ。
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